「想い出の馬・ロシュ」

 その栗毛くりげの馬は、もう一日の半分以上を寝て過ごす存在だった。


 そもそも馬は、三、四時間も眠れば十分な動物だ。それも、覚醒かくせいを挟んで短い睡眠すいみんを繰り返す。だがその馬は、わらが積み上げられた寝床ねどこに横たわって大きないびきをかいていた。完全な熟睡じゅくすいだ。


 小さな厩舎きゅうしゃ。馬が八頭も入ってしまえばぎゅうぎゅう詰めになってしまうくらいの、小屋同然の粗末そまつな建物。そんな小さな厩舎が広く見えてしまうのは、この貸し馬屋にはその一頭しか馬がいないからだった。


 すで馬齢ばれいを優に二十年――いや、三十年に届こうかという老馬ろうば。仕事にり出されるといっても、休日に近所の子どもを乗せて街を歩くくらいのことしかない。かつては馬力ばりきのある農耕馬のうこうばとしての仕事もあったのだが、それも遠い昔のことだった。


 この厩舎でみ、水を飲み、周囲を少し歩いては寝床に戻って、横たわる。

 それがその馬、ロシュネールの生活の全てだった。

 少なくとも、この二年間は。


 だが、今日はちがった。昼間から惰眠だみんをむさぼる老馬の鼻に、くすぐるように触れるにおいがあった。


「ロシュネール」


 老馬の耳がひくん、と動いた。深いはずの眠りから覚めて大きな目が開く。人間の二倍ほどあるその黒い目に輝きがともって、丸い瞳がぎょろりと回った。


「ロシュ、久しぶり」

「――――」


 金色の髪を風に優しく揺らしている少年が目の前に立っていた。かすかな深みを帯びた青い瞳が、いた馬を愛おしげに見下ろしている。ぶるるる、とその大きな口から小さく息がれて――馬は、ね上がるように立ち上がっていた。


「うわわ!」


 その勢いのまま、その馬は少年の体に顔を押し当てる。嬉しそうなうなり声を上げ、これでもかという勢いで少年に顔をこすりつけた。馬の大きく長い顔を全身で受け止める格好かっこうになり、少年――ニコルが喜びの声を上げる。


「わあっ! ロシュ、元気じゃないか! もうすっかり寝てばっかりだって聞いてたけど!」

「――やっぱり、二年留守るすにしたって覚えているもんだな」


 貸し馬屋の主人であるジャゴ爺さんが音もなく現れた。老馬と同じくらいの年輪ねんりんを重ねた肌がかさかさに乾いている。それでも、今日はいくらか色艶いろつやがいい――目の前で幸せな光景が生まれているからだ。


「ロシュ、やっぱりちょっとせたかな――仕方ないか。もうずいぶんおばあさんだものね……わあっ、ロシュ、やめなって!」


 長い舌を伸ばして、老馬――ロシュネールがニコルの顔を何度もめる。舌で感じる味がなつかしいとでもいうように、その表情にいっぱいの優しさを浮かべていた。


「ただいま。帰ってきたよ、ロシュ。もう、いつまで体をこすりつけてるんだよ、ははは……そんなに嬉しいか、喜びすぎだって」

「そりゃもう、こいつはお前さんにゾッコンもゾッコン、れ抜いているからな」


 二年分の時間を取り返そうかというように、ロシュネールはニコルの顔、胸、腹に馬体をこすりつけて飽きる気配がない。


「こんなに喜んでくれるんだったら、もっと早く帰ってくればよかったかなぁ。……でも、君の中身は全然変わんないなぁ……ははは……」


 ニコルもロシュネールの顔に抱きつく。母の他にようやく、心から素直に抱きつける相手が見つかったような気がした。リルルとの婚約こんやく話の立ち上がりが、町の知り合いたちの心に微妙な影を落としているからだ。


