「リルルとエヴァレー」

 リルルがエヴァレーの震えないのどに息を吹き込み続け、すぐ隣でニコルがエヴァレーの止まった心臓を強く押すという、懸命けんめい救助活動きゅうじょかつどうが続いた。


「リ、ルル……あきらめないで……!」

「うんっ……!」


 生身の人形のようになったエヴァレーは、リルルの人工呼吸で吹き込まれた分の息をき出すが、それは自律的じりつてきな呼吸ではない。ただ、押し込まれ続けた空気が行き場を失って戻るだけなのだ。


「エヴァレー……起きて! 息を、息をするの……簡単なことでしょう! 眠っている間にもできることなんだから……!」


 もう、百回に届きそうになる息の吹き込みをエヴァレーのくちびるに合わせた自分の唇から送りながら、リルルは、ねんじ続けた。


 憎しみも嫌悪も、なにもない。吹き込み、押し、吹き込み、押す。生き返れ、とただそれだけをいのりながら、二人の少年少女は、単純な作業に全ての邪念じゃねんぎ落とす。


 もう、この少女は生きる意思を失ってしまったのか。それとももう、本当に死んでしまったのか――。


 そんな思いがささやきとなって二人の心に生まれる前に、手応えは来た。


「かっ……は……ぁっ!」

「っ!」


 突然に、エヴァレーの体が感電したようにり、あわくようにその喉が開いて、息のかたまりを吐き出した。続いて喉が大きなせきを発し、おぼれているかのようなあえぎに気道がきしむ。


「息が戻ったわ!」

「脈も打ち出した!」


 エヴァレーの手首に指を当てたニコルが、汗まみれの顔でさけんだ。

 その声に呼ばれたかのように居間の扉が開き、白衣を着た禿頭とくとうの老医師――老元医師が転がるような足取りでけ込んできた。


退け――退け、退け退け退け、素人共が」

「ノワール先生!」


 自分の元かかりつけ医であり、生誕時せいたんじ産湯うぶゆを使わせたこともあるノワールの登場に、リルルが喜色きしょくを発した。


「先生、今の今まで心肺しんぱいが停止していました。十分弱くらいだと思います」

心肺蘇生しんぱいていしは、すぐに行っていたのだな」

「はい!」


 ニコルとリルルがエヴァレーから離れ、代わりに一抱えもあるカバンを側に置いたノワールがそこにひざを着く。


「――よし、息も脈も止まっていたにしては、いい対応だな」

「失礼します」


 車輪付きのワゴンにもうもうと湯気を上げる大鍋を載せたフィルフィナが現れる。ノワールを呼びに行く前に火をかけていたのだろうか。


「おお、今頼もうと思っていたところだ。手際が良いな」

「当然です。わたしですから」

「弾丸の摘出てきしゅつと止血をやってしまおう。フィル、手は洗っておるな。これを消毒してくれ。――ニコル、頼みたいことがあるんだが」

「はい!」

「わしはこれから若いご婦人の胸をはだけるという、大変恐縮なことをする」


 元気よく返事をした後の表情のまま、ニコルは、固まった。


「わしは医者だから仕方ないとしても、少年、お前はわしの肩越しに、眼福がんぷくに預かるつもりなのかな?」

「すみません、すぐに出ていきます!」


 一秒でニコルは居間から退出した。


「――やれやれ、あの堅物かたぶつが。頭の中は魔法金属アルケミウムかなんかでできているらしいな」

「ノワール先生、エヴァレーは助かりますか……?」

「わしは目の前の患者かんじゃを死なせたりはせん。生きたまま引きがれたら、なおさらだ。まあ見ていろ――フィル、メスと有鉤鉗子コッヘル

「はい」


 即席そくせきの助手となったフィルフィナが、ノワールの手に消毒し終えた器具を渡した。



   ◇   ◇   ◇



 弾丸の摘出と傷口の縫合ほうごう、止血には三十分間をようした。

 皮膚一枚をた心臓の真上で、弾丸は止まっていた――遠巻きに様子をうかがっていたリルルは、そのノワールの台詞セリフと共に取り出された血まみれの弾丸が、白い皿の上に落とされる、コトン、という音を聞いた瞬間、背筋がこおったものだ。


「綺麗な肌に少し傷が残るかも知れんが、我慢がまんしてもらおう。命があるだけもうけものだ。で、リルル」


 下着以外は全て脱がされたエヴァレーが、胸に包帯を巻かれた姿で寝かされる。ニコルは廊下ろうかと玄関を警戒するといって、壁一枚向こうで張り付いているはずだ。フィルフィナも、庭への侵入者がいないかどうかを見張るために屋外に出ていった。


