間諜

 “知らないの? 宝相華の花は、王妃様しか身に着けてないけないものだって―”


 あの晩、玉惺から聞いた言葉は天雲の胸に残り続けている。

 彼女の言葉が誠ならば、天雲が持っている佩玉は先代の王妃か、または現王妃のものということになる。

 どちらにせよ、王族と関りのない己が何故そのようなものを、物心付く頃から握り締めていたのか―。

 唯一可能性かあるとすれば、宮廷と関りのある白陽だが万が一そうだとしても、それを天雲に渡す理由が釈然としない。

 どうにも、この佩玉の件と己が宮廷に近づけぬ理由が、絡んでいるようにしてならない。


 佩玉の壁に彫られた、宝相華の意味を聞かされた天雲は、真相を確かめるため何度も白陽に尋ねようとするがその都度、喉が詰まるような感覚がし聞けないでいる。

 真相を知ったら最後。白陽との間に溝が出来るような、更に言えば親子の関係が音を立てて崩れていくような怯えが付き纏う。

 白陽とて、そのような息子の様子を見て見ぬふりをする父親ではない。一日のうちに何度も、「父さん」と声を掛けるが直ぐに「なんでもない」と頭を振り、口ごもる天雲をなんとも言えない表情で見つめている。


 そのようなことが続いたその日。

 当に黴雨の季節を迎え、この数日は淫雨いんうが降り続いている。この黴雨の季節であっても、白陽の職務が暇になることはない。

 日の入りと共に宮廷に向かい、日の出と共に帰路に着く日々が三日続いたのち、一日休みになるという周期を繰り返している。


 その日も淫雨が降り続く中、白陽は番傘を差し宮廷まで向かう。邸の外まで出立を見送りに出ていた天雲に声を掛けた。

「天雲。なにか言いたいことや、悩んでることがあるのなら、遠慮せず話せ。解決できるか保証は出来ぬが、話を聞くぐらいなら幾らでもしてやる。

 何といっても、お前の父親だからな」

 得意げな声音と表情の白陽に、天雲は「あぁ」と頷くしか術はない。

こんなこと話せる訳がない―。

例え父親であっても―。

話してしまったら―。

 雨の中、番傘を差し宮廷に向かう白陽の背を見つつ、佩玉が仕舞われている懐に触れる。知らず知らずのうちに、懐に触れる指先が震えている。

 天雲は己を落ち着かせ、震えを隠す為に深衣の上から佩玉を握り締める。


* * * * * *


 華炎の命に従い、朱羅が月暈国の土を踏んだのは、黴雨も末期に差し掛かろうかとした時期であった。故郷である火紗国の乾燥した空気とは違い、月暈国の湿気が肌に纏わりつくかのような気候は、朱羅にとって今まで経験したことがない感覚である。

 

 最も朱羅ひとりで月暈国に入国したわけではない。

 国境を越え最初の地域、月虹げっこうは鉱山があり、良質な鉱物が取れる地域で有名である。と同時に、火紗国・天香国の二国に隣接し月暈国を含め、三国の文化と言語が入り混じる。

 どの国でも、国境近くの地域というのは都に比べ治安が悪く、そのような地域には良からぬことを企んでいる輩も存在する。

 それが、異国から来た女人が相手となれば尚のこと。

 

 それ故、国境までは華炎の命により火紗国の武官が付き添い、国境を越え月虹に入れば皓月の計らいにより、宮廷から輿が用意された。

 朱羅は輿に乗り、王都・宵月にある宮廷まで揺られることとなった。


 他でもない宮廷が所有する輿が、僻地を通過することに月虹の民は何事かと目を瞬かせる。

 民の中には、新たな妃の入内かと見当違いに囁く者もいる。

 悪天候の中、四人の力者りきしゃが、ながえを持ち輿を担ぐ。輿の周りを、護衛の為に二十人程の衛尉の官吏が番傘を差さずに取り囲み、歩みを進める。

 

