魚売と豪力娘

糸賀 太(いとが ふとし)

太郎

 平安時代

 ある年の水無月

 京の都の帯刀の陣にて


「ぜんぶ買ってくんねえのか?」太郎は下人をにらんだ。むこうは官人に仕える身、こっちは身一つの行商だが、おたがい仲良くやっているつもりだった。痛むのは上の懐だ。こいつのじゃない。景気よくさらってくれてもいいだろうに。昨日まではそうだった。


「懐に入れたなんて言ってくれるなよ」下人は直垂をはだけて浮いた肋を見せつけてくる。寅の刻の日差しが透けるほどに擦り切れた麻布だ。きょうび、痩せもボロも珍しくもなんともない。「じゃあどうしたってんだよ」太郎は売り物を収めた編み籠を揺すって詰め寄った。


 下人はたじろぎこそしなかったが、舎人たちが詰める帯刀の陣を振り返りはした。かと思うと向き直り、口を開くかとおもえば閉じた。太郎は冷や汗を浮かべ、相手の耳に口を寄せた「死人か?」「そう早まるなって。お一人、顔色が優れないってだけだ」「どこが悪いんだ?」


「そこまでは知らん」「だったらはやく言ってくれよ」太郎の文句に、下人は「おまえさんが余計な気を揉むかとかと思ってさ」「なんのこった」「心配性だろ?おまえさんは」下人はニヤリと笑ったが、太郎にとっては冷や汗ものだった。


「とにかくだ、よく焼いてからお出しするんだぞ。薪も炭も惜しまず、これでもかってくらいに焼いてくれ」太郎は手をふりふり訴えるが、下人は「分かってるよ、よく焼くのが『秘伝』なんだろ」と笑って応じた。「あたりまえだ。生焼けだとくたばっちまうぞ」太郎は真顔だ。


「そういやさ」下人は曇ってきた空をうちながめ「おまえさんの干魚はどれもこれも皮はいでっけど、あれも秘伝かい?」「おうともよ。皮食ってると早死するってのが、親父の教えでな」このやり取りは初めてではない。


「塩さえついてりゃ、御主人たちもずっとひいきにしてくれるさ」「ありがたいこった」「どのみちおれのメシじゃない」下人が三日月の笑みを消して帯刀の陣を振り返ったかと思うと、ふたたび太郎に向きなおり、ニヤリと笑った。


「とにかくだ…」太郎は再び秘伝を垂れようとしたが、下人は身振りでさえぎった。「とっと帰んな。長話は腹がへる」太郎は肩をすくめて陣から離れた。帰り道には、ふだん見かけない顔ぶれとすれ違った。同じ行商らしいが、呼びかけがないところからして、みな売れたらしい。


 思ったよりも話し込んでいたのだろう。いつもなら帰り道で見かける、言葉はかわさないが馴染みの、ある日ふいにいなくなる顔が、一人も見当たらない。先に帰ったのか、それとも。下を向いて足をすすめていた太郎は、犬の遠吠えに顔を上げ、はっと息を呑んだ。


 太郎は、ふだん曲がることにしている角を曲がらず、曲がらないことにしている角を曲がったことに気づいた。巷で聞く陰陽道の方違とやらによれば、歩く向きが肝なのだ。それ以上のことは知らないが、いつもは通らない道にきたのは確かだ。なにかすえたような臭いがする。


 脇の下がじっとりと濡れる。太郎の手は短刀を収めた白木の鞘をいじっていた。白木といっても草の汁や泥、手垢にまみれて、いまや暗褐色のまだら模様である。手が短刀に触れているのに気づくと太郎はあわてて手を離した。飢えに苛立つ捕吏の目にとまり、辻強盗を企んだと絡まれてはことだ。


 なんで調子が狂った?のこりを売りさばくか、自分で食うか迷ったせいか。いや、客が具合を悪くしたという知らせのせいだ。自分のせいと決まったわけじゃないが、いったい何があったのか。眉根を寄せてうつむくと背中がむずむずした。


「見ない顔だね」声をかけてきたのは翁だった。路傍に座り込んでいる。着ているものは腰回りを隠すだけのボロのみだ。「見ない顔だね」「だからなんだい」「馴染みの顔になるよ」太郎が首をかしげると、老人は足元に積みあげてある草を指差した。紐さえ購えないのか、束ねてすらいない。


「この芹を買ってくれたら、馴染みの顔になるよ。癖になるよ」どうみてもセリじゃないものが混ざってる。「食っても平気なのか」「平気さ、芹だもの」老人は売り物をむしって、黄色い歯がまばらな赤黒い口に放り込み、噛んで飲みくだした。数呼吸たってもおかしな様子はない。太郎の腹が鳴った。


「セリだけなら」「ほんじゃあ」翁は選り分けもせずに草をひとつかみした。「混ぜものは頼んでねえ」「全部、芹だよ」太郎は舌打ちをして屈み、老人の目を覗きこむ。見えたのは思っていたのとは違うものだった。渋みのある焦げ茶をした、坊さんのように悟った眼だ。


「今日はやめとくよ」太郎は舌打ちをして立ちあがり、老人に背を向けた。「仕方がなかろ」しわがれた声が太郎の耳に流れ込んできた。「仕方がなかろ」再び声がしたが、太郎は振り返ることも、返事をすることもなく、地面を蹴りつけて去った。


 路地に転がる牛馬の汚物と行き倒れをよけつつ、売れ残りを抱えて「ほしうぉぉおーー、ほしうおっ、よんすぅんのっ、ほしうおっ」朱雀大路の東側にある大路小路をいくつもうろつくが、生者たちは遠巻きに眺めるだけだ。もう他の行商が仕事を済ませたのかもしれない。


 喉も足も痛くなってきたころ「すまないが、おまえの商いの品物を改めさせてはもらえないだろうか」いやにかしこまった男の声がした。普段なら下人をして行商とやりとりさせてるような奴らの喋りだ。

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