導かれて 三

 その瞬間、二人の意識の中に強引に何かが流れ込んできた。その事に、互いが互いの目を見た。だが目がかち合った瞬間、流れ込んできたものがなんだったのか理解も出来ぬにその感覚は消え去ってしまった。


 雷韋らいは目をしばたたいていたが、陸王りくおうはすぐに我に返ったように雷韋の手中にあるものに目を移した。

 まるで何事もなかったかのように。



「おい、この財布はなんだ」



 雷韋の左手には、さっき商人からった財布が握られている。



「こ、これは……」

「見てたぞ」

「え?」

「商人から掏っただろう」



 言って雷韋の手から財布を奪うと、



「こいつで俺から掏った分の金は勘弁してやる。あとはどこにでも行け」



 手に取った雷韋の腕を乱暴に突き放し、陸王はそのまま踵を返してしまった。



「あ、おい、陸王。どこ行くんだよ」

「どこでもいいだろうが。お前には関係ない」



 その一言を背中越しに寄越して、振り返りもしなかった。

 雷韋は思わず陸王の背にすがった。外套がいとうをきゅっと握り引っ張ると、陸王の歩みが止まる。



「よせよ、陸王。一緒に逃げようぜ。闇の妖精族ダーク・エルフなんてどうやって相手にする気だよ。あいつらは魔術にけてる。俺だって使役してた守護精霊を奪われちまったくらいなんだ。所詮、俺達は妖精族に勝ち目はないんだよ」



 雷韋は必死に言い募った。どうしてか、再会したばかりの陸王の事が気になってしょうがない。これが他の者なら好きにさせておくところだが、それが出来なかったのだ。雷韋は本能的に陸王を引き止めていた。


 それでも陸王は雷韋が掴んでいる外套を力任せに引ったくると、再び無言で歩いて行ってしまうのだった。


 雷韋はそれ以上陸王を追う事が出来ずに、その場にぽつんと取り残された。

 裏通りである事をのぞいても、辺りはもう薄暗くなってきている。そんな中で陸王の背中を、その姿が消えるまで見詰めていた。


 迷(まよ)い子のような心細げな瞳で。


 知らず知らず溜息まで漏れる。


 陸王に置いていかれた雷韋の中には奇妙な喪失感があった。ただの行きずりの人間なのに、不思議だ。どうにも気にかかるのだ。

 それにさっき己の中に流れ込んできた何か。それも気にかかる。でもそれを考えたところで、やはり思考は上手く働かないのだが。


 もう一度溜息をついてから雷韋は辺りを見回して、水浴びをした川の橋の下に戻っていった。下手に彷徨うろつくよりはいい。それに金も奪われてしまってないのだ。

 いや、雷韋一人ならこの街を出て行く方法はある。


 『壁抜け』という魔術があるのだ。


 その名の通り、壁を擦り抜けるという魔術だ。煉瓦れんがや石造りの壁なら『地』の精霊魔法エレメントアで、木造ならば『植物』の精霊魔法を使う。城壁は石造りだ。『地』の精霊魔法で擦り抜けられる。一昨日、城門の閉まったグローヴの街を抜け出す際に使った方法がこれだ。

 一見、単純そうに思えるが、非常に危険な魔術だった。


 特に石壁を抜けるには。


 雷韋の精霊魔法のほとんどが言霊封じだが、大地の精霊力は今の雷韋には大きすぎるのだ。


 大地は原初神・光竜こうりゅうそのものと言っていい。

 神の世から人の世に移り変わるとき、光竜は大地と一つになって眠りに就いた。


 雷韋はこれまで精霊使いとして一人でやって来たが、それでも大地の精霊魔法を言霊封ことだまふうじに昇華させたものはない。大地の精霊魔法を発現する為には力が大きすぎて、どうしても詠唱と印契が必要になった。


 そもそも石壁の『壁抜け』は、魔術としての成功率から言えばそれほど高くない。これまで石壁の『壁抜け』を試みて死んだ者は多いのだ。これは物質に宿る精霊を誤魔化して行使する術だからだ。


 つまり自分を植物や地の精霊で覆って、壁になっている物質に宿る精霊の目や意識をくらませると言う事。だから石壁を通り抜けるまで精霊の目を誤魔化し切れなければ、身体しんたいという有機物質が即座に石や煉瓦という無機物質に変化して、死ぬ。


