「ゴーダム公爵家の秘密」

「サフィーナ、ニコルが公爵閣下を追うとしたら、どうすれば私も追いつけると思う?」


 人ひとりが出入りするには大きすぎる窓に手を掛けて、リルルはサフィーナに問うた。その目はすでに、ゴーダム公爵領がある南の方角に向いている。あの青い空の下を進んでいるであろう少年の遙かに遠い姿を心で追っている。


 覚悟を決めたように前を向き続ける少女の横顔を見、サフィーナは少しの想いの時間に浸った。


「……父は、必ずゴッデムガルドに行くと思う……。リルル、あなた、ゴッデムガルドには行ったことがないでしょう?」


 サフィーナが口にした名は、ゴーダム公領領の首都ともいえる街の名だ。ゴーダム公爵家の屋敷があり、行政と経済の中心となっている。ニコルがゴーダム家の騎士団に入り、二年という時を過ごした街でもあった。


「うん。でも、街道で結ばれてはいるのよね。街道に沿っていけば着ける?」

「迷うことはないと思う。分岐には必ず立て札が立っているし、ほとんどまっすぐだから……」


 エルカリナ王国の街道が素晴らしく整備されていることが、こんな時には本当にありがたかった。土砂降りの雨の中であっても、人体の内臓を繋ぐ血管のように張り巡らされたエルカリナ王国の主要都市を繋ぐ街道は、水はけのいい道を確保してくれる。道は国造りの基本なのだ。


「父はゴッデムガルドで軍を編成することになるでしょう。一日ですむことではないから、ニコルもそこで父に会えると思う。人の足で歩けば四日、馬で駆けに駆ければ二日……」

「魔法の傘で飛べば、半日ね」


 リルルの言葉にサフィーナは笑った。自分たちの特別さが可笑おかしかった。


「フィルを待ちたいところだけど、そんな余裕もないか……一人で行くしかないのね」

「……え? フィルはリルル、あなたと一緒じゃなかったの?」

「途中でわかれたの。私がいきなりこっちに来るのは危険だからって。でも、昨日の昼には戻るっていっていたのに、今日の朝になっちゃって……どこでなにをしてるのか……。それにサフィーナ、このお屋敷に今、誰もいないようよ?」

「……なんですって?」

「ほら」


 リルルが窓の外を示し、サフィーナが隣に並んで中庭を三階の窓から見下ろした。日が出ているのに、視界の中には全く人気がない。誰かしらの人影はあるはずの屋敷が、死んだように静まっている異様さにサフィーナはぶる、と体を震わせた。


「本当だわ……父が騎士団の総勢を連れて行くっていうのは聞いていたけど、ここまで人がいないなんてあり得ない……。いったいなにが……」

「それを調べるためにもサフィーナはここにいて。フィルもこっちに戻ってくるしかないし、連絡場所が確保されていないと不便だしね」


 リルルは外套がいとうを脱いで黒い腕輪の中に収納し、その手で魔法の赤いメガネを取り出していた。目にかけた瞬間に全ての影を掻き消す凄まじい光の爆発が閃き、それが収まった時、快傑令嬢リロットの姿になったリルルがそこにいた。


「留守番はお願いね、サフィーナ」

「リルル、気をつけて! 無理をしてはダメよ!」

「あなたも。じゃあ、行ってきます」


 開け放った窓の枠に足をかけ、リルルは飛び出した。


 緩い弧を描いて跳んだ体が落下に転じた時には、その右手が魔法の白い傘を握り、白く広い生地を広げている。人目につかないように薄桃色のドレスの姿が高空に向かって上昇し、雲の高さにまで行き着くほどに小さくなっていくのをサフィーナは見送った。


 鮮やかな青さの中に溶け込み、なにも見えなくなった空を見つめてサフィーナはしばらく心を空転させていたが、小さな落雷を首筋に受けたように気を取り直した。


「……屋敷に誰もいないなんて……お父様は騎士団以外に連れて行っていないはずだし、フィルもそうだけど、クィルやスィルも本当にどうしたのかしら……あっ」


 部屋を出て廊下に出たサフィーナが、気付きに声を上げた。


「……お母様よ、お母様もどこに行ったの。お母様だけはこの屋敷に残っていないと嘘でしょ。みんな、誰かに食べられてしまったわけでもないだろうし……」


 母屋となっている本邸の廊下を小走りに歩き、階段を降りるが、必ず誰かは歩いているのが日常のその空間も無人だった。せめて誰かを見つけて事情を問いたいという祈りも届かず、サフィーナは誰にも出くわさないまま母の居室にまでたどり着いた。


 はやる気持ちのままに、ノックもせずに扉を開ける。鍵がかかっていない扉はあっさり開いたが、部屋は無人だった。テーブルの上にお茶を飲んだ後らしい、空になったカップと皿が残されているのが、ここに誰かがいた名残を感じさせた。


「誰か! 誰かいないの!」


 声を上げながらサフィーナは部屋を出、廊下を走り、階段を駆け下りる。母屋から中庭に飛び出し、花々がきれいに植えられた花壇の列を超えて広場に出た。そのまま誰にも出会わず、南に面している門の所まで焦りのままに走る。


 通用門の鉄格子の向こう、大通りにはさすがに人の行き来があった。目覚めてからリルル以外に人影を見ていなかったサフィーナは、この世界に人間が自分たち二人だけではないという当然すぎる事実にさえ、少しの感動を覚えてしまった。


