「深い森からの、解放」

 カデルがかかげる手の平から、空気を蹴立けたてるような波動がひろがった。その力が我が身に降りかかるという本能の察知さっちに、身動きのひとつもできないリルルが目を閉じ、全部の神経を張り詰めさせた。


「――う、う、う――」


 祈りをとなえる間も、脳裏のうり走馬灯そうまとうめぐいとまさえなかった。


「く――――!」


 ――と、背中に感じていた圧迫感が、ふわ、と消えた。

 瞬間後には訪れると覚悟していた死が、自分の背中をかすめもしなかったことに、リルルが目を開ける。


「…………え?」


 砂のような細かい瓦礫がれきこぼしながら、天井からリルルの上に落ちてのしかかっていた石材が、浮いた・・・


「え? え?」


 少女がひとつ戸惑とまどうごとに、奇跡的に少女をつぶさずに積み上がっていた石材の一つ一つが取り払われる。カデルが左手をばし、払うだけで、数百カロクラムではかないほどの重量物が払われていった。


 ほどなくして、灰色の砂ぼこりを全身に浴び、うつ伏せに倒れているドレス姿があらわになる。

 まだ頭のしんがしびれて動けないリルルの元に、カデルが歩み寄り、しゃがみ込んだ。


「動けないか」

「あ……あなた……?」

「潰れているところはないようだな。運のいい娘だ……」


 リルルがかぶっている帽子ぼうしにカデルが手を触れ、広いつばにかかった砂と破片を払う。首を動かすことさえ億劫おっくうなリルルは、その意図が理解できずに瞳を震わせるだけだった。


「失礼」


 少女を仰向あおむけにしてその背と膝に腕を回し、カデルがリルルを両腕で抱き上げる。男性にそんな抱き上げられ方をされたことのないリルルが、反射的にほおめた。


「……ど、どうして……」

だまっていろ」


 まだ無事な姿で残っていた玉座に、カデルはリルルを座らせた。続いて肘掛ひじかけのふたを開け、その中に収められていた突起とっきを押し込む。

 玉座を中心にして、半径一メルトほどの床が鏡面きょうめんのように変わった。まるで魔法のような――いや、それはまぎれもない魔法だった。


「これは……転移鏡てんいかがみ……?」

「いいか、よく聞け」


 椅子いすについているかわのベルトで、カデルはリルルの体を固定した。リルルは動かない、拘束こうそくされようがされまいが、まだよく体を動かせない。


「この玉座には、緊急時きんきゅうじの脱出機構がある。転移鏡のことは知っているのだな。機構が働けば、一瞬にして竜の外に放り出される仕組みだ――試したことはないから、具体的にどうなるのかはわからん」

「……私を殺さないの? どうして?」

「どうしてだと?」


 遠くでまた爆発音が響く。その気配の距離きょりさぐるように、カデルが首を動かした。


今更いまさら、お前を殺してどうなる? お前を地獄の道連れにするのか? ……冗談ではない。道中、さぞかしうるさくわめいてくれることだろう。うっとうしくて仕方ない」

「あなた……」

「――すまなかった…………」


 リルルが目を見開いた。まだ奥の方がしびれている頭でも、その短い言葉はリルルの頭――いや、心にぶつかってきた。


「お前は信じてくれないかも知れない。だが、私はお前にびる。……詫びても詫びようがないことだろうし、つぐなおうとしても償いきれまい。ゆるしは得られないだろう。……すまなかったな。無意味にお前たちを傷つけてしまった……」


 カデルの頭が、力なく下がった。血にれ続ける顔が伏せられた。証明するものはない――ないが、リルルにはそれがいつわりから来ている言葉とは思えなかった。


「あ……あなたも来るのよ!」

「これは一人用だ。助かるのは、一人だけだ」


 カデルの口元に、うすい笑いが浮かぶ。自分の運命に皮肉を覚えるように。


「……お前は生きねばならないのだろう。だから、お前は生きろ。私はここでほろぶ……お前からすれば、逃げたことになるのだろうな。だから、今、心からコナスや他の者たちに謝ろう。……私は、本当に、おろかなことをした……」

