「初陣・――特別な、夜明け」

 宿舎の二段寝台しんだい寝心地ねごこちはよくないが、野営の中で一晩を明かすのもつらいものだ。

 天幕は雨と風をしのいでくれるが、地面の固さは防げない。二枚の毛布を上手じょうずに使ってなんとか寝心地のいい状態を確保し、背嚢リュックサックのひとつをまくらにするニコルは、おおよそ快適とは言いがたい寝床ねどこの中で浅いねむりをむさぼっていた。


 ひとり旅であれば、宿泊しゅくはくする場所を調整したり、自分で道具を準備したりで、この寝心地の悪さをある程度は緩和かんわできるだろう。しかし行軍では、武器や防具などの装備一式いしきを運ばなければならないのだ。これが想像以上の、文字通りの重荷となった。


 人間ひとりが運ぶことのできる量、重さは限られる。重い装備が加わる分、余計な道具は重さをけずらなければならない。その削られる重さの中に快適さを助けるものがふくまれる。


 そうやってできた、この満足ではない寝床において、ニコルは眠らなければならない。眠らなければ明日あしたつかえる。消すことのできなかった疲労ひろう眠気ねむけは必要な集中力を欠くことになり、万が一の事態における対応力を決定的にそこなうことにつながりかねない。


 すべては事前に座学で教えられてきたことだが、話を聞くのと体験するのとではまるでちがう。これも全て慣れが解決してくれるというのか。


 そんなことを、起きているのか眠っているのか曖昧あいまいな境界、夢とうつつの両方で考えていたニコルは、自分のかたうごかす感触かんしょくを覚えていた。


「ニコル、ニコル、起きなよ。見張りの時間だ」

「…………あぁ…………」


 となりていたマルダムが起き出し、ニコルの体を揺すってくれていた。起きなければ、という義務感が考えるよりも早くニコルの体を起こす――まだ、頭は覚めていないが。


「これをみなよ。頭がえる」

「うん…………」


 マルダムが小さな板状のものをニコルに差し出した。銀色の包装紙に包まれたそれをニコルは受け取って包装を解き、樹液を煮詰につめて冷やし、うすい板状に整形したものを口の中に入れて噛んだ。ハッカの強烈きょうれつ清涼感せいりょうかんが口元から全部の神経にしていくのがわかる。


「う…………! やっぱりこれ、すごいね…………!」

「軍用の特製品だ。一日一枚にしておけって言われてる。くせになるらしいからね」


 先に出たマルダムに続き、軍靴ぐんかに足を通したニコルは天幕からい出して外に出た。まだ空は白みがかってもいない。篝火かがりびの明かりをたよりにいくつもの天幕の間をって指定の方角に歩き、そこで立っている二人ふたり騎士きし見習いたちの姿を認めた。


「おはようございます。交代します」

「ああ、やっと交代か。あと三時間くらい寝られるかな」

「三時間寝て、三時間立って、三時間寝るのは貧乏びんぼうくじだな、ははは……」

「おつかさまです」

「ああ、お疲れ」


 つえのように地面に立てていた鋼鉄の長槍ながやりを受け取り、天幕群の方に去って行く二人の騎士見習いの代わりにニコルとマルダムが周囲の遠方に向けて視線を向ける。

 その方向を向いている人間は、自分たち二人しかいない。


 あと三時間したら夜明けが来る。夜が明ければ中隊は出発し、予定の順路を回る。

 その夜明けを立って待ち続ける二人に、今は時間の感覚を伝えるものはない。頭上の遠くに広がる星の動きは時計とけいの短針の動きと同じくらいゆっくりで、時をはかる基準になり得なかった。


 朝が来るのは、東の空からのぼる太陽のおとずれだけが教えてくれる――。


「明日からは帰還きかんになるね。遠方に出向くのも今日きょうが最後だ」


 ニコルと目を合わさずにマルダムが直立不動の姿勢でそう言った。後方の篝火の明かりが薄く照らされる土の地面に、自分たちのかげをぼんやりと投げかけている。


明後日あさってにはゴッデムガルドに帰れるかな。そうしたら休暇きゅうかが一日だ。うれしいね」

「休暇…………」


 この騎士団に入って初めての休みだった。


「ニコル、君は知り合いの家でのんびりさせてもらうって言ってたね」

「うん。実家のように居心地いごこちがいいんだ。家の人も親切にしてくれる」

「いいなぁ。ぼくはどうやって過ごそうか。宿舎をひとりで占領せんりょうしてゴロゴロするかな」


 苦笑くしょう交じりにマルダムは肩を揺らした。遠くに投げかける視線は、揺らがない。


「マルダムは、実家に帰ったりは……ああ、少し遠いのか……」

「片道に一日かかるんじゃ、帰れないよね。もう騎士団に入ってから一度も帰ってないさ。正騎士になると数日の休暇があるらしいけれど、そこまで行くのはいつの日なのやら」

「厳しいね……」

「厳しいのはニコル、君も同じさ。君の方がはるかに遠いんだ。王都まで片道四日だろう? 馬を飛ばしたって半分だ。実家がこいしくないかい?」

「恋しいけれど、覚悟かくごして自分で決めたことだから……」


 ニコルは半分、自分に言い聞かせるように唱えた。


 そう、これは自分で決め、自分で始めたことなのだ。

 折れる自由も自分にはあるのだろうが、そんなことはみっともないと思うのが少年の矜持プライドというものだった。


「それが僕と君の違いなのかな……。僕は親に言われて、気は進まなかったけれどほかにやりたいこともなくてここにたから。――ねえ、ニコル。何故なぜ君はそんなに騎士になりたいんだい? いや、君の体術が騎士に向いていることはわかるけれど、なんていうか、意識の方はあんまり向いていない気がするんだ」

