「南海の島は張り詰めた月光にさらされる」

 リルルやフィルフィナが久しぶりの懐かしい空気の中で眠る夜、夜空を同じくしているはずの、船で二日はかかる離れた場所で。

 世の混乱から切り離されているはずの常春の楽園は、深夜にも関わらず、深い喧騒に包まれていた。



   ◇   ◇   ◇



 冴え冴えと冷たい月明かりが降り注ぐ島の海岸を、三人の人影が走っていた。

 街灯などまだ一本も建っていない島は、日が落ちてしまえば小屋から漏れるわずかな明かりだけが付近を照らすだけになる。が、皆が寝静まるこの時間では明かりをつけている者もいない。


 そんな、静寂しかないはずの島が、今は張り詰めるような緊張に包まれている。波の音に消えるはずなのに足音を少しでも殺そうと慎重に、身を屈めるようにして小走りに走るその歩調から切実なものが伝わってくるようだ。


 そんな、人影の先頭を走る法衣姿の女性――今は島の管理を委任されているエヴァは、島の南岸なら南方の沖合を見渡せる岩場で足を止めた。無言で横に振った腕に、後を着いてきた一人の巨人、そして犬の顔をした獣人が停止する。


 無言でうなずき合い、三人は巨大な岩の陰に隠れて海の方向にじっと視線を向けた。


 低い高度に自らを据えた月が、天空にある時に比べ格段に巨大な姿をさらして、南の方角の海面を照らしている。光を反射させた海面が白い光の道を作って、その上を歩けるのではないかと妄想させるほどに美しく輝く橋を海に架けていた。


「…………!」


 エヴァの瞳がいっぱいに張り詰めて、見たくなかったものをそこに見ていた。


 ざっと一目で数えても数十隻を数える船の群れが、島の遙か沖合を西から東に向かって航行していた。月の光に浮かび上がっている箇所だけでもそれだけなのだ。それは回遊する魚群のほんの一部であると容易に想像させる。艦隊は右から左に流れても流れても、まだ続く――。


「ものすごい、大艦隊だわ……!」


 感嘆とか感動とかを通り越し、それは呆れに似た想いだったかも知れない。

 王都エルカリナの港を出入りする半日分の船舶の量に匹敵するだろうか。艦隊に組み込まれている船たちは遠目から見ても大小や形状も雑多で、今までに建造され朽ち果てていった船の葬列のようだ。


「――エヴァ」

「イェガー、声を落としてください」


 エヴァの文字通り二倍の背丈、八倍の体躯たいくほこるオーガが、エヴァの背後で体を小さく縮こめた。


「エヴァのあねさん、騒いだってあんなに沖合まで聞こえはしませんって」


 犬頭の獣人が呆れた声でいう。だが、強張ったエヴァの表情を緩ませる効果は少しもなかった。


「万が一にも聞こえたらどうするんですか。あなたは責任が取れるんですか」

「けどよぉ」

「あれは、エルカリナ王国に攻め込もうとしている、艦隊か……」


 いつもは地を震わせるほどに低く大きい声を、限りなく細くしてイェガーが呟く。


「すげぇ、いつまでも続いてやがる。本当に何百隻あるんだ?」

「向こうにはここがまだ無人島と思われているから、上陸してこないのかも知れません。それともここに上陸する余裕もないのか……どちらにしろ、あの中の一隻にでもここに向かわれたら、この島は全滅してしまいます」


 フィルフィナから聞いた、エルカリナ王国が全世界から宣戦布告されたという事実の一部だろうか。

 現在、この島は転移鏡による王都との接続を断たれ、唯一の外洋船である『森妖精の王女号』も出払っている。二百人近い島民を脱出させる手段がなく、戦闘に耐えうる人員もほとんどいなかった。


「デザ、あなたはすぐに集落に戻って連絡してください。一切の明かりが出るものを使うな、夜が明けるまで寝床でじっとしているように。一切の外出を禁止し、声を上げることも許さないと」

「わ、わ、わかった、エヴァの姐さん――」


 デザと呼ばれた犬頭の獣人は、くるりと背を向けるとほとんど四つ脚を使うようにして不器用に走っていった。途中で大きくこけたのを見て、エヴァは微かに眉根を寄せてしまう。


「……あの、そそっかしい奴、大丈夫か」

「喚き散らすように報告しないことを祈るのみです。予定では明日、フィルたちは王都から脱出してこちらに船で向かうとのことですが、あの大艦隊と正面から出くわすかも知れませんね……」