 ロシュネールに会いに来てよかったとニコルは心から思えた。ロシュネールとの間には、喜び以外のなにもらなかったから。


「ニコル、ちょっとうちに寄ってけ。茶でも出すぞ」

「うん、ごちそうになるよ。ロシュ、またあとで――うあ」


 振り向いたニコルのえりがロシュネールにくわえられる。足だけが前に進んでニコルは倒れそうになった。


「ロシュ、いったいなにを」


 ニコルの襟から口を離し、ロシュネールは柱にかけられていたものを鼻でなぞった。

 ――くらと、あぶみだ。


「……乗れっていうのかい?」


 ぶるる、ぶるるるとロシュネールがうなる。その目が「お願いだ」とうったえているようにも見えた。


「乗ってやれよ」


 ジャゴ爺さんが鞍を手に取り、ポンポンと手で叩く。数日は使っていなかったのか、盛大せいだいにホコリが舞った。


「こいつはお前を背中に乗せて走りたくて仕方ないんだろう」

「ロシュ、そうなのかい?」


 ロシュネールがうなずくようにニコルの顔に鼻をこすりつけた。


「ああ、そうそう」


 鞍を固定し、鐙に不備がないかを手早く確かめてから――ハンチングぼう目深まぶかにしてジャゴ爺さんがそれまでとはちがう目を見せた。


「……夕暮れまでこいつで早駆はやがけするのなら、一万エルいただきます……」

「わ。しっかりしてるなぁ」


 ニコルが笑う。


「もうお前もガキじゃねぇ、准騎士じゅんきし様だ。タダで乗せるのは失礼だろ」

「ははは。そうだね――僕も騎士になっちゃったんだ。はい、ジャゴ爺さん」

「……毎度あり」


 紙幣しへいを一枚渡し、ニコルは手綱たづなを取った、鐙に足をかけて一気に飛び乗る。ロシュネールはその間、待ちわびるように小揺るぎもしない。


「おお、やっぱりさまになってるな」

「僕を誰だと思ってるの。ゴーダム公を父と呼ぶことを許された騎士ニコルだよ。ロシュ! じゃあ外に行こうか――わあっ!」


 ロシュネールが前脚を大きく振り上げた。体重が背中側にかたむいて、ニコルがひざに力を入れてしがみつく。


「ロシュ! はしゃいじゃダメだって! ――じゃあ、ジャゴ爺さん、行ってきます!」

「おう。日が暮れる前には帰ってくんだぞ――水筒すいとう、持ってけ」

「ありがとう! ――ロシュ、行くよ!」


 ムチはらない。手綱を一度しならせると、待ってましたとばかりにロシュネールは厩舎を飛び出した。ほど近い街路がいろへとすぐに出てしまう。


「ロシュ! 速いよ! 危ないからもっとゆるめて――街の外に出たら思う存分走らせてあげるから!」


 乗っているのか乗せられているのかわからない一頭と一人を見送り、ジャゴ爺さんはハンチング帽を取ってそれを胸に当てる。

 馬蹄ばていの響きが聞こえなくなるまでその場に立ちくし――無言で、小さく一礼をした。



   ◇   ◇   ◇



 城門を出、広い街道に出る、固い石畳いしだたみけるように道を外れ、どこまでも平らに続く草原にロシュネールはその鼻先を向けた。

 くさりからき放たれたように速度が上がる。飛ぶようにひづめが前に前に出る。リズミカルに揺れる馬上でニコルは、おどろきと嬉しさの混じった笑みを浮かべ続けていた。


「ロシュ! 速い、速いって! 君、まだこんなに走れたのか――すごいな! 二年前と変わってない……初めて会った時みたいじゃないか!」


 もうロシュネールの歳も歳だ、散歩に毛が生えたくらいのものにしかならないだろう|そんなニコルの予想を幸せなくらいに裏切って、ロシュネールはけた。

 駆けて、駆けて、駆けて、駆けた。


 風を切る、風を従え、風と一つになって走る。

 風が吹く、風となる、風よ吹け――。


「いいよ! 付き合うから! ロシュ、本気を出していいからね! ロシュ、僕は君が大好きだよ! 帰ってきて、帰ってきて本当によかった! ロシュ、行けぇ!」


 歓喜かんきしかないいななきでロシュネールがこたえる。風をかき分け、地面に足を打ち付け、今までの退屈たいくつを全て風でこそげ落とすかのようにロシュネールは走った。

 大好きな少年を背に乗せて、走る。

 二年間に望み続けた願いの全部を今、かなえさせるように。



   ◇   ◇   ◇



 太陽はもう、西の方角にかなりかたむいていた。時刻にして午後四時すぎくらいというところか。ほどなくして地平線が夕日に染まるだろう――いや、もううっすらと赤くなり始めている。


