「声よ、届け。寂しき少女の胸に」

「……私としたことが、頭に血が上りすぎたようだな。ヴェルザラード由来の魔力が使えなくなってしまった。これは一時的な喪失そうしつか、それとも恒久的なものか……まあ、いい。あの亡霊にいちいち一言食らうのももう、うんざりだ。これでいい」

「う……う、う……」


 快傑令嬢としての力と身のこなしを支えている魔法の道具――四肢の力を何倍にもする下着、精密さを補助する手袋、脚力と跳躍力を倍増させる赤いハイヒールなどの効果が奪われ、それらの効果を極端に増幅させる『銀の腕輪』も稼働しないことに、リルルは心臓を凍えさせた。


 別次元の空間に道具を格納する、右手首の『黒い腕輪』の機能も死んでいる。魔法には頼っていない道具、拳銃などの火器を取り出そうとしても反応がない。ただの装飾品アクセサリーと化している。


「だが、初歩の魔力はまだ使えるようだ。というわけでだ、リルル」

「な……なにを……」


 疲労と痛みが両腕両脚の筋肉、全ての関節にまるで粘っこさを帯びた鉛かなにかのように染みている。気力を振り絞るように意識を傾けねば、今にも両の膝が崩れ落ちそうな倦怠感けんたいかんがあった。

 一歩、前に足を出すのも重い。素のリルルでもそれなりに振り回せる細剣レイピアが手から零れそうだ。


「少し、痛い目を見てもらうことになる。選べる手段があまりないのでな。苦しかったら勘弁してもらいたい」

「――――!」


 ヴィザードが掲げた片手の指を鳴らした。それに応えて天井のシャンデリア――リルルが立つ場所の前後左右に吊り下げられている巨大な照明が、固定されている基部を自ら破壊したかのように断ち切られて落下する。それはリルルを中心として五十歩の距離にそれぞれ墜落した。


「ううっ!!」


 床に叩きつけられ、凄まじい音を立てて砕けたガラスが上げた飛沫がリルルに襲いかかる。輝く破片が噴水のように噴き上がり、腕を掲げたリルルにその一部が降りかかった。


「こ、こんなものが――」

「これくらいですむわけがなかろう?」


 ヴィザードの目が赤く、輝いた。砕け散ったシャンデリアの破片、大人の親指大をした大粒の涙の形状――支柱から伝わった熱を受けて輝く特殊ガラスが、ヴィザードの目の光を受けたかのように水色の透明から赤く輝きを変える。


 そして、その数百を数える涙のガラスが、輝きながら浮いた・・・


「う、あ――」


 赤く灯るガラスの大群にリルルは四方を囲まれ、喉を引きつらせた。重い体を必死に捻り、首を回して周囲を見渡す――逃げ場がない!


「安心するがいい。そなたを殺しはしない。どちらの益にもならんからな。ただ、殺さぬ程度に、気絶できるようにその体に打撃を与えさせてもらう。安心するがいい、顔は傷つけぬ。心が痛むのでな――フローレシアお嬢さんの、青アザだらけの顔を見るというのは!」

「っ!」


 浮いた輝きの粒が、一斉に渦を巻いた。リルルを渦の中心の目とするかのように、ガラスの暴風が竜巻となって荒れ狂う。その中に囚われた少女は、視界を高速で流れて行く光のつぶてに目を見張る。たじろごうとしても、その先がない――。


「ではリルル、おやすみだ」


 獲物を必中の射程にとらえた狩人かりゅうどの声で、ヴィザードはいった。


「次に会う時は、そなたは水槽の中――言葉を交わせるのはこれが最後というのも寂しい話だが、致し方あるまい。許せ!!」


 ヴィザードの手が振り落とされ、回転を続けていた光の礫が軌道を変え――リルルの首から下に、殺到した。


「ああああああああ――――!!」


 少女の胸、肩、腹、腰、腕、膝、脚の全てに、無数の打撃が前後左右から連続して激突する。打撃と打撃が重なって数えることもできない猛襲、まるで百人の群衆から石打ちの刑を処されているに等しい衝撃の嵐に、リルルの意識が激しく点滅する。


