「リルル、蕎麦をおごられる」(下)
「わわわ、わわわわわ」
席を立とうとしたリルルは百人を超えた人の波に押し流され、自分が今さっきまでおしりで温めていた木の
「ねえ、あなたって本当にリロットなの?」
「よく見ろ、顔がわかんねぇようになってるだろ。本物は魔法のメガネで顔が覚えられないんだってさ」
「本物を間近で見るのは初めてだなぁ!
「は、はい」
「こっちも! こっちもお願ぁーい!!」
「はい、はいはいはいはい」
にゅっと伸びてきた二十の手をリルルは順番を迷いながらもひとつひとつ
「おいおいおい! 人の屋台の前で何やらかしてくれるんだよ! 商売の邪魔だろ!」
「ここでリロットと話がしたけりゃ、うちの
集まっている百人以上の
「特盛り上
その場の全員が一斉に財布を取り出し、思い思いに千エル紙幣を突き出した。
「よーし、今夜はそばを湯がいて死ねそうだ! いっちょやったるか!」
在庫のそばを全て大鍋の中に叩き込み、これ以上に幸福なことがあるかという顔で店主はコンロの火力を最大にする。盛大に青白い炎が噴き上がり、汗と
「あんた、本当に本当に本物? なにか証拠はあんの?」
「偽十万エル
「へえ! そりゃすげぇ!」
「あたしも偽金貨でだまされたのよ!
「偽造していた連中が
「ねぇ、リロットちゃん、歳はいくつ? どこに住んでるの?」
「今、付き合っている男の人とかいる?」
「警備騎士が混じってるぞ!」
明るい
「二人だ! 二人もいる! なにか隠し持ってるぞ!」
「ここに突き出せ!」
「やめて! 乱暴はしないであげて!」
声を上げリルルが立ち上がった。しかしざわめきと興奮はそのリルルの声も通さない。群衆の中を割って出すかのように、二人の警備騎士らしい白い胸甲をつけた二人の人影が、屋台の前まで連れてこられた。
二十歳を超えるか超えないかという若い騎士たちだ。男達に肩と腕をがっちりとつかまれている。
「こいつら、マントの下に隠してる! 出させろ!」
「拳銃と
「
騎士たちが持っていたものが取り上げられ、それが街灯の光の下にさらけ出された。
色紙とペンだった。
「――は?」
「……なんだこれ」
「あ、あの、僕たち、警備騎士なんです」
「知ってるよ」
「返してください、お願いします」
警備騎士団。王都の治安を守る警察組織のひとつ。
「――あの、リロットさん!」
法的には王都の治安を乱している快傑令嬢とは敵対しているはずの彼等の口から、とんでもない
「この色紙に
返ってきた二枚の色紙と二本のペン。それがそろってリルルの前に突き出された。
「ええ、いいわ」
「わあ!」
明るく軽い調子でそれを受け取るリロット、上気した顔をますます赤くする二人の警備騎士という構図に、群衆は
「あの、いつも、あなたのお姿を現場で見てます!」
「覚えてらっしゃいませんか? 一週間前に僕たち、あなたのムチで頭を打ってもらったんです!」
「ああ、確か、あの三人の中の」
そういわれると覚えがあることにリルルは気が付いた。ムチで打たれたそうにそわそわしていた警備騎士たちの中にこの二人がいたと思う。
「はい! ……
「病院を退院したその足で、『快傑令嬢リロット同好会』に入会しました!」
「僕は会員番号三〇〇番、こいつは三〇一番です!」
「あら、もうそんなに増えたんだ」
永久名誉会員になっているリルルがさらっといった。
「おいおい、どうして警備騎士がそんなに快傑令嬢に甘いんだ。敵対してる仲じゃないのか」
「とんでもない!」
本当にとんでもない発言が、当の警備騎士の口から飛び出した。
「あんまり大きな声ではいえませんが、最近じゃすっかりなあなあですよ!」
「リロットが好きな
ああ、そうか、とリルルは思い当たった。道理で、最近は警備騎士たちとの追いかけっこが楽なわけだ。
「ありがとう。二人ともお仕事がんばってね」
「はい! リロットさんもがんばってください!」
「また現場でお会いしましょう! これからもよろしくお願いします!」
宝物をせしめた二人の警備騎士はご機嫌で去って行く。にわかには信じられない物を見た群衆はしばらく絶句していたが、次の瞬間には一気に熱に浮かされていた。
「じゃあ、私はこの服の
「あたしはハンカチに!」
「自分は……自分は、ああ、この腕に! 腕に跡がつくほど書いちゃってください!」
「はいはい」
「ほい! そばが上がったよ! 金払ったからには食ってもらうからな!
「ここのそば、とても美味しいのよ。私も時々食べに来るから、みんな
リルルは差し出されるものに片っ端から署名し、最後にのれんにペンを走らせて『快傑令嬢リロット
「では、私はそろそろ失礼させていただきます。みなさん、これからも快傑令嬢リロットを応援してくださいね――」
リルルは立ち上がり、スカートの
「えー、もう行っちゃうのか……」
「リロット、さようなら!」
「またここに来て! 絶対だよ!」
別れを
「じゃあな、お嬢ちゃん。ありがとよ」
「がんばってね」
黒い腕輪から取り出した魔法の
◇ ◇ ◇
「――お嬢様、遅かったですね?」
「ちょっとね」
アジトの転移鏡から直接、自室の居間まで移動したリルルは快傑令嬢の衣装を全て脱ぎ捨て、待っていたフィルフィナの出迎えを受けた。
「お風呂に入ってすぐに寝るわ」
「お夜食は?」
「
「――お嬢様、ご機嫌ですね?」
「ふふふ」
鼻歌を歌いながらリルルは浴室に向かい、気が済むまでたっぷりのお湯に
「――がんばっていれば、いいことはあるものね」
全ての明かりが落とされた寝室、
戦いの中でつらいことは
「明日は、今日より少しでもいい日であればいい――」
リルルはそう祈り、目を閉じた。
さほどの時間を置かず、眠りは
『リルル、蕎麦をおごられる』終わり
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