護る者、滅ぶ者 十二

 速く短い呼吸を繰り返し、上空から陸王りくおうを見下ろす雪李せつりの深紅の瞳は笑っていた。



「君の刃は……ここまで、届くか?」



 いつの間にか茜色に染まった上空からの嘲るように呟く言葉は、しかし、しっかりと陸王に届いていた。



「俺と吉宗こいつに斬れねぇもんはねぇ」



 陸王も呟きで返す。そして、上空向けて正眼に構えた。



「ならばやってみせろ、陸王!!」



 その言葉と同時に、陸王は宙空に向かって袈裟懸けに斬り掛かった。そのまま刀の勢いを止める事なく宙を刺突しとつする。

 最初に袈裟懸けに鎌鼬が発生した。



 それを雪李は槍の柄で弾き飛ばす。その次に襲い来る刺突の波動は槍で斬り返した。その途端、空気がたわんだ。完全に波動を斬り裂いた手応えだった。


 と、突然、腹から背にかけて勢いよく雪李の腹に穴が開いた。その勢いで、身体の中に残っていた臓物が宙に向かって飛び散る。


 雪李の真っ黒い翼が緩く波を打ったかと思えば、そのまま地に落ちた。

 重い音と共に大地に激突して、雪李は血を吐きながら藻掻く。



「確かに、斬った……筈……」



 藻掻き、苦しい呻きの中から言葉を吐き出す。



「だから言ったろう。斬れねぇもんはねぇと」



 斬撃で鎌鼬を発生させたあと、陸王は確かに宙に向けて刺突した。だが、一度ではなく、素早く二度刺突したのだ。けれどその動きは素早すぎて、雪李の目に入っていなかった。


 雪李は身悶えながらも槍を杖代わりにして身体を起こした。

 背骨が砕けて背から突き出しているというのに、それでも身体を起こし、立ち上がる。


 それは信じられない光景だった。やはり魔族は他の生物と根本的に違うのだ。恐ろしい生命力を持っている。


 その雪李が突然走り込んで、槍を薙いだ。その動きに陸王も咄嗟に避けようとしたが、腹の傷の痛みに蹈鞴たたらを踏んだ。

 途端、槍の先端が陸王の腹から半端に零れ落ちている臓物を引っかけ、ずると引き出す。

 腹の中から内臓を引っ張り出される激痛に、陸王は目の前が霞みそうになるが、こらえた。堪えて小さく呟く。



「やはり心臓を破壊しねぇと……死なねぇか」



 陸王は槍を振りきった雪李をめ付けた。

 ここまできたら、あと一撃でけりがつく。


 互いに突っ込んで共倒れになるか、どちらかがどちらかの息の根を止めるか。その二つに一つしかない。


 陸王も、雪李も、限界だ。


 二人は新たに、構えをとった。

 最後の一撃になるだろう構えを。


 魔族にとってはこの上もなく甘い血の匂いの中で。

 今この時こそが血の饗宴だ。


 それなのに、その時ふと雷韋らいの細い声が遠くから雪李を呼んだ。



うるさい……」



 知らず雪李は言葉を吐き出していた。それは最高の瞬間ときを邪魔する音でしかないからだ。


 だが、無意識に出た言葉が終焉の合図でもあった。


 気付かぬまま、今度こそ心臓に鋭い衝撃を受けていた。眼前には、陸王の射るようなあかい眼がある。その眼差しからは抜け落ちた感情があった。

 雪李の喉から短い呼気が漏れる。


 高位魔族と上位魔族。


 やはりたかが上位である雪李は、高位の陸王より格下だったのだ。


 生まれたばかりの赤子に慈悲がないように、魔族として生まれ落ちたばかりの雪李にも慈悲はなかった。それでも人としての感情がどこかに残っていたのだ。


 雷韋をわずらわしいと思う外意識が。


 それとは逆に、純なる魔族の陸王にそんなものはなかった。

 彼にあったのは戦いに於いての無慈悲さだけ。人の感情など欠片もなかった。最早、雷韋に向けられる感情すらなかったのだ。それが勝敗を分けた。


 それも、最後の最後で。


 陸王は無言のまま、殊更ゆっくり刃を引き抜いていった。胸の傷口を広げるように。

 それに合わせて、雪李の左胸からありったけの血が吹き出した。


 雪李は陸王を見て、何度か瞬きをした。速く短い呼気を繰り返し、もう一度瞬きをした時、糸の切れた操り人形のようにくしゃりとその場にくずおれる。


 雪李の紅い瞳からは、狂気の色が風が雨雲を散らすように散っていった。


 狂気の色が失われていく雪李の瞳を見遣って、陸王は全身から力が抜けたように脇に刀を突き立て胡座あぐらをかいて座り込んだ。まだ一本腿に突き立っている槍を無造作に引き抜くと、乱暴に投げ捨てた。そして臓物の溢れた腹の傷に手を当てる。根源魔法マナティアの回復の術を使う為だ。雪李を見遣る瞳も、常の黒に戻っている。