 その大袈裟ではないかと思う程の慎重さに、朱羅は己が皓月が思案しているような“巫女”としてではなく間諜として、宮廷に入り込むことに罪悪感を覚える。

 

 輿の小窓は閉じられ外の様子を窺うことは難しい。聞こえて来るのは、民の話し声と雨音のみである。

 朱羅の隣には、火紗国と月暈国どちらの言語にも明るい官吏が付き、建国の歴史や国の仕組みなどを解説していく。

「長旅でお疲れでしょう。朱羅様」

 解説をぼんやりと聞いていたからか、気が付くと官吏が彼女の顔を覗き込んでいた。

「いえ。少し考え事をしていたもので……」

 朱羅は月暈国の言語で返し頭を振る。

「こちらの言葉がお分かりになるのですか」

 火紗国の言語での問いが、月暈国の言語で返答されるとは思わなかったのか、官吏は眼を瞠る。

「必要最低限ですが」

 慣れない言語と、官吏に対してどこまで好意的に接すればよいのか分からず、朱羅の物言いは素っ気ない。


 間諜として乗り込むように、と王命を受けてから二ヶ月あまり。

 出立までに朱羅に課せられたのは、月暈国の言語を必要最低限習得すること。幾ら、火紗国の言語に明るい者が月暈国にいるとしても、自分で意思疎通を図る姿を見せることで、此度の件は上手く運ぶと華炎は自負している。

 更に言えば、月暈国の言語を学ぶ姿勢を見せることで、国に対する友好的な関係を築きたい意思を示すことが出来ると華炎は思案している。

 

 最初は話すことは疎か、聞き取ることさえ覚束ないものだったが、日々修練を重ねるうちに徐々に言語を聞き取ることが出来るようになった。聞き取ることが出来るのと比例して、徐々にではあるが話すことも出来るようになり、今ではたどたどしさは残るが、最低限の会話に関して支障はない。

 

 他国から華炎という女帝は、滅多に宮の外に出ないからか、どこか浮世離れした掴み所のない人物のように思われている。しかし、朱羅から見れば彼女は、実に聡明で計算高い人物だ。

 “華炎”という名を与えられた、その日からずっと。


 彼女の言動には全て意味があり、火紗国がより弥栄な国に発展するためだと朱羅は信じている。


 月虹から都までは約二日。それ故、一行は都の手前で宿を取り一泊する運びとなった。

 月暈国に入国して二日目。

 昨日までの叩き付けるような雨音はないが、それでもしとしとと小雨降り続き空気は湿気を含んでいる。

 先程まで話し声より雨音の方が大きかったはずが、いつの間にか話し声の方が多く耳に入る。

都に入ったのだろうか―。

 小窓を開けようと、手を伸ばす。だが、彼女の行動に気づいた官吏が真顔で頭を振った。

「異国のしかも女人が、むやみに外を見るものではありませんよ。

 危険がどこに潜んでいるか分かりません。

 更に言えば……」

 官吏は言葉を切り、朱羅の頭からつま先まで視線を這わせる。

 まるで視姦とも取れる視線に、朱羅はさっと視線を逸らす。


「何か?」嫌悪感から声が尖る。

「いえ。ただ、その服装では好奇の目で見られるでしょう。

 宮廷に参内し王様に拝謁された後、貴女様に合う襦裙をご用意いたします」

 官吏の言葉に、朱羅は断りを入れようと口を開く。しかし、官吏の言い分は至当である。


 朱羅が身に纏っているのは、火紗国の服装である聴色の薄い衣を幾重も重ねたものである。

 一目見るだけで、異国の民だと分かる服装で宮廷内を歩くのは危険が生じる。


 自分がどれだけ、危機感なく異国に入国し留まるのか。己の軽率さを、見せつけられたかのようである。


 朱羅の胸中などお構いなしに、輿は都を進んでいく。

 先程、朱羅の行動を咎めたからか、輿の中の空気は重く、ふたりの間に会話はなく沈黙が満ちる。

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