「……く、ふぅ……っ!」


 玉座の間に巻き起こった旋風の大嵐が止み、輝く粒が全て絨毯じゅうたんに落ちたのと同時に、リルルの体が前のめりに倒れた。倒れたまま、ぴくりとも動かなくなった。


「当然だな……」


 絨毯の上に沈んだリルルの姿を遠くに見て、ヴィザードはゆっくりと背を向けた。体の疲労はそれほどでもなかったが、心が疲れきっていて、それ以上に連続してなにかをしたくはなかった。


「……ここまで食らいついてくるとは……私も調子を掻き乱された。恥ずかしいくらいにな……」


 玉座に歩み寄り、肩を翻して深々と座り込む。目をつぶって背もたれに背を押しつけ、肘掛けと共に体重の全てを預けた。ちょうどいい長椅子ベンチがあれば、横になりたいくらいの気分だった。


「しかし、障害もこれで終わりだ……なにもかも終わりだ……。あとは、粛々しゅくしゅくと作業を進めるだけだ……一眠りしたいところだが、まずは、リルルを水槽の中に入れる処置を――」


 呟き、ヴィザードは眉間を指で押してから目を開いて――網膜に映ったものに、固まった。

 絶句して、瞬きを忘れ、食い入るように見た。

 よろめきながら、立ち上がってきたリルル・・・・・・・・・・・を。


「……まさか…………」


 目を閉じられなくなったヴィザードのはるか遠くで、風に吹かれただけで倒れてしまいそうなふらつき具合でありながらも、リルルは立ち上がっていた。それだけは決して放しはしないように握っている細剣を杖にして、体を支えていた。


「て……手加減は、確かにした……」


 ヴィザードは玉座から離れようとして、失敗した。気力が満たず、立ち上がれなかった。


「死なないように、手加減はした。しかし、小娘……少女の身には、気を失うには十分な威力の衝撃だったはずだ……」

「…………」


 国王の声が聞こえているのか届いていないのか、リルルは応えなかった。うな垂れている頭は視線を前に向けることもできず、自分の足元を見るだけで精一杯のようだった。


「手加減が、過ぎたか。しかし、もう限界ギリギリだろう。そうだ、そうに違いない……」


 自分にいい聞かせながらヴィザードは、肘に突いた手で体を支えるようにして、立った。


「肉体の耐久には誰しも、限りがある。すまないな、リルル。一度で楽にさせてやれなかった!」


 ヴィザードの腕が突き出される。床に転がっていた数百個のガラスの礫が輝くと同時に弾かれたように飛び、リルルの体の全周囲、胸から下にかけてをひょうの吹雪となって吹き抜けた。