 雷韋はそっと、そっと近寄ってきた。



「雪李……?」



 声をかけながら雪李を抱き起こす。



「あぁ、雷韋。僕は、何をしていたんだろうか」



 そこまで言って、体内に僅かに残っていた血を吐き出した。



「しっかりしろ。今、大地の力でこんな怪我なんか治してやるから。大地の回復魔法はどんな術より効くんだ」



 それを雪李は手を挙げて制する。



「もう、無理だよ……。このまま、死なせて」

「嫌だ!」



 そう言う雷韋を見詰める紅い瞳は、優しい色を湛えていた。それはようの時の雪李の眼差しだった。



「思い出したよ。僕が世の理を、知りたかったわけ。僕の居場所を、見つけたかったんだ。それで世界の理を、曝こうとして……地上に堕とされた。百年以上も前の、事だよ。それからは魔族の、世界がどこにあるのか、探る事にした。天界から、堕とされた天使の、居場所だから。なのに長い間、いんように分かれて過ごした。このまま生き延びたら、また分かれるかも知れない。それは、嫌だなぁ」



 苦しい息の元から言って、自嘲するようにうっすらと笑みを浮かべた。


「それに、さっきみたいに……理性を失うのも、嫌だなぁ。そんな風に、なりたいわけじゃない」

「だったらどうして……世の理を曝こうなんてしたんだよ? あんたの居場所は天界だったんじゃんかよ。天慧てんけい羅睺らごうそばだったんじゃんか。そんな事しなけりゃこんな事には……」

「飽いたから。それだけ。違う生き方をして、みたかった」



 最後に君に出会えてよかった。そう言って、にっこりと微笑んだ。それはこの上もないほどの至福の笑みだった。なのに、それが雷韋には無性に悲しかった。



「俺なんかに会ったって……、俺があんたを巻き込んだんだ」

「それは違う。これは運命。そして、もう一つの運命にも、立ち会えた」



 雷韋はその言葉に、え? と問う。



「君と陸王だ。対、なんだよ。端から見てて、面白いほど、惹かれ合ってた」

「俺と陸王が?」



 黙ったまま二人の遣り取りを聞いていた陸王は、何色も顔に表さなかった。



「そう。だから、離しちゃ……駄目、だよ」



 そうして、これまでにないほどに大きく息をついた。息をついて、それっきりだった。雷韋を笑んだように見上げる瞳には、もう生きている光は失くなっていた。ただの硝子玉の瞳だ。呼吸も止まっている。身体からも温度が失われていくだけだ。



「やっとくたばったか。しかも、くだらねぇ事べらべら喋って逝ったかよ」



 陸王のその言いように、雷韋は強く声を上げた。



「なんて事言うんだ。雪李はただ自由に生きたかっただけなんだ。くだらない事なんて言ってない!」

「生きる事に飽いただとか、俺とお前が対だとか、そんなくだらねぇ事しか言ってなかっただろうが。その挙げ句、死にやがった。つまらん人生だな、おい」



 最後の言葉は雷韋の苛立ちをわざと煽るような語調で言い遣った。

 雷韋の魂に惹かれている事を自覚しているのに、雷韋を傷付けるような事を言って、自分の気持ちをまぎらわせたのだ。



「陸王、あんた」



 雷韋の声が憤りで震えたその時、ひづめの音が遠くから聞こえてきた。その後ろからは大勢の兵士の足音が続く。それに続いて、遠くから晩課ばんか(午後六時の鐘)の重々しい音まで響いてきた。

 見れば、薄暗くなり始めた中を、松明を掲げ持った兵士達がやってくるところだった。


 それは翠雅すいがが用意した第二軍だった。彼らは辺りの惨状に目を見開いている。

 市門を中心に辺り一帯が真っ黒に焦げ付いていれば、グローヴの弓兵は槍に貫かれて死んでいるし、その傍には槍で串刺しになった什智が倒れている。


 生きているのか死んでいるのかも分からぬままで。


 先頭に立った将兵が、陸王と雷韋の姿を見つけて声をかけてくる。



「これは一体何事だ。エウローン卿はどこに」



 雷韋は将兵に、生きてると思う、とだけ答え、雪李の冷たくなるばかりの身体を強く抱きしめた。


 雷韋の目に、どうしてか涙は浮かばなかったけれど。

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