「その五」

「またこいつがおしっこ引っかけたー!」


 母屋おもやの大部屋に入ると、大勢の子供達が独楽鼠こまねずみのようになって走り回る部屋のすみっこで、メイド服姿のクィルクィナが座り込んだ格好で泣き叫んでいた。そこでは布団がかれ、まだ三歳にもなっていないような何人かの小さな子供達が、昼寝の真っ最中だ。


 リルルが通っていた学校の教室、リルルの部屋と同じくらいの大きさの部屋。たたまれた布団が隅に重ねられて山を作っている。この部屋で四十人あまりが寝るのか――小さな子達ばかりとはいえ、ぎゅうぎゅうになるだろうことは想像できる。


「なんで、いつもいつもあたしにおしっこ引っかけるのよー!」


 わんわんと涙とよだれをき散らすクィルクィナに、ひとりの男の子が体によじ登ろうとするかのようにまとわりついている。まだ三歳くらいだろうか。天使のような笑顔をしていた。


「あらあら。ジミはいつもお利口りこうさんなのに。クィルが来た時にしかしないわね」


 エヴァが部屋に入ってくると、それまで無秩序に走り回っていた子供達が一斉に立ち止まり、そして一斉にエヴァの元に駆け寄って来た。


「エヴァ先生ー!」

「先生、遊んでー!」

「ダメですよ、もうお昼ごはんの時間なのですから。みんなで食堂に行きましょうね」


 エヴァはたちまちに取り囲んでくれた子供達の頭を、微笑びしょうを浮かべながらに平等にでていく。かつては、手を触れるどころか、視界に入れることさえ拒否きょひした子供達を。


「わぁぁぁ! こいつ、こいつあっちいけー!」

「くぃる、くぃる」

「クィルじゃなぁい! あたしはあんたなんか嫌いなんだからー!」

「あははは」


 下になにも穿いていない格好で、メイド姿のエルフの少女にしがみつこうとする男の子。その接近をなんとかはばもうとする攻防が繰り広げられていた。


「クィルのことが好きだから、気を引きたいのかしら」

「もっと他の方法で引けー!」

「布団を洗っておいてね、クィル」

「なんであたしがぁぁ――!?」


 それでもクィルクィナは、ほかほかと湯気を上げている小さな布団をかつぎ上げた。


退いてー!」


 側にいたリルルを突き飛ばすようにして、クィルクィナは泣きながら部屋を飛び出した。表の井戸の側で洗濯せんたくをするのだろう。


「……あの子は、サフィーナの所で働いてるんじゃなかったの?」

「そうよ? だから私もここにいるわ」


 リルルの肩がねた。振り返ると、今はクィルクィナの主であるサフィーナがそこに立っていた。

 頭に白い布を巻き、お出かけ用の簡素なドレスの上に前掛けエプロンをつけている。今の今まで台所に立っていたという風情だった。


「……リルルお嬢様、こんにちは」


 クィルクィナと双子の姉妹であるスィルスィナもその隣にいた。顔立ちの見分けはつかないが、表情と反応が全く正反対で、リルルはこのふたりを間違まちがえたことがない。


「サフィーナ、あなたもここに?」

「ごきげんよう、リルル。今日も精が出るようね」


 いるはずがない少女がいるのを目の当たりにして、リルルは困惑こんわくした。


「どうしてここにサフィーナがいるの? 私、ここの場所のことまでは教えてなかったと思うけど?」

「サフィーナ様はよくお越しになられますよ」

「エヴァ、私に様なんてつけることないのよ。友達じゃない」

「ですが、子供達の手前ですから……」

「サフィーナちゃん、ごはんできたの?」

「ええ、できました。みんなで食堂に行きましょうね」

「ごはんだー!」

「あああ、あなたたち、サフィーナちゃんなんていってはいけません。サフィーナ様、とお呼びしないと」

「サフィーナちゃま、ごはんたべよう!」


 歓声かんせいを上げて子供達が大移動を開始する。その濁流だくりゅうの中に巻き込まれ、リルルの体が竜巻のように回った。


「す……すごい勢いね」


 目を回されたリルルはその場にへたり込む。そんなリルルに、エヴァの手がびた。指と指が触れ、手の平が合わさってたがいをにぎった。


「みんな元気いっぱい、嬉しいやら困るやら――これが毎日なのよ、ふふふ」

「これが毎日……」


 立ち上がったリルルは、気が遠くなってまたへたり込みそうになった。これなら快傑令嬢となって悪者や警備騎士たちをムチでしばいていた方がはるかに楽だ。自分にエヴァの代わりがつとまるとはとても思えなかった。


「子供達が元気であれば、わたしも元気になれるのよ」


 最後にくっついている小さな女の子をエヴァは抱き上げた。まだ上手にあんよができない二歳くらいの子供か。


「力をもらっているのはわたしの方。……三ヶ月前は子供に触れようと思ったこともなかったわ」


 そうだろう、とリルルは思う。実際、平民を汚い物を見るようにしていたのだ――かつてのこの琥珀こはく色の目は。

 今、そんな名残はどこにもない。

 彼女を見て、ほんの少しの前まで傲慢ごうまんな公爵令嬢であったなどと、いったい誰が信じるだろうか。


「お母さんって感じね……」


 エヴァと女の子は頬をくっつけ、離し、くっつけるたびに笑う。本当に幸せそうに。


「私たち、あなたにひとつ飛び越された感じだわ。ねぇ、サフィーナ」

「そうね……」

「……ママ」


 エヴァの腕に抱えられている女の子が頭巾ずきんを軽く引っ張る、エヴァはそんな子供にほおを寄せた。子供のつるんとした真っ赤な頬が少女の頬に合わさる。


「まあまあ。先生はママではないですよ。エヴァ先生と呼びなさい」

「ママ……」

「ふふ、仕方ないのね」


 子供達にとっては、エヴァは本当の母親同然――いや、本当の母親だ。それはエヴァと子供の間でもそうだろうし、リルルとサフィーナにもそうとしか見えなかった。


「さあ、食堂に行きましょう。あなたたちも食べていって」

「ええ……それで、サフィーナ」

「はい?」

「どうしてあなたがここにいるのか、その答えを聞いていないんだけど……」

「それは、食堂に行けばわかるから。さ、私たちも」


 鼻歌ハミングを口ずさみ、エプロン姿のサフィーナは一足先に寝室を出て行く。それに影のようにしてスィルスィナが付き従い、首をひねるリルルが最後に取り残された。


「……食堂に?」


 食堂になにがあるのだろう。リルルも何度も立ち入ったことがある部屋だが、そんなびっくりするものは置いていないはずだ。


「……まあ、行けばわかるか……」



   ◇   ◇   ◇



 食堂に入って、リルルは本当にびっくりした。


「やあ、リルル」


 そこには、エプロン姿のニコルがいたからだ。

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