「っ」


 暴風の中でまれた少女の体が、声のひとつすら出せずにたったひとりの円舞曲ワルツを踊るように縦軸に回転し、そのまま泳いで、またもうつ伏せに倒れた。

 少しの間注視し、少女が起き上がる気配を見せないのを確かめて、ヴィザードが額の汗を拭う。


「――さすがに、これでは……」


 息を吐き、体から緊張を解いて再び座ろうとしたヴィザードの心が再度、固まった。


「なん……だと……」


 リルルの震える手が、絨毯をつかんだ。信じられないものを見ているヴィザードの眼の中で、死にかけの虫のような動きを見せながらリルルが、起き上がろうとしていた。


「ま……まさか……今ので、人間が気絶しないはずがない……」


 少女が肘を突く。膝を着き、四つん這いの格好から剣を床に突き立て、何度か自分の体重に負けて関節を崩しながらも、ゆっくりと、ゆっくりと体を持ち上げていく。

 青みがかった銀色の髪を前に垂らし、頭の重さに深くうつむいていたリルルが、顔を上げる。


「――――――――」


 生気を失った表情の奥で、アイスブルーの瞳が冷たく、しかし鋭い光を放っていた。唇から薄く血を零している少女の顔の中で、その眼差しだけが生きている。


「し――し、し…………」


 ヴィザードの顔が引きつった。傷ひとつ受けていない男の顔が、満身創痍まんしんそういの少女よりも深く怯えていた。


「しつこいっ!!」


 ヴィザードの広げられた両手が突き出された。放たれた目には見えない風圧の砲弾がリルルを直撃し、枯れ葉よりも軽く少女の体を吹き飛ばす。まっすぐに突き飛ばされたリルルの体は下の階に通じる大階段を飛び越え、テラスに向けてほとんど真一文字に飛んだ。


「――しまった!!」


 ヴィザードの焦りの叫びが上がったと同時に、リルルの背はテラスの手すりに張り付けられるように激突し、がれて落ちた。その体がテラスの外に零れなかったこと、手すりに頭がぶつからなかった幸運にヴィザードは、心からの震える嘆息を漏らした。


「あ……危なかった……わ、私としたことが、この手でリルルを死なせてしまうところだった……私としたことが……」


 跳ねる心臓と息を落ち着かせるように深呼吸し、首を数度横に振ってから、ヴィザードはテラスに向かって歩き出した。――腕を前に伸ばして前のめりに倒れているリルルの手、その指がまだ、ぴくり、ぴくりと動いているのを目にしたからだ。


「魔法の効力が失われても、身につけているものの素材そのものが丈夫だったということか……。いや、もうそんなことはどうでもいい。どうせもう、限界寸前に来ているのだ。この手で捕まえてしまえば問題はない。なんの問題はない……」


 自分にいい聞かせる言葉の半分も信じられないほどの不安が、心を絞め上げていた。それを空虚な言葉で否定しながらヴィザードはゆっくりと歩む。駆け寄れるほどの気力もなかった。



   ◇   ◇   ◇



 痛みが痛みと感じられない、痛覚が死んでしまうほどの衝撃に体を穿うがたれ倒れたリルルの意識、その一割にも到底届かぬわずかな領域だけが、まだ生きていた。

 脳に泥を流し込まれたかのように、思考が重くよどんでいる。体の全部が応答しない――。


「もう……もう、立てないわ……」


 体が宙に浮いているように軽く、しかし節々はとてつもなく鈍い。呟く言葉が声にならない。閉じかけたまぶたが開かない。指が動いているようだが、そんなことも確かめられない。

 力が入らない。気力も湧いて来ない。自分の中の全てが冷たく、静かだった。


「私は、ここまでなの、かしら……みんなの命に支えられて、背中を押されてここまで来たのに、私はなんにもできない……ただ、利用されるために自分から上がって来て、私はこのまま終わってしまうの……?」


 涙を流すには、虚し過ぎた。全ての怒りも悲しみも無駄なのか。意地さえ自分は貫けないのか。


「嫌よ……そんなのは、私は嫌……。でも、もう、体が動かない……。力を奪われた私にはもう、あらがう術がない……。もう、私はここで、力尽き――」

『――お嬢様』


 リルルの閉じようとしていた目が、わずかに開いた。


『――いいえ、リルル。わたしが愛するリルル。あなたは、まだ終わらない。あなたはまだ立てる。わたしが恋するリルル。わたしの声に、心を傾けて』

「フィ……フィル……」


 リルルの全てが、震えた。懐かしい声だった。染み入るような声だった。


「フィ……フィル、どこ……どこにいるの……あなたはどこから話しかけているの……」

『わたしは、あなたの心の中から、あなたの心に声を届けているのですよ。

 ――リルル、負けないで。あなたの魂を奮い立たせて……』


 全てが薄らいでいた感覚の中で、最初に視覚がよみがえっていく。止まっていたように感じられていた血流の感覚が、小さくではあるが戻っていく。寒々しい木枯らしに吹き付けられていた心に、ぬくもりが生まれたように思えた。

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