「燃えた故郷と、燃える心の息子」
遙か南、青いはずの空を、地上から立ち上る墨の色をした黒煙が染めていた。
数カロメルト先からそれを目撃できていたゴーダム騎士団の陣営が、胃を貫くような不安に耐えながら移動する。太い街道の半分を埋めるようにして、四百騎の騎士たちが馬を進めている。
全身鎧に身を固めた騎士たち、
黒煙は、焼かれた街から立ち上っているものだった。そしてその街とは他ならぬ、ゴーダム騎士団が目指している街、ゴーダム公爵領の中心都市・ゴッデムガルドに他ならなかった。
◇ ◇ ◇
「――これは…………」
豪胆かつ沈着冷静、動揺でその顔を歪めることがないと評されているエヴァンス・ヴィン・ゴーダム公爵が、馬上で絶句していた。
街から数百メルトの距離、ゴッデムガルドの街より少し高い標高の小高い丘の上に馬を据える。
馬上から眺める街はその全域が一望でき、その全域が燃やし尽くされていた。
特に観光資源もなく秀でた特色がある街ではなかったが、穏やかな統治が人々の心に豊かさを与え、静かな活況に満ちていたはずの街の全てが、炭化した
街には人気の一切も感じられなかった。動いているのは煙だけで、時折、煙を逃れるようにして犬が吠えながら走る姿がちらほら見える。街の中に人間の姿は観測できず、呆然として固まっているゴーダム公の側で部下たちが双眼鏡を構えて向けるが、虚しく首を振るだけだった。
「……ゴッデムガルド
馬には辛い早足の行軍を強いて、二日と半日。騎馬といえど普通の部隊であれば音を上げかねないきつい行程の中、公爵自ら兵と苦楽を共にする姿勢を示し、その公爵に固い忠誠を誓う騎士団は常識外れに速い部隊移動を成し遂げ、目的地で絶望していた。
「閣下、
「――――」
副団長の問いにもゴーダム公は返事ができなかった。馬首をまっすぐに向けた我が街の
ここに至るまでの道中、いくつもの街や村が焼かれていた光景を見ていた。避難民の群れとも幾度もすれ違った。国王の命令による『焦土作戦』が実行されているということを聞き、領主の権限を完全に無視した、暴挙ともいえる行為が平然とまかり通っていることに怒りを覚えていた。
そんな感情も、自らが生まれ、育ち、受け継ぎ、発展させてきた街の全てが焼き尽くされ、死に絶えているという光景の前に、一切が吹き飛んでしまっていた。
「――閣下……」
ゴーダムの
若い騎士たちも揃って声を失っていた。言葉にできない思いを抱えて、まだ残り火があるだろうに入ることもできず、焼き尽くされ死に絶えた街の
「閣下――――!」
丘の
公爵の横を固めている騎士たちが槍を水平に構えるが、すぐにそれを垂直に戻した。もの凄い勢いで馬を駆け上がらせてくるのは、知っている騎士の声だったからだ。
「閣下、お帰りなさいませ!」
「ダクトー、お前か!」
「お久しゅうございます、閣下!」
ゴーダム公の前で馬から飛び降り、片膝をついてかしこまったのは、ゴッデムガルドに留守として残してきた騎士団の団員、その一人だった。
「ダクトー、これは、やはり」
「ヴィザード一世陛下の名代を名乗る者の仕業でございます!」
地に着けた膝と拳がめり込むような勢いで憤りを殺した騎士が、搾り出すような声でいった。涙がわずかに混じっていた。
「一昨日のうちにゴッデムガルドを来訪した陛下の名代は、全住民のゴッデムガルドからの退去を通達、翌日に退去は実行され、街の全てに火が放たれました! 留守を預かっていたチューク騎士団団長代理が固く抗議したのですが聞き入れられず、住民は連れさらわれるように……!」
「ダクトー、ゴッデムガルドからの避難民とはすれ違わなかったぞ。いったい住民はどこにいったのだ。王都に集められるなら、街道ですれ違ったはずだ」
「西の港町、アーデスの街に移送されました。そこで船に乗せられて王都に向かうと……。もう、街の中には誰もいません。我々騎士団だけが命令を無視してここに残り、閣下のお帰りをお待ち申し上げておりました……よかった、お戻りになられて……! 我々は正直、途方に暮れていました……!」
張り詰めていた感情が緩み、その隙間から溢れるように涙が湧き出して若い騎士はおいおいと声を上げて泣き始める。地面に突っ伏したようにその騎士の背中を馬上から見やりながら、ゴーダム公は重い息を肺の中でかき回した。言葉を探そうにも見つからない。