「あなた……」

「これを、持っていけ」


 肘掛けに埋め込まれていた真紅の宝玉ほうぎょく、眼球ほどの大きさをしたひとつの球体を外し、カデルはそれをリルルがはめている手袋の中に入れた。そして、思い出したように、もうひとつまっている黒い球体も取り外した。


「――こいつはもう、不要ふようだな……」


 カデルはそれを紙クズのようにその場に転がした。実際、もう意味がないものだった。


「そういえば、お前に……フローレシアお嬢さん挨拶あいさつを受けながら、私は挨拶をしていなかった。失礼したな」


 カデルが背をばした。片足を引き、腕を曲げて右掌を上にし、左腕の肘に当てた。


「遅ればせだが、私も名乗ろう。私はカデル。カデル――」


 その続きを口にしようとして、カデルは迷った。ほどなくして、またも自嘲じちょうするような笑いが浮かぶ。


「――いや、もう、私はただのカデルだ。名無しのカデル……それが私の名だ」

「カデル……」


 リルルのくちびるが音をきざむ。甘い雨のようにそれがカデルの耳にみた。


「リルル・ヴィン・フォーチュネット嬢。私はお前に負けた。いや、そもそも、勝負にすらならなかった。闇の奥でねた心をとがらせていただけの私が、太陽のような心を持つお前に、かなうわけなどなかったのだ……」


 冷笑れいしょう傲慢ごうまんさもない。全ての悪意の仮面ががれ落ちた後にのぞく素顔を見せて、カデルは微笑ほほえみ、リルルの手をうやうやしく取ってその甲に唇を当てた。

 リルルにそれを拒否する理由は……ない。ただ、カデルの唇の感覚を手袋越しに感じるだけだった。


「もっとお前と話していたかったが……もう、時間もないのでな」


 少年が後退あとずさる。反射的にリルルは腰を浮かそうとするが、玉座のベルトに固定された体を動かすことはできなかった。


「待って! まだ、話は終わっては――」

「さらばだ、優しいリルル」


 カデルが、身を退いた。


「待っ――――」


 リルルは手を伸ばすがとどかない。リルルの腕が伸びきったのと同時に、玉座を支える転移鏡は発動した。少女の体が鏡となった床に椅子ごと吸い込まれ、あっという間に消えた。


「ああ…………」


 少女が最後に残した香りが鼻をくすぐるのを感じる。今の今までそこにいた少女の残像を思い浮かべると、微笑しか出なかった。

 もう、あと数分の命だというのに、その数分を幸せな心地で過ごせるのが、ただ、単純シンプルに嬉しかった。


「……さらばだ……」


 リルルの体におおい被さろうとしていた石材の上に、立つことさえも難儀なんぎになっていたカデルは腰を下ろした。座ってみると、固く冷たいはずの瓦礫がれきが何故か座り心地がいい。


「はは、はは、は……。これが、私にお似合いの玉座ということか……まったく……ふふ……」


 爆発音の歩みが近づいてくる。竜の『内臓』の誘爆ゆうばくが進んでいるようだ。もう、やることをやっておかなければ。


「……母上、申し訳ありません。母上にいただいた命ですが、カデルはそれをちぢめてしまいました。カデルは母上がくなった時に、本当によく考えるべきでした……自分がどう生きるべきかを……。母上がいなくなったことのさびしさから、母上の無念を晴らすことが唯一、正しいことなのだと、私は思い込んでしまった……」


