17
立夏から返って来たメッセージには、近くの交差点の場所が示されていた。アパートを出てすぐの、歩いて五分程で着くところにある点滅信号だ。立夏は今、バイト仲間の傘に入れてもらって、こちらへ向かってきているようだった。
『交差点で別れるからそこまで来てくれたらいい』
俊臣は外に出た。
夜の暗がりに冬の冷たい雨が降っている。立夏の傘を持ち、さっき帰って来た道を引き返すように歩く。ゆっくり歩いても立夏がそこに来るまでには充分間に合いそうだったが、俊臣の足は次第に速くなっていた。
道の先に目印の黄色い光が見えてきた。雨に滲んでゆらゆらと揺れている。
交差点を渡ろうとして、絶えない車の流れに俊臣は立ち止まった。あ、と思ったとき、外灯のぼんやりとした明かりの外側に人影が見えた。
立夏だ。
そしてもうひとり、立夏が差し掛けている傘の中にいる。
バイト仲間か。
「り…」
りつ、と呼ぼうとした俊臣の体が硬直した。
「──」
あれは。
女だ。
顔の半分は傘に隠れている。
でも、その口元には見覚えがあった。
ざあ、と血の気が引いた。
どうして。
どうして──見つけられなかったのに。
「立夏!」
女が離れていく。
立夏の手から傘を奪って。
俊臣は大声で立夏の名を呼び、駆け出していた。
***
「ちょっ、と、待っ…!」
ガシャン、と激しく玄関のドアが閉まる。引きずるように連れ帰ったおれを壁に押し付けて、俊臣は言った。
「あの女、誰?」
「おんな…っ、て? え?」
結局は傘なんてないも同然だった。ふたりして全身を雨に濡らしている。
俊臣は湿った前髪の間から暗い目をしておれを見下ろしていた。
なんで、そんな目でおれを見るんだ。
「俊臣」
肩を押さえつける手が冷たい。
なんで。
「名前、なんていうの」
俊臣の髪から滴った雫がおれの頬に落ちた。
「…なま──なんで」
「いいから」
低い声が鋭くおれの言葉を遮る。
「立夏」
温まった雫が頬を伝った。
「はし、橋本さんだけど」
俊臣はかすかに眉を顰めた。
「橋本なに?」
「は? そんなん知らな…」
「嘘」
「な…」
「知ってるだろ、言えよ」
眩暈がしそうだ。
なんでこんなこと聞かれなきゃいけないんだ。
「さき、だよ…っ、橋本咲っ」
さき、と俊臣が確かめるように繰り返した。
「ハシモトサキ?」
「そうだって! いいから、もう離せよっ」
身を捩るけれど、俊臣の力は強かった。抗っても、おれは壁からわずかに背中を浮かすことしか出来ない。
なんなんだ。
肩から二の腕に滑り落ちた俊臣の指が、強くおれの皮膚に食い込んだ。
「いつから…、いつから一緒に──」
「い…っ」
「立夏」
痛みに顔を顰めるおれを俊臣は食い入るように見てくる。
答えて、と言われて、じわりと涙が滲んだ。
「こないだ、こないだだよ! 前にいた子が辞めたから店が募集して、それであの人が来たの! おれだってびっくりして…っ、つーか、なんでそんなこと聞かれなきゃなんねえんだよ!」
一瞬俊臣は息を詰めた。
「あの女のこと、立夏は知ってるの」
「し──知ってるって…だって」
だって、彼女は三沢遠亜の友人だから。
「彼女が、店に連れてきて」
「彼女?」
「三沢遠亜だよ、おれが──」
付き合っていた、と言いかけた耳の奥で橋本咲の声がした。
『遠亜ちゃん、最近他の人好きになったって、──その人』
年下の、誰かの弟。
名前は──
「バイト辞めて」
「は?」
おれは目を丸くした。
「今すぐバイト辞めろ」
「何言ってんだよ…、なんでおまえにそんなこと言われなきゃ」
「いいから辞めろよ!」
大きな声にびく、とおれの肩が跳ねた。俊臣は普段滅多に声を荒げることはない。
切羽詰まったような表情に、なにかあるのだと分かっていても、おれの頭の中はぐちゃぐちゃに混乱していた。
睨むようにおれは俊臣を見上げた。
「りつ」
なんだよ。
なんなんだよ。
「…俊臣」
声が震えそうになる。
「ていうか、聞いたんだけどさ、…なに? おまえ、あの子と付き合ってんの?」
俊臣の目尻が、ぴく、と動いた。
「なに、それ」
「橋本さんは友達なんだよ、遠亜ちゃんの。だから、さっき、そう言ってて」
俊臣は黙り込む。
否定しないのは頷いたも同じだ。
「やっぱそうなんだ…? トシくんって、おまえ?」
腹の底から嫌なものがふつふつと湧き上がる。それは俊臣に対する嫉妬ではなく、三沢遠亜に対する妬みと、俊臣への理不尽な怒りだ。
おれが好きなのに。
おれのほうがずっと好きでいるのに。
でもどうやったって、どんなに想っていたって、俊臣は絶対におれのものにはならない。
高校の彼女と終わったと聞いてほっとした。おれのものにならなくても、誰のものでもなくなったことが嬉しかった。
やっと──望みなんてないけれど、知らない女と笑い合い楽しそうにする姿を、おれ以外の人に向ける微笑みを、想像しなくても済むと思ったのに。
「なんで…? おまえなにやってんの…?」
「立夏」
「信じらんねえ、なんで…、誰でもいいのかよ? ちょっと声掛けられたら、ほいほいくっつくんだ?」
どっちから声を掛けたのかとふと思いついて、きっと彼女からなのだろうと納得した。