「ダクトー、その留守部隊はどこにいるのだ。この近くにいるのか」
「南の川近く、森の側で野営をしております。自分が案内いたします」
「閣下、急ぎましょう」
「……うむ……」
ダクトーの涙の報告を聞く以外にできなかったゴーダム公が、首を
「閣下」
「……全部隊、休憩終了。ダクトーに従って移動する。速やかに……」
「父上!」
横合いから弾丸の勢いで飛んできた声に、目を見開いたゴーダム公は心臓を撃ち抜かれた。心臓が一秒だけ停まる、それだけの威力が確実にあった。
一瞬、我を忘れたのはゴーダム公だけではない。騎士団の全員が肩を大きく跳ねさせた。
「父上、お待ちください!」
首を振って視線を横に向ける。考えるよりも早く手が手綱を操り、声の方に馬の首を巡らせている。
力強い馬蹄の音が遠くから早い調子で響き、近づいてくる。黒い影がもの凄い量の
暗黒の闇に閉ざされようとしていたゴーダム公の心に、涼しい風が吹いた。体が浮き上がるように心の中が軽くなる。公爵だけではない、騎士団の全てに、ざわ、というさざめきが走る。
来るはずのない少年が来た、と全員が知った。
「やっと――やっと、追いついた! よかった、追いついて――!」
「――ニコル!?」
ゴーダム公の頭の中から一瞬、燃えた街のことも、退去させられた住人のことも消えてしまった。
追ってくるな、王都に残れと手紙で命じたはずの少年、ニコルが、目を引くほどの黒く立派な馬体の馬にまたがって自らの元にやってきている。
ゴーダム公の両眼に熱い涙が浮いた。それを零さぬように目を見開くだけで、心は熱く満たされた。
◇ ◇ ◇
「何故追ってきた!」
ニコルの頬を、捻りが利いたゴーダム公爵の手の甲による平手打ちが張った。兜を脱いだ少年の体がその衝撃に簡単に揺らぎ、草が覆う大地に小柄な体が転がる。
「ニコル! 貴様、私の手紙を読んだだろう! 来るなと厳命しておいたはずだ! なのに何故私の命令を無視する! お前は――!」
「父上、それは違います! 自分は父上に命令される立場ではありません! 義理とはいえ父と子の
「屁理屈を述べおって。息子が父の命に従うなど当然のこと! それともその縁を切られたいか!」
「お切りください!」
頬を真っ赤に腫らしながらも気丈に立ち上がったニコルのまっすぐな眼差しに、逆にゴーダム公の方が内心でたじろいだ。
「お切りください! そうなれば、自分が父上の命に従う理屈もなくなります!」
「ええい、この――」
「閣下! ニコルを殴るのはどうかおやめください!」
「放せ! 貴様ら、主人の体に触れるなどどういう了見をしておるか!」
「ニコルは、ニコルは公のことを思ってここに駆けつけてくれたのでしょう! そんなニコルを公が
「ニコルが可哀想です! どうしても撲たれるというのなら、どうか代わりに我々を!」
「貴様等ァ――――!」
部下たちを振り解いて振り向き、右腕を大きく振り上げたゴーダム公は、怒りに引きつらせた顔とその姿勢のまま固まった。勢いのままに手を振り落とす理不尽は、本人がいちばんよく理解していた。
この数年で浮かべたことのない獣のような表情を見せながら、ゴーダム公はニコルの方に振り返る。
右の頬を赤黒くさせた少年が、稲妻が落ちるよりも鋭い視線を向けて、公爵の目を
「…………ええい!」
内心の怯えにも似たものを隠しながら、気勢を吐いてゴーダム公は右腕を下ろした。それ以上は手を出さないという意思を無言で示し、再度止めようとしていた部下たちが引き下がる。
「全員、少しここで待て。――ニコル、移動するぞ。ついてこい」
「はい」
ゴーダム公が馬にまたがり、早駆けの速度で近くに見える森に向かって駆け始める。
「ニコルお兄様、撲たれた箇所は大丈夫ですか」
できるだけ目立たないように控えていたロシュが、ここに来て初めて口を開いた。
「大丈夫だよロシュ。父上は手加減してくれている。行ってくるよ……待ってて」
「はい」
「ニコル!」
ニコルもまたひらりと
「ニコル……ゴーダム公爵は、お前を……」
「ちょっと
痛々しい頬でにこやかに笑い、ニコルは手綱を揺らした。ドッと加速がついて馬上の父を追った。
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