 胸から取り出したペンダントのふたを開いた。

 ――中には、色褪いろあせかけた写真が収められていた。


「母上…………」


 斜め横からの顔を見せている、三十歳を少し過ぎたくらいの女性。飛びかけた色の中でも、長い髪の銀の色だけが、まだかろうじてその輝きを見せている――。


「……いうほど、似てないな…………ぐうっ!」


 横殴りの爆圧と爆音、爆風がカデルをまともに殴りつけた。意識をがされる勢いで、少年の体が吹き飛ばされる。体がねじられるように回転して頭の中が一瞬、本当に真っ白になり、全身に重いものが叩きつけられるように、転がりながら固い地面に落とされた。


「く、うう、ぅ……」


 腹を、胸を、顔を地面に叩きつけられる。体の前から後ろから打撃が加わってきて、激痛の嵐の中にカデルは翻弄ほんろうされた。


「脚が……脚が、寒い、寒いな……。……あ、ああ……道理で……」


 再び天井から降ってきた石材が、下半身を潰していた。頭から急速に血が下がって行く。ここがどこであるかという認識もあっという間にあやふやになっていく。


 顔を起こすという意思すら希薄きはくになったまま、ただぼんやりと片目を開いていたカデルの目に、うつるものがあった。

 ――目の前に人が立っている。


 そんなことは、あり得ないはずなのに。


「お……ま……、え、は……?」


 見上げた。


「……どうした……何故、まだここに……」


 ――コナスがいた。

 丸っこい体型をし、丸っこい顔つきで、丸っこい微笑みを無言で浮かべて、カデルを見下ろしている。


「…………先に、向こうに行って、いるのではなかったか……。のろま、なのだな……ふふふ……」


 微笑み続ける……続けるだけのコナスは、こたえない。

 いや、カデルにもわかっている。それが、ただのまぼろしであることは。

 だが、幻でも、嬉しかった。


「……ちがうな。お前は、私のために待っていてくれたのだろう……。世間知らずの私が、迷わずに、向こうに行けるように……ふふふ、はは、ははは……本当に、お節介な奴だ……」


 少年の目から、あたたかい涙が流れた。リルルに流させられ、今、またコナスに流される涙。

 母が死んだあの時に、それを湧き出す心の泉などは、もうれ果てたと思っていたのに。

 だが、悪い気分ではない――いや、いい気分だった。幸せだ、とも思えた。


「お前にあんな目をわせた私を、まだ、気遣ってくれるのか……。……私も、もっと早く出会う、べきだった……」


 コナスは応えない。表情も変えない。声も出さない。

 それでも、カデルは満足だった。

 死ぬ時に一人ではない。十分だった。


「闇の中に引きこもっておらずに、陽の当たる世界に自分から出て、あのリルルのような娘や、お前のような人間に……もっともっと、色んな、多くの人間に……」


 そうしたら、こんな愚かなことは、しなかったのかも知れない。

 ……いや、違うか。


「……違うな。私が弱かった、それだけだな……」


 闇の霧に覆われていた心を、涙が洗い流していく。目から涙が汲み出される度に心が晴れていく。

 どうして、今の今まで気が付かなかったのだ。

 素直に泣くことができていれば、自分で自分を闇から救い出すこともできたのに。


 自分の人生は間違いだった。だが、最後の最後にでも、それに気づけたのは幸いだった。

 間違いに気づけたのだから、今は正しい道にあるのだ。

 最後には、正しく生きていられた。たとえそれが、数分のことであっても――。


「……コナス、こんなことを頼めた義理では、ないのかも知れないが……頼む……」


 地響きが伝わってきた。カデルは目の奥からきぬあたたかい無限のみ出しを覚えながら、目を閉じた。

 それでも不思議に、世界は明るかった。


「もしも、向こうで、お前と、会えたなら…………その時は、私の、ともだちに――」


 燃え盛る星の爆発から発せられるほどの光が、カデルに残された世界の全てを満たした。

 爆発がその場の全てを消滅しょうめつさせ、深い森の奥で迷い続けていたこども・・・の、悲しみも憎しみもなにもかも洗い流し、この世から、全ての全てを消し去っていた。

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