「想い出の馬・ロシュ」
その
そもそも馬は、三、四時間も眠れば十分な動物だ。それも、
小さな
この厩舎で
それがその馬、ロシュネールの生活の全てだった。
少なくとも、この二年間は。
だが、今日は
「ロシュネール」
老馬の耳がひくん、と動いた。深いはずの眠りから覚めて大きな目が開く。人間の二倍ほどあるその黒い目に輝きが
「ロシュ、久しぶり」
「――――」
金色の髪を風に優しく揺らしている少年が目の前に立っていた。
「うわわ!」
その勢いのまま、その馬は少年の体に顔を押し当てる。嬉しそうなうなり声を上げ、これでもかという勢いで少年に顔をこすりつけた。馬の大きく長い顔を全身で受け止める
「わあっ! ロシュ、元気じゃないか! もうすっかり寝てばっかりだって聞いてたけど!」
「――やっぱり、二年
貸し馬屋の主人であるジャゴ爺さんが音もなく現れた。老馬と同じくらいの
「ロシュ、やっぱりちょっと
長い舌を伸ばして、老馬――ロシュネールがニコルの顔を何度も
「ただいま。帰ってきたよ、ロシュ。もう、いつまで体をこすりつけてるんだよ、ははは……そんなに嬉しいか、喜びすぎだって」
「そりゃもう、こいつはお前さんにゾッコンもゾッコン、
二年分の時間を取り返そうかというように、ロシュネールはニコルの顔、胸、腹に馬体をこすりつけて飽きる気配がない。
「こんなに喜んでくれるんだったら、もっと早く帰ってくればよかったかなぁ。……でも、君の中身は全然変わんないなぁ……ははは……」
ニコルもロシュネールの顔に抱きつく。母の他にようやく、心から素直に抱きつける相手が見つかったような気がした。リルルとの
ロシュネールに会いに来てよかったとニコルは心から思えた。ロシュネールとの間には、喜び以外のなにも
「ニコル、ちょっとうちに寄ってけ。茶でも出すぞ」
「うん、ごちそうになるよ。ロシュ、またあとで――うあ」
振り向いたニコルの
「ロシュ、いったいなにを」
ニコルの襟から口を離し、ロシュネールは柱にかけられていたものを鼻でなぞった。
――
「……乗れっていうのかい?」
ぶるる、ぶるるるとロシュネールが
「乗ってやれよ」
ジャゴ爺さんが鞍を手に取り、ポンポンと手で叩く。数日は使っていなかったのか、
「こいつはお前を背中に乗せて走りたくて仕方ないんだろう」
「ロシュ、そうなのかい?」
ロシュネールがうなずくようにニコルの顔に鼻をこすりつけた。
「ああ、そうそう」
鞍を固定し、鐙に不備がないかを手早く確かめてから――ハンチング
「……夕暮れまでこいつで
「わ。しっかりしてるなぁ」
ニコルが笑う。
「もうお前もガキじゃねぇ、
「ははは。そうだね――僕も騎士になっちゃったんだ。はい、ジャゴ爺さん」
「……毎度あり」
「おお、やっぱり
「僕を誰だと思ってるの。ゴーダム公を父と呼ぶことを許された騎士ニコルだよ。ロシュ! じゃあ外に行こうか――わあっ!」
ロシュネールが前脚を大きく振り上げた。体重が背中側に
「ロシュ! はしゃいじゃダメだって! ――じゃあ、ジャゴ爺さん、行ってきます!」
「おう。日が暮れる前には帰ってくんだぞ――
「ありがとう! ――ロシュ、行くよ!」
ムチは
「ロシュ! 速いよ! 危ないからもっと
乗っているのか乗せられているのかわからない一頭と一人を見送り、ジャゴ爺さんはハンチング帽を取ってそれを胸に当てる。
◇ ◇ ◇
城門を出、広い街道に出る、固い
「ロシュ! 速い、速いって! 君、まだこんなに走れたのか――すごいな! 二年前と変わってない……初めて会った時みたいじゃないか!」
もうロシュネールの歳も歳だ、散歩に毛が生えたくらいのものにしかならないだろう|そんなニコルの予想を幸せなくらいに裏切って、ロシュネールは
駆けて、駆けて、駆けて、駆けた。
風を切る、風を従え、風と一つになって走る。
風が吹く、風となる、風よ吹け――。
「いいよ! 付き合うから! ロシュ、本気を出していいからね! ロシュ、僕は君が大好きだよ! 帰ってきて、帰ってきて本当によかった! ロシュ、行けぇ!」
大好きな少年を背に乗せて、走る。
二年間に望み続けた願いの全部を今、かなえさせるように。
◇ ◇ ◇
太陽はもう、西の方角にかなり
「ロシュ、すごかったなぁ……気持ちよかったよ。ありがとう」
振り返るようにしてロシュネールがニコルの顔に
「休んだら、引き返そう。暗くなったらまずいからね。――でも、君と
ロシュネールが鼻でニコルの胸を何度も
「そう、覚えてるんだね。あの頃はよかったなぁ……僕もひとつのことしか考えなくてよかった。騎士になるんだって、それだけを考えていればすんだからね」
ロシュネールがニコルから顔を離す。左の目で金色の少年を見つめた。