「……本当に……誰も彼もいない。どこに行ってしまったのかしら……。みんながみんな、ゴーダムの家を見捨てて? いや、お母様がいらっしゃらないことがそもそも……」


 振り返り、サフィーナは無人の屋敷を呆然と眺めた。

 たくさんの家臣たちに囲まれながら育った身としては、こんなに寂しい我が家は初めてだった。

 鬱陶うっとうしい、静かに暮らせればいいのに――と思っていた過去が胸を過ぎる。


「――サフィーナ?」


 背中でした声に、サフィーナの肩が跳ね、その反動で足の裏が地面からほんの少し、確かに浮いた。


「こんなところでなにをしているの?」

「お母様!」


 振り向くと、サフィーナの母、エメス夫人が鉄格子の通用門を開けているのが見えた。公爵夫人とは思えない地味めの、小金持ちの夫人といった雰囲気の私服を身につけている。いつもはひとつは身につけている装飾品も見えず、普段の華やかな雰囲気からはかなりかけ離れているところがあった。


「やっと起きてきたのね。部屋で泣いていると思っていたから、呼びにも向かわせなかったけれど」


 エメスはそういいながら手に紙袋を持っている姿でサフィーナの元に歩いてくる。外出に必ずひとりは帯同するだろう家来の姿もない。その顔に取り乱す色も見えないことが、サフィーナが感じた最大の違和感だった。


「お母様、どうして――」

「昨日のうちに、皆にひまを出しました」


 事もなげに口にしたエメスのセリフに、サフィーナの目が丸くなる。喉を鳴らして唾が飲み込まれ、そのまま次の言葉を探そうとして、接ぐべき言葉を完全に見失っていた。


「――取りあえず、部屋に入りましょう。話したいことはたくさんあるわ。色々とね……」


 エメスは微笑み、サフィーナを残すようにして母屋にその足を向ける。サフィーナはしばらくその背中を呆然と見つめていたが、首を大きく振ってから、早足で母を追った。



   ◇   ◇   ◇



「ゴーダム家はもう終わりよ」

「っ!」


 ゴーダム家当主夫人の口から出た言葉に、サフィーナは口に含んだ紅茶を噴き出すのを寸前でこらえた。代わりに熱い液体が気管に飛び込み、テーブルを挟んだ母の対面でむせにむせまくった。

 やや寂しそうな微笑みを口元に浮かべ、エメス夫人はハンカチを娘に手渡す。


 一分間をかけて自分の粗相そそうを取り繕ったサフィーナが、涙を拭いながら顔を上げた。


「ゴ……ゴーダム家が終わりとは、いったいどういう……」

「あなたもお父様から聞かされたはずよ。もう、戻られない。お父様は、捨て石にされたのよ」


 エメスは口にしたカップを両手で抱き、その水面に自分の顔を映すように視線を落とした。虚ろではかなげな笑みを浮かべた女が、向こうでこちらを見つめているのが見えた。


「去年、いくつもの大きな貴族の家が潰されたのをあなたも覚えているでしょう。国王陛下はご自分の意志をさまたげる貴族を次々に排されてきた。そしてそれが最後の最後で、お父様の番となったということよ。お父様は政情には興味はない方だけれど、求心力はある方だから……」


 政治に興味を持たず、実直に生きるその人柄から来ている信頼。それが今はあだになっているというのか。父はなにも悪くないのに――サフィーナがそう思っても、なにも始まりはしなかったが。


「お父様が亡くなられれば、ゴーダムの家の権威もなくなる。外から誰か連れてくるにしても……サフィーナ、あなた、私にどこかの貴族の家の男子と、再婚してほしい?」

「……いまさら……ですわね……」

「でしょう。だから、潰れてしまう前に自分で片付けてしまおうと思うの。――このゴーダムの家も私に連なるまで歴史がある家だけど、永遠に続く家もない。私の代で終わらせる……これが潮時というものなのかもね」

「はい…………」


 サフィーナはうつむいたまま、自分も両手でカップを抱え、微かな波を打つ紅い水面を見ながら物思いに沈んだ。こんなにあっさりと公爵家がなくなってしまうのか。母の思い切りのよさは支持するが、しかし、これではあまりにも――。


「……あれ?」


 ひとつの違和感が、サフィーナの意識を刺激した。ぱちぱち、と目が瞬いて顔が上がる。


「お母様、今、少し不自然なことをおっしゃいませんでしたか?」

「そう?」

「……お母様の代、とおっしゃいませんでした?」

「いったわね」

「……お父様の代、の間違いではないのですか?」

「間違いではないわよ。――あれ?」


 エメスは不意に、うつむいて考え込み出した。なにを考え込むことがあるのかとサフィーナは息を詰めてその様を見守る。


「サフィーナ、あなた、ひょっとしたら知らないの? 聞いていないのかしら?」

「……な……なにをですか……」


 それを聞いてしまうのが怖かったが、サフィーナは問うしかなかった。


「ゴーダム家に生まれたのは私の方で、お父様は婿むこ養子としてこの家に入ってきたということをよ」

「はい――――!?」


 サフィーナは悲鳴のような声を上げた。間違いなく、今年に入ってから出した声の中で、いちばん甲高い音の叫びだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る