 はる彼方かなたになってしまった王都の方角を見ながら、ニコルとロシュネールは大樹たいじゅもとで休んでいた。脚をたたんで座るロシュネールの肩あたりにニコルがもたれかかり、水筒の水を飲んでいた。


「ロシュ、すごかったなぁ……気持ちよかったよ。ありがとう」


 振り返るようにしてロシュネールがニコルの顔にほおをこすりつける。


「休んだら、引き返そう。暗くなったらまずいからね。――でも、君と遠駆とおがけをした時、この木の下でよく休んだよね。覚えてる?」


 ロシュネールが鼻でニコルの胸を何度もでた。


「そう、覚えてるんだね。あの頃はよかったなぁ……僕もひとつのことしか考えなくてよかった。騎士になるんだって、それだけを考えていればすんだからね」


 ロシュネールがニコルから顔を離す。左の目で金色の少年を見つめた。


「がんばって准騎士になれたけど、准騎士になってからの方が悩むとか考えてなかったなぁ……僕って単純なのかなぁ。自分で思ってるほど賢くないみたいだね、あははは……」


 ぶる、ぶるるる、と鼻が鳴る。黒くんだ優しい目に見つめられて、ニコルは微笑ほほえんだ。


「ロシュ、なぐさめてくれてるのかい?」


 言葉は通じない――でも、心は通じている。今、この瞬間、誰よりも強く、固く。


「ロシュ。僕がえらくなったら、ジャゴ爺さんから君を買ってやるから。そうしたら、小さくても厩舎を作って、君にそこに住んでもらうんだ。毎日体を洗ってやるからね。だから長生きしてよ――わわっ! そんなに喜ぶなって!」


 ロシュネールの大きな舌がニコルの頬を何度もめる。まぶたの形が完全に笑みのそれになっていて、はしゃいでいる感情しか伝わってこなかった。


「――そろそろ、帰ろうか、ロシュ。遅くなったらジャゴ爺さんが心配するからね」


 水筒の水を飲みして、ニコルは立ち上がった。名残なごりしそうに座っていたロシュネールも立ち上が――ろうとして、後ろ足をくじくようにして失敗した。


「わわわ」


 胴体どうたいが押し寄せてきたのをまともに食らって、ニコルは尻もちをつきそうになった。両者とも踏ん張るようにしてなんとか姿勢を保つ。


「まったく、無理しすぎなんだって。帰りはゆっくり歩くよ。ロシュ、君も自分の歳を考えなくっちゃダメだよ?」


 ぶんぶん、と首が横に振られる。


「また遠駆けに付き合ってあげるから。ははは――ジャゴ爺さんがもうかるなぁ。そうだ、また君の世話を毎日して、休みの日にただで乗せてもらうか。……いや、警備騎士になっちゃったら時間が取れるかどうかわかんないなぁ……」


 栗色の毛におおわれた首をでる。何度も、何度も。


「――まあ、いいや! 明日のことは明日悩めばいいや――ロシュ、帰るよ!」


 ロシュネールが頭を下げる。鐙に片足をかけ、脚を振り上げてニコルは再び鞍にまたがった。


「いいね――ゆっくりだよ、ゆっくり。わかってる?」


 がくん、とニコルの体が後ろにかたむいた。ロシュネールの後ろ脚が力強く大地をり出し、前脚を大きく振って走り出したからだ。


「わわ、わわわわ! これじゃ行きと変わらないじゃないか! ――もう、仕方ないなぁロシュは!」


 それもまた喜びだというように笑い、ニコルは手綱を握りしめた。少し冷たくなってきた風に髪を、頬を、服を、心を撫でさせる。心ゆくまで力いっぱいに駆けてくれるロシュネールの馬体にしがみつき、その温かさに気持ちの全部を溶かした。


「ロシュ――君は本当にいい奴だよ。僕は、帰ってきてよかった……」


 鋭いいななきがその素直な気持ちに応えた。

 地平線に沈み始めた太陽が、西に広がる世界を真っ赤に染め上げている。その太陽の下に――太陽の先に自らを投じるように、一つの心と化した一体の人馬は、一陣いちじんの風と化して駆けた。