「どれだけ出血があったかわからんが、輸血ゆけつはしておく。お前さんの血が使えそうだ。このお嬢さんに血を分けてやってほしいが、いいか」

「またノワール先生に輸血の世話になるのね。この前してもらったばかりなのに……」

「リルル!」


 老医師の怒声どせいに、リルルはその場で一秒、浮き上がった。


「お前さん、その若さでボケてないか? わしはお前さんの輸血の世話なんぞ今まで一度もしたことがないぞ!」

「あ……!」


 ひやり、と冷たいものがリルルの心の底にすべり込む。

 そうだ、二ヶ月弱ほど前、確かに自分はノワール医師に輸血――傷ついたコナスに血を与える作業に協力してもらったが、あの時の自分は、快傑令嬢リロットだった。


「しっかりせい」

「ご……ごめんなさい、先生」

あやらんでいい。……なぁ、リルル。わしは全く関係ない話をするのだが……快傑令嬢というのは、そんなにこの王都に必要なものなのかね」


 一瞬だけ横目でリルルの顔をのぞき、ノワールは輸血の準備に取りかかった。伸縮式しんしゅくしきぼうばして立てる。


「ワシは世間話をしているんじゃぞ。だからお前も世間話として返せ」

「……コナス様と約束したらしいです。王都に快傑令嬢が求められている間は、戦ってほしいと」

「あの患者か。わしが命を救ってやったのに、すぐ死んでしまいおった。ああいうことをされるとやりきれん。立ち上がれん程度に治療ちりょうをしておけば、命は助かったのかも知れんとも考えるよ……」

「……先生……」

「派手な墓に埋葬まいそうされておったな。すぐに見つけられたよ」


 あの後、墓にまいってくれたのか――リルルは思わず、泣きそうになった。


「死者との約束か。それでは死んでも破るわけにはいかんな……。しかし、リルル、お前は快傑令嬢と知り合いらしいから、彼女にいってやってくれ。……なるべく早く、足を洗えと。彼女の危ない話を新聞で読むと、もう残り少ない寿命がちぢむ。卒倒そっとうしそうになる時もある。名医のわしでも、さすがにわし自身はれん」

「……はい」

「まあいい、年寄りのぼやき程度に聞け。しかしな、命を粗末そまつにしてはいかんぞ……と彼女に伝えてやってくれよ、頼む」

「……伝えました、先生」

「そうか、早いな。じゃあ、このお嬢さんをこの寝床に移す。ソファーの方はお前さんの場所ということだ。手伝ってくれ、リルル」



   ◇   ◇   ◇



 居間の明かりは、薄暗く落とされた。

 まだエヴァレーは目覚めてはいないが、その呼吸と脈拍が安定を見せてきたことに大丈夫だろうと判断し、ノワールは客間きゃくまの方で仮眠を取っている。


 時刻は、日付の変更を越えたところだろうか。ソファーに横たわり薄い毛布を一枚掛けられ、リルルはぼんやりと天井を見つめていた。右肘みぎひじの関節内側の血管に太い針が刺され、その針につながれた透明とうめいの細い管が、血の色にまってびている。


 赤い管は床に立てられた伸縮棒の枝に引っかけられ、高低差を取るために床に寝かされたエヴァレーの、左肘ひだりひじの血管に繋がっていた。庭に出ているフィルフィナが時折ときおり窓から顔をのぞかせ、部屋の中の様子を確認している。ニコルは姿は見せないが、一晩中、寝ずの番も覚悟しているにちがいない。


 幸い、襲撃しゅうげき兆候ちょうこうはなかった。


 あと小一時間で、この輸血も終わる。エヴァレーの生命にも支障ししょうはないだろうというノワールの見立てに、リルルは心底安心していた。少なくとも、後味の悪い思いだけはしなくてすみそうだ――。


「――真剣で命のやり取りをしていた貴女あなたから、まさか血をもらうなんてね……」

「エヴァレー?」


 リルルが視線を横に向ける。毛布を掛けられていたエヴァレーが、その目を開いていた。


「いつから目が覚めていたの?」

「少し前から。……ニコルがわたくしをここに運び込んだの?」

「そうよ。息も心臓も止まったあなたを、二人で必死になってなんとかしたんだから」

「……なんでそんなことするのよ……」


 暗がりの中でその表情はつかみにくい。淡々としゃべるその声だけが、感情を探る手がかりだった。


「知ってる? わたくし、ニコルを殺しかけたのよ」


 今度はリルルの心臓が止まりそうだった。


わたくしが殺すようにいったわけじゃないわ。ただ、部下の馬鹿共が考えもなしに痛めつけてね……それで一度、ニコルの息も心臓も止まったの。なんとか手当てが間に合ったからよかったけれど……どう、わたくしが憎くなった? 今すぐこの針を外してくれてもいいのよ」

「……エヴァレー、私、あなたが憎くてあの時戦ったんじゃない。あなたを殺したかったわけでもない。あなたを止めたかったから、戦ったのよ」

わたくしは貴女が憎かったわ、昔から」


 リルルの息が、止まった。


「……なによ、わたくしが持っていないものを、全部持っていて。貴族のくせに自由で、身分の低い連中にも心からニコニコできて……心を許せる友達がいて、誰にでも優しくて……なんで、そんなことができるのよ……。本当、本当に嫌な奴だと思ってた。だから、特別に目をかけて、イジメてやったのよ」

「…………」

わたくしには、自由なんてない。心を許せる相手もいない。親には死んで欲しいと思ってるし、あのくだらない取り巻きの連中も、今日にでも全員くたばればいいのよ。ああ、もう本当、くだらない人間ばかりだわ」


 少女の唇に熱がこもる。その動きが加速する。


「貴女も嫌い。下品な平民も嫌い。高慢ちきな貴族も嫌いなら、汚くてくさい亜人たちも嫌いよ。女を交尾こうびする対象としてしか見ていない男も嫌いなら、そんな男に浅ましくびる女も嫌いだわ!