 とはいえ、その事実をフィルフィナたちに伝える手段も今は手元にない。このことをフィルフィナが予想の中に組み込んでいることを祈るのみだった。


「しかし……気になります……」

「なにが、だ……」


 艦隊の列はいつまでも続いている。それはまるで、これ以上巣を拡張できなくなったアリたちが、一斉に引越をしているように見えた。それを一望にできるこの場所についてから十数分が経過しているが、この艦隊の全貌ぜんぼうがどれほどのものかはまだ見えなかった。


「この辺りの海域はエルカリナ海軍の勢力範囲内深くで、制海権が働いているはずの領海です……。海軍にとっては庭のようなものなのに、それを迎撃しようという動きがないように思えます」

「あの艦隊の存在に、気が付いていない、のではないか……」

「あんな規模のものが出撃してそれが諜報網ちょうほうもうに引っかからないなんて、あり得ません」

「……俺は頭がよくない。はっきりいってくれ……」

「あの規模の軍勢をエルカリナ王国は敢えて上陸させようとしているのではないか、ということです」


 それこそイェガーには理解できないことだった。


「あの艦隊の規模を恐れて、手出しができないのでは、ないのか……」

「あれは文字通りの烏合の衆です。規模だけは大きいですが、統率などとても取れはしません」


 いつの間にかエヴァは魔法のオペラグラスに目を当て、いつまでも続く艦隊の群れをそれで観察していた。闇の中でも対象物をはっきりと浮かび上がらせることができ、自由自在に倍率を上げて遠くのものも微細びさいに観察できるという優れものだ。


 フィルフィナが敢えて返却を要求していない、エルフの魔法の道具のひとつだった。


「あの艦隊に組み込まれている戦闘艦はほとんどありません。客船、貨物船、遊覧船、大型漁船……とにかく沖合に出られる船の寄せ集めです。甲板に溢れるほど兵士を乗せて、この寒い海風を受けて毛布二枚で震え上がっているのがよく見えますよ」

「攻撃する、絶好の機会ということか……」

「国王はいったいなにを考えているのでしょう……意図的に、王都に人を集めようとしているようにしか思えませんね……」

「なんの、ために……」

「……わかりません」


 わからないことだらけだった。少なくとも、合理的に説明できるだけの材料は手元にはなかった。

 そもそも、どうして世界中を敵に回すような構図を半ば自分で作り上げたのか、その点からして全く説明がつかない。無理に結論を出すとすれば、自殺願望があるのだろうかというくらいのものだ。


 が、エヴァが知っている限りでは、ヴィザード一世はそんな愚かな君主ではなかった。手腕に強引な面は見られるが、豪腕を振るっても自分の権力基盤を揺るがせもしない、優秀であると判断するしかない一級の指導者にしか見えない。


 焦土戦術として領内の街や村を焼き払っても、貴族たちに叛逆はんぎゃくする余裕すら与えないなど、有能の証明でしかないはずだった。


「本当にわからない……なにもかもが……」


 あの艦隊に島への上陸の意図があるとするのなら、夜の間には行わないはずだ、とエヴァは踏んでいる。月明かりがあるとはいえ、暗い海でそんなことを強行すれば座礁ざしょうなどの事故は避けられない。少なくとも夜明けを待ってから行うのが常識だ。


 この視界の外に、上陸を任務とする隊が待機しているのだろうか――その可能性は小さいと思えるが、万に一つでもそれが実在しているとすれば、それはこの島の破滅に繋がる。


「イェガー、あなたも集落に戻って、三十人ばかり人手を集めてください。艦隊のほとんどはこのまま通過するでしょうが、一隻でも沖合に待機していないかどうか、確認しなければなりません。監視するための目が必要になります」

「……わかった。夜目が利いて、騒がしくない奴らを集めてくる。…………エヴァ」

「なんですか?」


 巨人の、岩のように固く冷静な顔がエヴァを見つめていた。


「……今は、ニコルからこの島を託された、お前の判断だけが頼りだ。なんでも、命じてほしい。俺たち、お前の手足となって、動く」

「…………ありがとう。お願いします」

「気を、つけろよ……」


 のっそりと立ち上がり、イェガーはその巨体に似合わぬ静けさで集落まで走っていった。


「……そう、今は、エヴァ、あなたがニコルからこの島を託されている。あなたはニコルの心に応えるのよ。そして、あなたを生まれ変わらせてくれたリルルの心にも、あなたは応えなければならないのだから……」


 そう自分にいい聞かせ、エヴァは再び魔法のオペラグラスを目に当てた。

 今夜は眠れそうにない。その眠気にあらがうのも自分の戦いであると思いながら、エヴァは海面をゆっくりと滑るように移動する船の一隻一隻に焦点を当て続けた。

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