あのクリスマスの夜、俊臣と鉢合わせた。ここで。そして帰ると言った彼女を送って行った俊臣。アパートに戻って来たのは一時間後だった。
一時間。
今にして思えば掛かり過ぎた時間。
何をしていたかなんて想像もしたくない。
あれがきっかけだったのだ。
ほんのちょっと会っただけじゃん。
すれ違ったぐらいの接触で、どうしておれから持っていくんだ。
おれの目の前から。
俊臣じゃなくてもよかったくせに。
「ふざけんなよ…!」
違う、と俊臣が言った。
「そうじゃない」
カッ、と頭に血が上った。
「何が違うんだよ! もう離せよ、何がしたいのおまえ?! 急に転校してこっち来て、一緒に住むって言うし、バイト辞めろとか…っ、訳わかんねえよ、なんなんだよ!」
早口に捲し立てるおれを俊臣はじっと見つめている。考えの読めないその表情に苛立つ。自分でも何言ってるのかわからない。どうしていいのか──押し止められない怒りが後から後から吹き出して来て、言いようのない悲しみと混じり合い、おれは無茶苦茶に腕を振り回して俊臣の胸を叩きまくった。
「もうやだっ、もう嫌だ! おまえとなんか暮らせない! 一緒に住めねえよ! なんで、やっと──やっ…、──おれがどんな気持ちかなんて、わかんねえくせに!」
「立夏──違う」
「違わねえよ、おまえなんか…っ」
「違うんだ、聞いて」
聞いて、と繰り返して俊臣は暴れるおれの肩を掴んだ。揺さぶられ、顔を覗き込まれて苛立ちが募る。
「聞きたくな──」
振り上げた手を捉えられ、強引に引き寄せられた。
「立夏、頼むから、落ち着いて」
力いっぱいに俊臣がおれを抱き締めた。
無理矢理に遠慮のない力で胸の中に押し込めるくせに、俊臣はなぜか縋るようにおれの首筋に顔を埋めた。のしかかる体、高い鼻先が確かめるみたいに肌を撫でる。
ほんの少し浮いた踵。
ひく、と喉が引き攣った。
なん、…なに、これ。
なにこれ。
なに?
なに?
なんで──
息が、出来ない。
鼓動が早くなる。
このままじゃ…
バレてしまう。おれが俊臣を好きなことを。
さあ、と血の気が引いた。
「や…っ、いやだ、離せバカ!」
どうしていいか分からなくなって、おれは俊臣の腕の中で身を捩った。けれど俊臣は抗うその倍の力でおれの体を抑え込んできて、わずかにも動けなくなった。圧迫された胸が苦しい。重なった体から心臓の音が伝わるのが怖い。おれは自由に動く腕で、俊臣の背中をめちゃくちゃに叩き、着ているコートを引き千切るみたいに引っ張った。
「はな…っ離せよっ、この馬鹿力!」
これ以上このままでいたら、もう我慢出来なくなる。
欲しくなる。
キスしたくなる。
それ以上を求めてしまう。
離れたい。
離れたいのに。
なんで、なんで、──なんで。
離してくれないの。
じわりと涙が込み上げてきた。
もう嫌だ。
もう無理だ。
やだ、と零れ出た言葉はかすかに震えていた。
「もう…、おまえなんか嫌いだ…!」
正反対のことを言わないと、好きだと言ってしまいそうだ。
りつ、と俊臣が言った。
「…あの人は、俺から誘った」
その声が浸透していく。
そう、…そうなんだ?
俊臣から?
そうか。
瞬くと、ぽたぽた、と涙が落ちた。
なんで、と言ったおれの声はひどく掠れている。
「りつを守るためだよ」
「え…?」
「俺がりつを守りたいから、だから」
俊臣がゆっくりと顔を上げた。おれの顔を覗き込み、見上げたおれと目が合った。じっと、絡み合う視線に視界がゆらゆらと揺れる。
俊臣の大きな手がおれの頬を包んだ。
「りつが俺を嫌いでも、俺はりつが好きだよ」
「…え?」
今なんて?
目を丸くしたおれを、俊臣は見つめた。
「だから離れないで、一緒にいて」
「──」
息を詰めた瞬間、俊臣の唇がおれの口を塞いだ。
「…んっ、ん──」
熱い舌がおれの口蓋をこそぐように舐める。
これはキスだ。
驚いて暴れるおれの体を俊臣は壁に押し付けた。苦しくて逃れようとすると顎を掴まれて引き戻される。何度も何度もそれを繰り返し、背筋を何かが走り抜けた。飲み込みきれず零れた唾液を追って俊臣がおれの首筋に舌を這わす。ぞくりと震えておののくと、また深く口づけられた。
「……ん、あ」
力が抜けていく。
自分でも信じられないほどの甘い声が暗がりの中に響いた。
なんで、こんな、こんな──
「…っ、立夏」
合わさった唇を解いて俊臣が言った。
「俺から離れないで」
「と、…」
「誰が好きでもいいから、俺から離れないで。ちゃんと話すから」
ぎゅう、と縋るように抱きしめてくる。
「なんで…そんな…っ」
「全部話すから」
「っそ…、じゃな…」
誰が好きでもいいなんて、
おれの気持ちは聞かないの?
おまえからキスしてきたくせに。
おれは、おまえのことばっかりなのに。
どれだけ、どれだけおれが我慢したと?
こんなことならもっと早くに、もっと──早くに。
「あ…」
もう、限界だ。
喘ぐようにおれは息をした。
「おれ──」
耳元で仕返しのように好きだと言ったとたん、骨が折れそうなほどの力で、抱き上げられていた。
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