   ◇   ◇   ◇



「よう、お帰り」


 ジャゴ爺さんの貸し馬屋に到着した時には、日はとっぷりと暮れていた。住居けん店舗てんぽ軒先のきさきでジャゴ爺さんは帰りを待ちわびるようにして立っていた。


「ただいま、ジャゴ爺さん――ロシュ、元気だね。もうすごい勢いで走ってくれたよ」

「乗せてるのがお前だからだよ。まったく、色気いろけづきやがって」


 飛び降りたニコルがロシュネールを厩舎に誘導ゆうどうする。既にランプに明かりが灯され、粗末そまつな小屋を青白い光に照らしていた。


「遅くなっちゃった。こんな時間まで出かけるなんて誰にもいってなかったから、家でも心配しているかも。ジャゴ爺さん、僕、そろそろ帰るね。今日はありがとう」

「なにいってんだ。金をもらってるんだから商売だ。――毎度ありがとうございました」

「あははは……」


 鞍と鐙を外す。すっかりホコリが取り払われたそれをジャゴ爺さんが柱につるした。


「よくよく考えれば、ジャゴ爺さんがそういうのは、初めてかも知れないなぁ……。僕、ジャゴ爺さんにずいぶんオマケしてもらってたんだね」

「そうだぞ。お前もやっとそれがわかるようになったか」

「これからは、ジャゴ爺さんに儲けさせてあげるよ。――ロシュ、遅くなったから僕は帰るね。明日もひまだから、顔を見に来るからね……じゃあ、さよなら……っと」


 体をひるがえしたニコルの背中の服を、ロシュネールがくわえた。後ろに引っ張られる形になってニコルが「うわあ」と声を出す。


「ロ、ロシュ?」


 ロシュネールが脚をたたんで寝そべり、わらの寝床の上を鼻でつついた。


「――今晩、一晩泊まって行けってよ」


 ジャゴ爺さんが笑う。


「どこまでわがままな婆さんなんだ、まったく。ニコル、すまんが付き合ってやってくれ。お前の家の方には、ワシが言付ことづけておくから。用事はないんだろう?」

「ええ、まあ。……じゃ、いっか。二年間放っておいたんだもんね。罪滅つみほろぼしだ。ロシュ、朝までいてあげるよ」


 ヒィィン、と小さないななきが返ってくる。待ちきれないようにその口がニコルのそでをくわえた。


「うわわわわわ」


 引っ張られた勢いでニコルがロシュネールに抱きつく格好になる。そんなニコルを離すまいと、ロシュネールは頭と尻尾でニコルを抱え込むようにした。


「はははは……ニコル、お前、ロシュネールと結婚したらどうだ?」

「ロシュが人間でおばあちゃんじゃなかったら、とっくの昔に結婚してるよ。母さんや婆ちゃんによろしく」

「ああ。めしも買ってきてやるから――ああ、これ」


 ジャゴじいさんが紙幣をニコルに差し出した。ロシュネールにまたがる前にニコルが渡した一万エル紙幣だ。


「朝までこいつの面倒見る駄賃だちんだ。これくらいが相場そうばだろ」

「――いいのに」

「馬鹿いえ。ワシは商売人だぞ。そこらへんはちゃんとしておきたいんだよ――じゃあな」


 ゆっくりとした歩調でジャゴ爺さんは歩いていった。


「朝まで君と二人きりか」


 木陰こかげで休んでいた時のように足を投げ出し、ニコルはロシュネールの肩に背中を預けた。自室の寝台ベッドと同じくらいに安らげる――いや、今のニコルにとっては最高の寝床だった。鬱屈うっくつした気分がもう、かけらも残っていない気がする。


「懐かしいな。何度も、こうやって一緒にいたっけ。寝心地ねごこちは変わんないね。あたたかいや……本当に、本当に懐かしいな――」


 希望と不安を胸にし、騎士になる願いを胸に秘めて王都を旅立った二年前。なにも考えず、一本の道をただひたすらに駆けていればよかったあの時の気持ちがよみがえってくる。


「心配事はなにも解決してないけれどさ。なんかすごく楽になったよ。ロシュ、ありがとう。なんだかんだで僕の方が君に甘えてるね。ロシュ――好きだよ。これからもよろしくね」


 全部の体重、全ての気持ちを預けてニコルは目を閉じた。それだけでもう、数分もせずに眠りに落ちてしまいそうだ。そんなニコルを愛おしむようにロシュネールは優しく顔をこすりつける。


 自分は帰ってきたという安らぎに心を委ねて、ニコルは心の幕を引いていた。今夜は、本当にぐっすりと眠れそうだ――。

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