「主計官室にハーモニカの音は鳴る」

 ニコルが直接の上官とあおぐバイトン正騎士きしの主たる仕事場は、大量の食料や武器などを保管している倉庫に隣接りんせつした主計官室だった。


「そうか、ゴーダム公爵こうしゃく閣下から外任務の打診だしんをされたか」


 広い執務しつむ机に書類をうずたかく積み上げ、年期が入った算盤そろばんきながらバイトンは目の前に立つニコルとマルダムに目を向けずにいう。機械のように処理される書類を従者のオゼロが整理し、じるべきものはひとつの束としてまとめていた。


 二人ふたりとの会話と計算を同時並行で行うバイトンの口と指に一切いっさいよどみはない。まるで一人ひとりの頭の中に二つの脳があるかのようだ、とニコルは思った。


「はい。ぼくはそれを受けたいと思っています。バイトン正騎士はどう思われますか?」

「アリーシャに連携れんけいを学べ」


 小気味よく算盤のたまが鳴る音の中で、バイトンの返答は簡潔だった。


戦闘せんとうの中で騎士について立ち回る術は、実際にやってみなければわからん。騎士によってやり方が微妙びみょうちがうからな。アリーシャもじゅん騎士になってまだ時間がっていない。お前とマルダムも加えての三人一単位としての行動の仕方をたがいに学べ。……いい機会じゃないか。わたしにくっついたままでは外任務の機会は来ないからな」

「はい」

「座学だけならアリーシャが学んでいる。あとは実践じっせんだけだ。――アリーシャにも准騎士としての実績を積んでもらわねばならないし、戦力となってもらわねばならない。今は人手不足の時だしな……マルダム、お前も外任務の経験があるのだから、ニコルの面倒めんどうを見てやらねばならんぞ」

「は、はい、バイトン正騎士」

「ちょっといいか、バイトン」


 背後からの声にニコルとマルダムが考えるよりも先に、机の前から自分たちの体を退ける。くと、戦闘用の甲冑かっちゅうに身を包んだベノンが立っていた。


「閣下から哨戒しょうかい作戦遂行すいこうの命を受けた。物資の用意をたのむ」

「わかった」


 計算結果を書類にみ、バイトンは算盤を振って珠を元にもどす。ベノンが机にすべらせた数ひらの書類を受け取り、バイトンは紙の上に記された文章を目で素早すばやく追った。


「期間は五日間。順路は……ここと、ここと、ここか」


 作戦の概要がいようみ込んだバイトンの左指がすさまじい勢いで算盤の珠を弾きす。そのかたわらで、右手はペンを取って左手と同じ勢いで紙に何かを記して行くのだ。

 算盤をそこそこ使えるという自負があるニコルが驚愕きょうがくするほどのわざだった。


「これが、『算盤騎士』…………!」


 口の中でいてしまった言葉をあわてて飲み込む。けんでも優秀ゆうしゅうなバイトンの異名がそれであることは周知の事実ではあるが、本人に聞かせるのははばかれたのだ。


「これを持っていけ」


 バイトンが弾いていた算盤の音がむ。びっしりと書き込まれた一枚の紙がベノンにわたされ、ベノンはそれを読んでまゆの角度を険しくさせた。


「こんなに馬糧ばりょうるのか? この順路にはいくらでも草が生えているはずだぞ?」

「その順路の哨戒活動はかなり増えている。くされている可能性が高い。馬の草を探していると計画通りに回れないぞ」

「そ、そうか……」


 一度の反論で疑問を撤回てっかいし、ベノンは引き下がった。そのままとなりの倉庫につながるとびらを開けて部屋へやを去って行く。


「バイトン正騎士、今の書類は……」

「作戦に必要な物資の一覧だ。作戦概要を読んで私が計算する。必要な食料、必要な武器、必要な馬糧、水、医薬品、日用品、作戦先で用いる金、そしてそれを運ぶための馬、馬車、すべて私が見積もり、計算する」

「バイトン正騎士の見積もりには無駄むだがないんだ。過不足なしってね。不足すれば作戦遂行に支障が出るし、余計に持っていくと荷物になる。そのギリギリの見極みきわめができるのはバイトン正騎士だけなんだ」

「私だけというのも問題だがな。私の代わりになる者が出てきてもらわねばいかん。――マルダム、良ければお前に私の後をがせようか?」

「い、いいえ、遠慮えんりょしておきます」


 苦笑くしょうしながら頭と手を横に振るマルダムの横で、ニコルは感心するだけだった。幼いころに下働きとして通わされていた商店の番頭よりもよほど金勘定かんじょうの技術がすぐれているとしか思えなかった。


「――今日きょうは計算がて込んだな。十組も作戦行動に出れば計算で頭も痛くなる」


 ふう、とバイトンは息をき、算盤とペンを机の引き出しにしまい込むと、代わりに銀色の筐体の口風琴ハーモニカを取り出した。


「ちょっと長い演奏になるな」


 そのままバイトンは主計官室を出、入口のわきに置いてある小さな椅子いすすわり込むと、口風琴にくちびるを当てて豊かなひびきの音をかなはじめた。


「バイトン正騎士の気晴らしだよ」


 同じく外に出、マルダムはニコルと並んでほんのしばし、その曲を耳にした。

 ゆったりとした曲調の旋律せんりつだった。横に合わせた両手に収まる小さな口風琴ハーモニカで、幅広はばひろい音階の音を並べひとつの曲にしている。


「仕事が落ち着いたら、バイトン正騎士はこうやって口風琴をいているんだ。君もいたことないかい?」

「そういえば、遠くでこの音が聞こえていたような……」


 小さな口風琴ハーモニカなのに音がよく響く。外を歩いている人間たちも少し足を止め、昼間のちょっとしたなぐさめに耳をかたむけていた。


「どの曲もバイトン正騎士の即興そっきょうで、同じ曲を二回と聴いたことがないんだ。酒もタバコもやらないバイトン正騎士の唯一ゆいいつ趣味しゅみさ」

「ふぅん」


 ニコルとマルダムは並んでバイトンに一礼し、その場を去るために歩き出した。


「――でも」


 複雑な旋律が流れる中、うしがみを引かれる思いでニコルは振りかえった。

 口風琴ハーモニカを吹くバイトンの顔に喜びは見えなかった。安堵あんどというか、かわいたむなしさのような気配がかげとなってかれの目元をおおっている。


「…………」


 気晴らしとマルダムは言っているが、それはかなしみを帯びた儀式ぎしきに聞こえて、ニコルはしばらくの間、心を引っ張られた。


「行こう、ニコル。アリーシャ准騎士に話を通しておかないと。時間はそんなにないよ」

「あ……うん。そうだね」


 マルダムのうながしの声に引っ張られ、ニコルは足を進める。

 バイトンの演奏はそれから十分と少し、途切とぎれることなく続いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る