第33話 森のカピバラさん

「うそ……カピバラ?」


 どうしてこんな森の中にカピバラがいるのだろう。しかも黒い。黒いカピバラなんて存在するのだろうか。しかし姿かたちはまごうことなき藍華の知るカピバラなのだ。


 要するにとっても愛らしい。


「そっか。ここ異世界だもんね。黒いカピバラがいてもおかしくないよね」


 藍華は一人で納得した。

 そしてカピバラを見つめる。つぶらな瞳と目が合った。


「やだ……可愛い」


 キューンとした。この独特な体のフォルムと少しやる気のない表情がなんとも愛くるしい。カピバラはじっと藍華を見据え動こうとしない。野生動物にしてはやや人慣れているようにも思える。

 その前にこの愛くるしさの前に藍華の方も動けない。

 その佇まいはまさに癒しだ。


「おいで」


 そっと呼びかけてみる。すると前足がわずかに動いた。

 ぽてぽてと歩いてくるカピバラに藍華はじっとしながら身悶えた。


(はうぅぅぅ。可愛い! ナニコレ、めっちゃ可愛い。え、こっちのカピバラって人に懐くの?)


 顔には出さないが心の中は大変に騒がしい。そうこうしている間にカピバラは藍華のすぐ目の前に来ていた。四本足には水かきもついている。こちらのカピバラも温泉に入ったりするのだろうか。


「まさかこの近くに温泉が?」


 少々大きな声を出すとカピバラがきょとんと藍華を見上げた。あざとすぎる顔つきだ。ああ可愛い。カピバラは再び顔を下に向け、今度は藍華の衣服の匂いを嗅ぎ始める。人慣れしすぎている。


「もしかしてこの近くにカピバラ牧場があったりする? やだ、絶対行く」


 せわしなくひとり言を呟く合間もカピバラは藍華の匂いを嗅ぎまわる。そして一点に的を絞りはじめた。


「え、ここが気になるの?」


 藍華がポケットに手を入れる。そこには今日のおやつを隠し入れている。

 がさごそ取り出したのはハンカチだ。クッキーが包まれていて、カピバラはどうやらクッキーに執心しているようだ。


「カピバラって葉っぱを食べていたよね? え、こっちのカピバラは雑食なの?」


 動物園や動画サイトで観たカピバラは主に葉野菜を食べていた。けれども、藍華が今手に持っているのはクッキーだ。野菜クッキーなら何となくわかるが、これは本当にシンプルなクッキーだ。村長の奥方と藍華とリタが作った。


「だめだよ。お腹壊しちゃう」


 藍華は両手を上に持ち上げ、カピバラからクッキーを守る。


――我は腹など壊さない――


「ん?」


 頭の中に声が響いた。

 藍華は辺りをきょろきょろ見渡した。誰もいないし、なんの気配もない。のどかな森の風景が広がっているだけだ。


――我だ。我。おぬしの下にいるだろう――


 再び声が響き、藍華は恐る恐るカピバラを見下ろした。再びつぶらな瞳と目が合った。ああ可愛い。


「え……?」


 じーと見つめ合う藍華とカピバラ。一人と一匹は微動だにしない。たっぷり十秒ほど固まったのち。


「ええええええっ!」


 藍華は文字通りのけぞった。すると持ち上げていたハンカチからクッキーがこぼれ落ちた。カピバラがのそのそと動き、落ちたクッキーをもしゃもしゃと食べ始める。


「え……ええええ~?」


 もうどこから突っ込めばいいものか。藍華は目の前の珍事を呆然と見守った。

 カピバラは呑気に食事を続け、ついには完食した。


――まあ、悪くはないな――

 若干上から目線な感想までいただいてしまった。


「アイカー」

 少し離れた場所から自分を呼ぶ声が聞こえた。クレイドだ。びっくり体験のせいで時間の経過を失念していた。


「クレイドさーん」

 藍華は自分の居場所を知らせるために大きな声を出した。それを頼りに人の気配が近付いてくる。


「アイカ、遅いから心配した」

「すみません。色々とビックリなことが起こって」


 近くまで来たクレイドが大きく息を吐いた。藍華が呑気に物思いにふけってからのカピバラとの衝撃の出会いをしていた間、彼は自分のことを探し回ってくれていたらしい。


「ええと、今しがたカピバラと出会いまして」

「カピバラ?」


 ひとまず何が起こったのかと言うことを報告しようと思い口を開くと、クレイドが眉をひそめた。


「はい。カピバラです。この世界には黒いカピバラがいるんですね。私の知るカピバラは薄茶色なのでビックリしました」

「……カピバラというのは動物……なのか? 男の名前じゃなくて?」

「あれ? この世界にはカピバラって存在しないんですか?」


 クレイドの反応から藍華は自分の中に入っている女神さま特製自動翻訳機がうまく作用していないことを悟った。基本的に双方認識の違いがなければ相手には自分の伝えたいことが翻訳されるはずである。

 ということは、この世界にはカピバラが存在しないのか。もしくはクレイドが知らないだけかもしれない。


「ついさっきまでここに……って、いない?」

「動物なのか。狼の類でなければそこまで危険ではないと思うが……」


 実物を見ていないクレイドには判断がつきかねるのか、訝しげに首を傾けている。

 藍華は近くをうろちょろしてカピバラの姿を探した。そんなにも俊敏ではないはずなのだが、姿がまったく見えない。


(もしかしたら魔法の類なのかな? なんか、しゃべれるようだったし)


 妖精か何かかもしれない。女神と魔法と竜が存在するのだから不思議なカピバラがいてもおかしくはないはずだ。


「アイカ、行くぞ」

「はあい」


 一人で納得した藍華はクレイドの後に続いた。もしも本物の妖精ならココア味のクッキーを食べたのも納得だ。また会えるといいなあと思いながら藍華はクレイドと一緒に村へ帰った。

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