「がんばって准騎士になれたけど、准騎士になってからの方が悩むとか考えてなかったなぁ……僕って単純なのかなぁ。自分で思ってるほど賢くないみたいだね、あははは……」
ぶる、ぶるるる、と鼻が鳴る。黒く
「ロシュ、
言葉は通じない――でも、心は通じている。今、この瞬間、誰よりも強く、固く。
「ロシュ。僕が
ロシュネールの大きな舌がニコルの頬を何度も
「――そろそろ、帰ろうか、ロシュ。遅くなったらジャゴ爺さんが心配するからね」
水筒の水を飲み
「わわわ」
「まったく、無理しすぎなんだって。帰りはゆっくり歩くよ。ロシュ、君も自分の歳を考えなくっちゃダメだよ?」
ぶんぶん、と首が横に振られる。
「また遠駆けに付き合ってあげるから。ははは――ジャゴ爺さんが
栗色の毛に
「――まあ、いいや! 明日のことは明日悩めばいいや――ロシュ、帰るよ!」
ロシュネールが頭を下げる。鐙に片足をかけ、脚を振り上げてニコルは再び鞍にまたがった。
「いいね――ゆっくりだよ、ゆっくり。わかってる?」
がくん、とニコルの体が後ろに
「わわ、わわわわ! これじゃ行きと変わらないじゃないか! ――もう、仕方ないなぁロシュは!」
それもまた喜びだというように笑い、ニコルは手綱を握りしめた。少し冷たくなってきた風に髪を、頬を、服を、心を撫でさせる。心ゆくまで力いっぱいに駆けてくれるロシュネールの馬体にしがみつき、その温かさに気持ちの全部を溶かした。
「ロシュ――君は本当にいい奴だよ。僕は、帰ってきてよかった……」
鋭いいななきがその素直な気持ちに応えた。
地平線に沈み始めた太陽が、西に広がる世界を真っ赤に染め上げている。その太陽の下に――太陽の先に自らを投じるように、一つの心と化した一体の人馬は、
◇ ◇ ◇
「よう、お帰り」
ジャゴ爺さんの貸し馬屋に到着した時には、日はとっぷりと暮れていた。住居
「ただいま、ジャゴ爺さん――ロシュ、元気だね。もうすごい勢いで走ってくれたよ」
「乗せてるのがお前だからだよ。まったく、
飛び降りたニコルがロシュネールを厩舎に
「遅くなっちゃった。こんな時間まで出かけるなんて誰にもいってなかったから、家でも心配しているかも。ジャゴ爺さん、僕、そろそろ帰るね。今日はありがとう」
「なにいってんだ。金をもらってるんだから商売だ。――毎度ありがとうございました」
「あははは……」
鞍と鐙を外す。すっかりホコリが取り払われたそれをジャゴ爺さんが柱に
「よくよく考えれば、ジャゴ爺さんがそういうのは、初めてかも知れないなぁ……。僕、ジャゴ爺さんにずいぶんオマケしてもらってたんだね」
「そうだぞ。お前もやっとそれがわかるようになったか」
「これからは、ジャゴ爺さんに儲けさせてあげるよ。――ロシュ、遅くなったから僕は帰るね。明日も
体を
「ロ、ロシュ?」
ロシュネールが脚を
「――今晩、一晩泊まって行けってよ」
ジャゴ爺さんが笑う。
「どこまでわがままな婆さんなんだ、まったく。ニコル、すまんが付き合ってやってくれ。お前の家の方には、ワシが
「ええ、まあ。……じゃ、いっか。二年間放っておいたんだもんね。
ヒィィン、と小さないななきが返ってくる。待ちきれないようにその口がニコルの
「うわわわわわ」
引っ張られた勢いでニコルがロシュネールに抱きつく格好になる。そんなニコルを離すまいと、ロシュネールは頭と尻尾でニコルを抱え込むようにした。
「はははは……ニコル、お前、ロシュネールと結婚したらどうだ?」
「ロシュが人間でおばあちゃんじゃなかったら、とっくの昔に結婚してるよ。母さんや婆ちゃんによろしく」
「ああ。
ジャゴじいさんが紙幣をニコルに差し出した。ロシュネールにまたがる前にニコルが渡した一万エル紙幣だ。
「朝までこいつの面倒見る
「――いいのに」
「馬鹿いえ。ワシは商売人だぞ。そこらへんはちゃんとしておきたいんだよ――じゃあな」
ゆっくりとした歩調でジャゴ爺さんは歩いていった。
「朝まで君と二人きりか」
「懐かしいな。何度も、こうやって一緒にいたっけ。
希望と不安を胸にし、騎士になる願いを胸に秘めて王都を旅立った二年前。なにも考えず、一本の道をただひたすらに駆けていればよかったあの時の気持ちがよみがえってくる。
「心配事はなにも解決してないけれどさ。なんかすごく楽になったよ。ロシュ、ありがとう。なんだかんだで僕の方が君に甘えてるね。ロシュ――好きだよ。これからもよろしくね」
全部の体重、全ての気持ちを預けてニコルは目を閉じた。それだけでもう、数分もせずに眠りに落ちてしまいそうだ。そんなニコルを愛おしむようにロシュネールは優しく顔をこすりつける。
自分は帰ってきたという安らぎに心を委ねて、ニコルは心の幕を引いていた。今夜は、本当にぐっすりと眠れそうだ――。
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