第5話 愚者の試練Ⅱ

 今思えば、この喫茶店も9年ぶりだったかもしれない。

 ふわりと心地よく広がるコーヒーの香りと、控えめで小気味よいジャズのBGMが当時の俺にとって創作意欲の源だったのだろう。


 彼女と待ち合わせする時はいつもこの喫茶店だった。

 いつも俺が早めに行って、ノートパソコンを広げて小説のネタを考えていた。

 約束の時間よりも少し早めに彼女がやってきて、二人揃ってブレンドを頼む。


 そうだ。

 そうやっていつもの日常を繰り返してきたんじゃないか。

 その時間が大好きだったことを今になって思い出すなんて、どうかしている。


「なんか、雰囲気変わったね。なにかあった?」


 明日香が、俺の顔をじっと見てそんな事を言った。

 内心どきりとしてしまったが、平静を装いながらいつも通りだよ、と言ってみる。


「ふぅん? 今日はパソコン持ってきてないの?」

「あぁ……まぁ、たまにはね。ゆっくり話す時間も良いかなって」

「そっか」


 やっぱりまだぎこちない。

 仕方がないだろう。

 だって9年ぶりに9年前の恋人と話すことになって、目の前の恋人がついさっき9年後の時点で人妻へとクラスチェンジしてしまっていたんだから!


 どれだけ9年前の記憶を思い出したとしても、この9年という溝は簡単には埋められないほどの時間が経っている。


 けれど彼女はそんなことなどつゆ知らず、コーヒーにゆっくりと口をつけて美味しそうに飲んでいた。


 俺はといえば、正直コーヒーの味を楽しむ余裕はあまりなかった。

 この後に起きる展開を考えれば、気が気ではないからだ。


 ☆☆☆


 ――実際に起きた9年前の出来事だ。


 俺はいつも通りパソコンを広げて得意げに文章を考えていた。

 いつも通り、明日香がやってきてブレンドを注文する。


 たしか、俺は次のコンテストに提出する小説の新しいテーマについて悩んでいるんだと呑気のんきにそんな話を明日香にしたような気がする。


 それで、お互いにコーヒーを飲み終えた頃。

 明日香はこんな話を切り出したんだ。


「ねぇ、祐樹くん。このままでいいの?」


 その時の明日香の表情は、いつもの元気なものではなく、どこか神妙しんみょう面持おももちだった気がする。


「その……ね。将来のことなんだけど」


 俺は、当時から自分の実力を過信していたんだ。

 どこから湧いてくるのか分からない謎の自信。

 けれど明日香が聞きたいのはそんな与太話よたばなしではないことくらい、俺もすぐに分かった。

 分かっていたさ。俺はどこか焦っていたんだ。


 4年もあったはずの大学生活がまたたく間に終わり、その間に俺は何かコンテストで爪痕つめあとが残せると思っていた。


 けれど現実はそんなに甘くなく、コンテストには落選し続けてばかり。

 友達は社会人となり、明日香だって新卒で不動産会社に内定がもらえたと喜んでいた。

 だけど、俺は何も成長しないままで。

 そう、焦っていた。


 たぶん、俺は明日香に言い訳をしていたんだと思う。

 今は運が悪いだけとか。

 もう少し丁寧ていねいに構想をればきっと良い作品が書けるとか。

 そうすればコンテストもきっと通るとか。

 そうすれば……そうすれば……


「ねぇ、祐樹くん。今からでも頑張れば既卒きそつでも行けるところはあると思う。内定が取れなくて困っている子もいたから。でも、祐樹くんはこのままだと正社員になりたくてもなれなくなってくるんだよ?」


 ごもっともである。

 明日香は本当に良い子だ。

 俺にはもったいないくらい。


 当時の俺はあろうことか明日香の忠告に対し真剣に耳を傾けることはしなかった。

 俺には出来ると、愚かにもそう信じていた時期だったんだ。

 身の程を知らないということ。

 これほど恐ろしい事はないだろう。

 当時の俺をぶん殴ってやりたいぜ。


 この時も、明日香は俺の事をよく考えてくれていたんだ。

 ここから9年後に他の人と結婚することになるなんて、まるで想像できない。

 想像ができなかったからこそ、俺は今の関係がずっと続くと思っていたんだ。


 ひどい話だ。

 自業自得じごうじとくという言葉がこれほど似合う男は他にいないだろう。


「祐樹くんの書きたい小説は、働きながらでも出来るでしょう?」


 ああ……、そうだ。

 俺はこの時、何を血迷ったのか。

 この明日香の言葉がしゃくさわったんだ。

 きっと、過去の自分を否定されたような気がしたからだ。

 明日香の言葉の真意は、今ならば分かる。

 今だから分かる。

 もしかすると、明日香はこう言いたかったのではないか。


 ――もっと上手くやれる方法があるだろう、と。


 けれど、当時の俺はその言葉を受け入れられなかった。

 平凡な道を選んだお前らに俺の気持ちなど分かるものか、と。


 本当にどれだけ子供なんだお前は! と説教してやりたい。


 そして不機嫌になり、次第に怒った俺はあろうことか会計だけ済ませ、彼女のことを気にもかけずに帰ってしまった。

 それが、破局の決定打となった。


 彼女から『もう、無理かな』『別れましょう』というメッセージを受け取り、そのまま俺は不貞腐ふてくされるようにバイトにはげみ、次第に鉄がびていくように小説を書くという気持ちも薄れていった。


 俺は一体、何を目指していたのだろうか。


 ☆☆☆


 しかし、試練とやらのおかげか俺は再びこの時間へと戻ってきた。

 人生をやり直すという願ってもないチャンスが到来したわけだ。


 いや、もしかしたら死ぬ前の走馬灯そうまとうのようなものかもしれない。

 どちらにせよ、俺はこの過去を清算しておきたい。

 一生、後悔し続けたことだから。


 明日香がカップを空にするまで、お互いに沈黙が続いていた。

 俺も話題を探してはみたものの、結局は言いあぐねる始末だ。

 ついに、何も話せないまま『その時』が訪れてしまった。


「ねぇ、祐樹くん」

「……ん?」


 ついに来た、と思ったが明日香の表情が過去のものとは違っていた。


「さっきからどうしたの? なんか変だよ?」


 明日香はまるで不思議ふしぎなものを見たかのような表情で、俺の顔を下からのぞくように首をかしげる。


「そ、そうかな……?」

「うん、何かいつもの祐樹くんじゃないみたい」


 どきりとした。この時の俺ってどんなだっけ?


「なんか、いつもより落ち着いてて……大人っぽい」


 明日香はくすっと、唇をほころばせる。

 はい、かわいい。

 っていうか、この時の俺はただの痛い奴だったんだよ。

 マジでゆるして。


「……明日香」

「ん?」

「ごめん」


 俺は、明日香から本題を切り出される前に謝っておこうと思った。

 あまりにも唐突に謝ったので明日香はびっくりしたような声を小さく上げる。


 ――卑怯ではある。

 明日香の気持ちをすでに知っているのだから。

 けれど、今ここにいるの本心をここで伝えておくべきだと思った。


「俺が不甲斐ふがいないせいで、明日香にはたくさん心配させたと思う」


 明日香が花嫁姿で笑っていた未来の記憶と重ねながら、言葉を押し出す。


「俺、就職するよ。明日香と、ずっと一緒にいたいから」


 今までの自分の過去を悔いながら、俺は結末を変えてやろうと決意の言葉を口にしたのだった。

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