退位
念願
新緑の葉に雨粒が落ちる。
絶え間ない雨音を聞きながら、皓月は紺藤色の夜着を身に纏い寝台の上で横になっていた。
本来ならば朝議に出て、臣下らと国政について論じる時間である。しかし、今朝は雨の為か頭重感と倦怠感、更には周りが揺れているような、何とも言い難い悪心に襲われていた。
「皓月様」寝台の横から、
「
彩雲の言葉に、皓月が低い声で「通せ」と指示を出す。皓月の指示に従い、立ち上がると宮の出入り口に足を向ける。
彩雲は宮の外で控えている、小太りな体格と人の良さそうな眼をした宮廷医・雲霓に揖礼を捧げる。雲霓は
「ご足労をお掛けいたします」彩雲の言葉に、雲霓は頭を振る。雲霓が両手に持っている盆の上には、
雲霓は先王・盈月の御代より、宮廷に仕えている。通常、宮廷医は王が崩去した際に、共に
彩雲は雲霓を先導し宮の中に入る。
雲霓の姿を認めた皓月は、ゆっくりと上半身を起こす。頭を動かすと視界の揺れが増すようで、きつく眼を閉じる。
彩雲は皓月の横に控え、背を支える。
「王様。少しよろしゅうございますか」
雲霓が揖礼を捧げ口を開く。皓月が瞼を開け「構わぬ」と呻くように言う。
「煎じ薬をご用意いたしました」
雲霓の口から出た、“煎じ薬”という言葉に皓月は思わず眉を顰める。
「お飲みにならなければ、良くなりませんよ」
背後から彩雲が釘を刺す。皓月は更に眉を顰める。
皓月は渋々といった体で、雲霓から煎じ薬が入った鉢を受け取る。生薬の何とも言えない匂いに、顔をしかめる。
皓月は恐る恐る口縁に口を付け、煎じ薬を口に含む。生薬の苦みが口いっぱいに広がる。
皓月は煎じ薬を一気に飲み干し息を吐く。
生薬特有の匂いも苦みも、煎じ薬が温かくなければ多少は軽減していたと思う。温かい煎じ薬故、匂いと味が増しているように思う。
煎じ薬を口にしたことで、悪心が増した気がして胸の辺りを擦る。
「ありがとう」雲霓に礼を言うと、手にしていた鉢を手渡す。
雲霓が鉢を受け取り、揖礼を捧げたことを確認すると、皓月は再度寝台に横になる。
雲霓が皓月の宮に訪れていた同時刻。
正殿・
本来なら皓月が座るはずの玉座は空白ができ、玉座の横に
臣下らは左右に分かれ列を成し、珀惺をはじめとした右に列を成す者は
朝議が終わり臣下らが退室すると、正殿には秀鈴と珀惺、初虧の三人のみが残る。
「王様はどちらに?」初虧は玉座に続く階を上がり、秀鈴をちらりと見て問う。
「宮にて休んでおります。雲霓様が様子を見に」
秀鈴の物言いに、初虧はため息をひとつ。
「またでございますか。天候が悪くなる度、寒暖差が大きくなる度……」
うんざりだ勘弁してくれと言わんばかりの口調。
「太后様。やはり例の件、お早めに決断なされた方がよろしいかと。今の王様では、この国を治めることは不可能かと存じます」
先王盈月の崩去後、皓月を王に据えることを最後まで反対していたのは、他でもない初虧である。皓月の即位の際、秀鈴が“自分が摂政となり皓月を支える”と、初虧を半ば強引に説得し、皓月を即位させた。
即位から四年経つが、未だに初虧は皓月が王座を継承したことを、良く思っていない。
「お世継ぎがいれば、話は別でしょうが……」
初虧は呟き、鋭い視線を階の下にいる珀惺に向ける。視線に気づいた珀惺は、ぴくりと肩を震わせる。
珀惺の愛娘・
「それは……」どう言えば良いのか分からず、珀惺は口ごもる。
「王様にとって、お渡りはご負担なのでしょう。故に、お世継ぎの件も積極的にはならぬのかと。
王様はお世継ぎを実子でなくとも構わないと、お考えです。王族の中から、養子を選んでも良いと仰せで」
珀惺の発言に初虧は鼻で嗤う。
「では、満月の晩に生まれた王族の男児なら誰も良いと?
戯言など聞きたくはございません。
政もせず、お渡りにもならない。これでは、王様は王としての務めを果たしていないのも当然ではございませんか。そのような王など聞いたこともない」
吐き捨て舌打ちをする。
視線を秀鈴に戻す。
「お世継ぎと言えば太后様。数日前に文が届いたのではございませんか」
初虧の指摘に、秀鈴は眉間に皺を寄せる。
文の内容は、珀惺の耳に入れるのは憚られる。秀鈴は微かに頷く。
襦裙の懐を探り一通の立て文を取り出す。臼桜色の麻紙を折った立て文は、隣国・天香国の若き王からである。
「文にはなんと?」珀惺が問う。
「王妃が懐妊したと。
即位までにはすったもんだありましたが、これであの国も安泰でございましょう。お生まれになるのが、男児ならばですが」
秀鈴が感情を入れず淡々と答える。
「確か……。
卑しい身分の女人を、半ば強引に王妃に据えたのではありませんか。王室の繁栄より、己の恋い慕う感情を優先して」
一年程前に即位した、若き王と王妃のことは当然珀惺の耳にも入っていた。
珀惺の言葉に秀鈴が頷く。ふたりの様子を見聴きしていた初虧は、気付かれぬように唇を噛む。
どうして即位間もない隣国は安泰の兆しが出て、我が国はこれほどまで危ういのだろう―。
やはり、皓月様を王に据えるべきではなかった―。
世継ぎが出来ぬことも、皓月が病弱なのもどちらも誰の責でもない。ましてや、母である秀鈴を責めるなど、とんだお門違いである。そう頭では理解しているのに、どうしても大国の天香国と月暈国を比べてしまう。
初虧が口を開く。
「太后様。王様に退位をお求めになっては如何です?
勿論、遠回しに。ご静養を提案されては?」
今度は秀鈴が唇を噛む番である。
やはりそう来たか―。
元々、皓月が王座にいることが気に食わない初虧のことだ。遅かれ早かれ、秀鈴にそう口添えするだろうとは思っていた。
「皓月を退位させて、どうなさるおつもりですか」
秀鈴の冷ややかな声に、初虧はまたもや鼻で嗤う。
「新たな王を据える、それだけにございます。王様の弟である
少なくとも、偃月様はその心積もりがあるのでは?」
偃月は穏やかな皓月とは違い、武術の腕に優れ野心のある人柄。故に、初虧は皓月より偃月の方が王に向いていると思っている。
だが、秀鈴や珀惺が思うに、初虧の思惑はそれだけではない。
「偃月様が即位なされれば、初虧様の御息女・
珀惺の指摘に少しも動じない。
初虧の娘・六華は偃月の正妻である。勝気な性格で王妃の座を望んでいる六華が、この機会を逃がすはずがない。更に娘が王妃に即位すれば、父である初虧は外戚となり、恐らく左丞の座…いや丞相の座を得る可能性もある。左丞や丞相の座を得れば、今より深く国政に関わることが出来る。
皓月の退位は親子にとって好都合である。
「太后様。一度、王様と腰を据えればよろしいかと」
この場に似合わず、初虧はにっこりと笑う。しかし、その眼は微塵も笑っていなかった。
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