「どういうところからそう思うんだい?」

「ゴーダム公爵こうしゃく家閣下の皆様みなさまに対する姿勢からさ。君が公爵家の方々のお気に入りになっているっていうのは評判になってるよ。よく公爵邸の母屋おもやに出入りしているのもうわさになってる」

「やっぱり見られているよね」


 別に後ろめたいことではないのだが、噂になるという理屈りくつもわかる。噂というものは口を伝うごとにふくらむものだ。そのあとにどういう膨らみ方をするのかを想像してニコルは苦笑するしかなかった。


「それだけ気に入られているのなら、普通ふつうはそれを利用しようって思うのが普通じゃないかい? 奥様おくさまが君を可愛かわいがっているのももう、有名になっているからね。自分ならいくらでも取り入って出世の機会チャンスにするとか、よく食堂で会話が聞こえるよ」

「……それが、僕が騎士に向いていない理由なのかな?」

世渡よわたり上手じゃないと上にはあがれないっていうのが、僕の父の言葉だ」

「…………」


 マルダムのその言葉に、ニコルは言葉が返せなかった。


「ゴーダム公爵閣下は確かに実力本位の人だ。だけど、この公爵領だって公爵閣下だけの裁量では動いてない。騎士に上がるには体の技術だけではダメさ。周りの支持も推薦すいせんも大事な要素だ。でも君は結構人見知りする方で、人付き合いは苦手だろう?」

「……自分から人脈をつないでいくのが苦手っていうのは、そうかも知れない。僕は受け身な方だから……」

「君を知った人間は君を好きになる。でも今は君に対する噂が先入観を作ってかべにする。その先入観をえていくのには自分から働きかけないといけないのだけど、君はそういう技術にはからっきしのようだ。巧言令色こうげんれいしょくっていう言葉からは遠いんだよね」

「反論できないのが悲しいよ」

「でもそれが君のいいところで、君がズルくなれないところを人は好きになるんだろうな……特に、公爵閣下みたいな方はそんな不器用な人間が大好きだ。ご本人が不器用だからね。公爵閣下は政治的には孤立こりつされている方だから。公爵という位を考えたら、貴族の世界の中では政治力は無力に近いなんていう人間もいるくらいだよ」

「そうなんだ……」

「僕なんかはただ不器用なだけだけど。ニコルと一緒いっしょ手柄てがらを上げてがんばるしかないか。どうも盗賊とうぞくたちの動きが活発らしいんだ。昨日きのう、君が殺されかけたあの盗賊団みたいに。まぼろしの盗賊団をどうにかできない騎士団をあなどって動き始めたのさ。迷惑めいわくなことだけど、武功を上げる好機でもある。騎士団はそういう奴等やつらを退治するためのものでもあるからね」

「――今日も、昨日みたいに盗賊たちと接触せっしょくすることになるのかな……」


 重傷をよそおい、油断していたニコルに毒針をんで逃亡とうぼうしようとしていた昨日の盗賊と目が合った一瞬いっしゅんつつがこちらを向いた時に体中の血が冷えに冷え切った瞬間しゅんかん恐怖感きょうふかんを少年は思い出す。アリーシャが石を投げつけてくれなければ、顔の真ん中に毒針がさり、鏡で見ることもためらわれる顔にされていたはずだった。


「しばらくは僕と二人で動こう。君はまだひとりで戦場を立ち回るのは危なっかしいね」

「そうだね……よろしく頼むよ、マルダム」

「お任せあれ。その代わり手柄は半分こでよろしく」

「ははは。しっかりしてるなぁ」

「言ったろ。世渡り上手じゃなければダメだって」


 ニコルは笑いながら、東の地平線に目をやり続けた。


「あ…………!」


 まっすぐに走る空と地上の境界線に、すっ、と白く薄いかがやきがともる。それはニコルとマルダムが見ている中で明るさを増し、よるやみはらいながらゆっくりと広がってくる。

 ほどなくして、とおったほのお橙色だいだいいろに輝く円の頭がその輪郭りんかくを見せた。


「――朝だ……」


 夜が明けると朝が来る。何でもない、今までにどれだけかえされてきたかわからないほどに当たり前のことだ。

 しかし、ふたりの心にはそうは感じられなかった。


 そこに足を固定する歩哨ほしょうを命じられた立場で目撃もくげきする朝日は、ふたりの目にはかつて見たことのない、まるで初めて見るような違和感いわかんともなってり上がってくるのだ。

 闇が光にけていく光景をながめながら、美しい物を観賞する面持おももちでマルダムはつぶやいた。


「なんか、今朝けさの夜明けは……特別なものに思えるよ……」

「うん――――」


 周囲に近づくものを警戒けいかいする任務を忘れて、ニコルとマルダムは地平線からき上がってくる今日の太陽の輝きを前にしてしばし、心をふるわせていた。


 ――今朝の夜明けは、特別なもの。

 マルダムが呟いたこの言葉を、後にニコルは思い出すことになる。

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