 ――でもね、わたくしが一番嫌いなのは、こんなゆがんだ心を持つわたくし自身なのよ!」


 耳をふさぎたくなるのをこらえて、リルルはその罵声ばせいの全てを受け止めた。

 そうしなければならないと思ったから、そうした。


「リルル、笑える話をしてあげるわ。わたくし、婚約者に爆殺されそうになったのよ」

「…………!」

「嫌な名前をひとつ、思い出させてあげましょうか」


 リルルの耳が震えた。それだけでその名前が予想できた。


「バリス・ヴィン・エルズナー侯爵子息しそく

「……やめて」


 リルルにとって、思い出したくもない名前が出てきてくれた。


「彼の供述調書きょうじゅつちょうしょを読んだわ。貴女と結婚したあと、貴女と貴女の父親を殺して、フォーチュネットの会社を乗っ取る計画だったらしいわね。どこの高家も金に困ってるとはいえ……ね。リルル、貴女は知らないかも知れないけれど、彼、この間、処刑しょけいされたのよ」

「やめて! お願いだから!」

「最近は派手にはしないけれど、かといって全く見えない所でもやらないのよ。首になわをかけられて背中をられる直前の彼、どんな様子だったか聞きたい?」

「聞きたくない!」

「そう。じゃあ勘弁してあげるわ。――悪人であっても命は奪わない快傑令嬢、ね。でも結局貴女は無罪放免むざいほうめんで、悪人たちを解放しているわけじゃない。全員を官憲かんけんに引き渡している。どいつもこいつも、死罪しざい相当の犯罪者じゃない。結局貴女は自分の手にかけていないだけで、人を殺してる」

「仕方ないじゃない! それ以外に方法がないんだもの!」

「そうね、方法がないわ。――わたくしがいいたかったのはね、貴女の手も血で汚れていないわけじゃないってことなのよ。かしこいリルル嬢はそれくらいわかっていて、目をそむけていたのでしょう?」

「…………」

「嫌でしょう、本当のことをいわれるのは。わたくしが憎くなった? ……殺してくれていいのよ。今ならなんとでも言い訳がつくでしょ。あの医者もどうせ貴女と結託けったくしているんでしょうし。ほら、殺しなさい。そこににいくらでも道具があるんでしょう」


 ワゴンに並べられたまま放置されているメスを、リルルは頭の中で描いた。


「もっと腹の立つことをいってあげるわ。わたくし、ニコルと寝たのよ」


 リルルの脳の半分がなまりに変わった。


「あの子を誘惑して、一晩たっぷりとむつみ合ったわ。彼、素敵ね。恥ずかしい話だけれど、彼の情熱にわたくしも我を忘れたわ。彼の熱い口づけをこの首筋に受けながら、わたくしはあの子の前でこの両脚を――」

「エヴァレー、わかりやすいウソはいわなくていいの」

「…………なんで、そんな簡単にウソってわかるのよ……」


 エヴァレーの意志がくだけた。それくらいのしんの強さがリルルの声にはあった。


「そんなことはできないから、ニコルには」

「……でしょうね……もう少し上手い作り話をするべきだったわ……」

「エヴァレー。私を怒らせようとしても無駄よ。私はあなたを殺さない」

「じゃあ、わたくしはどうすればいいのよ……」


 小さな嗚咽おえつが、声に混じった。


「貴女にとららえられた以上は、送られる先は監獄かんごくよ。わたくしもきっと、あのバリスと同じように首に縄をかけられて、背中を蹴られて突き落とされるまで、盛大醜態しゅうたいさらすことになるのよ……なんであのまま死なせてくれなかったの、わたくしに苦痛を味わわせたいから?」

「エヴァレー……」

わたくしを放免しろなんていわない。怖いの……自業自得とはいえ、これから先の運命を想像するだけで胸がつぶれるのよ! 大勢の見世物になって、らす物を漏らせるだけ漏らすなんて、絶対に嫌……。だから、リルル……!」

「……眠りなさい、今は」

「…………」


 それ以上の声を上げるのも無駄とさとったのか、エヴァレーは口を動かすのをやめた。目を閉じた。

 ただ、静けさを取り戻した部屋の中に、小さな忍び泣きが響き続ける。

 この手の平の中の窮鳥きゅうちょうをどうするべきか――リルルもまた悩みながら、自分も目を閉じた。

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