 壁抜けは、一瞬の気の緩みも許されない術なのだ。


 雷韋は一昨日、その危険をおかしてグローヴの街から抜け出してきた。


 それもひとえに追われていたが為だ。逃げるのに必死になって、一か八かで壁抜けを成功させた。捕まれば命の保証はない。十中八九処刑される。

 それならばと賭けたのだ。

 壁抜けもかなり危険だが、成功すれば確実に逃げられる。


 それを天秤にかけて、逃げない法はないと思った。


 だが今夜はそこまでの危険を冒して壁抜けをするつもりはない。雷韋自身もこれまでの風聞で、壁抜けの成功率は高くないと熟知しているからだ。

 第一、地の精霊魔法を使うには気力がいる。今夜はそれほど気力がないのだ。空腹だし、疲れてもいる。地下牢にいた時は汚物の臭いで食欲など全く湧かなかったが、あそこを逃れた今では疲れも空腹も普通に感じていた。


 それを考慮して、もう一度誰かの財布を掏ろうかとも考えたが、やめた。金を手に入れて街中の店に入れば、誰の目につくとも知れないからだ。雷韋を捜して賞金を狙っている輩がいる。それを思うと、更に気力が減退した。だから今夜は、橋の下で大人しくしていようと思ったのだ。


 けれど雷韋は、自分にかかっている賞金がたったの銀貨十枚だという事を知らない。銀貨十枚と言えば、銅貨で三〇〇枚だ。その額は、一般人が一ヶ月を暮らす程度の金額でしかなかった。血眼になって雷韋の姿を捜すのは、その辺りの一般人程度でしかない事を知らないのだ。


 例えば、雷韋を捕まえた露店の主のような。


 それでもある意味、とても危険ではある。一般人の方が低い額で動くものだからだ。その上、雷韋の容姿は目立つ。異種族と言うだけでも珍しいのに、飴色の髪に深い琥珀の瞳。その特徴さえ知っていれば、誰の目にも賞金首だと分かってしまう。


 そしてそれとは反対に、陸王は侍ゆえに賞金が高かった。侍の身につけている剣技はこの世で最高だと言われている。

 そもそも剣技以前に、得物も、戦に於いての心構えさえも違う。


 傭兵は自身が危険になれば簡単に逃げ出すが、侍は戦場いくさばからほとんど逃げる事をせず、大概は生命いのちを落とすぎりぎりまで戦うのだ。そのまま生命を落とす者も多い。だが一度君主に忠誠を誓えば、生命さえ投げ出す。それが侍だ。その精神性ゆえに雇われ侍は傭兵と比べて報酬も高く、引く手頭だった。侍で編隊を作れるほど頭数を揃える事が出来れば、無敵だろうと言われているほどだ。


 だからこそ、陸王にかけられた賞金も必然的に高くなるのだ。一攫千金を狙う賞金稼ぎが狙うのは、むしろ陸王の方だ。雷韋ではない。いくら目立つ刀を背に隠しているとは言え、高額な賞金を狙う者達の目に止まれば危険な事この上ない。しかもグローヴ領に向かうともなれば、危険度は更に増すだろう。


 どちらにせよ、彼らは危険の只中にある。


 人目を避けた雷韋が安全か、侍である事を隠した陸王の方が安全か、それは分からないが。


 雷韋は川辺で寝っ転がり、橋の下から昇ってきたばかりの欠けた月を眺めていた。空腹をこらえながら、明日の事に思いを馳せる。

 まず、朝一番でローラン領へ向かおうと思った。出来る事なら乗合馬車を乗り継いで、その先の領地まで行けないだろうかとも考えていた。今は兎も角、グローヴ領から遠ざかりたかった。ここエウローン領も危険である事が分かっている。


 結句けっく、この国から出たい。それが雷韋にとっての目的であり、望みだ。流石に国外まで追っては来るまい。


 それにしても、陸王はどうするのだろうか。本当にグローヴ領へ向かうのだろうか。果たして、什智じゅうちに冤罪をどのようにして訴えるというのだろう。どう取り繕っても賞金をかけ、闇の妖精族まで手中にしている什智が人の話を黙って聞くとは思えなかった。


 それに什智は雷韋の持っている火の珠玉を狙っている。この国を出ない限り、どこまでも追ってくるだろう。だからと言って、返すわけにはいかない。これは気軽く扱っていい代物ではないのだから。


 それに闇の妖精族。何故、雷韋に火の珠玉を渡して逃がしたのか。


 悶々と考え込むうちに、段々わけが分からなくなってきた。雷韋は小さく吐息をついて頭の後ろで手を組むと、それを枕にして目を閉じた。

 兎に角、自分は什智と闇の妖精族から逃げ出すだけだ。それでいい。それしか考えなくていい。性悪共しょうわるどもの考える事など雷韋には分からないし、理解する事さえ出来ないのだから。


 川の水がさらさらと流れていく音に耳を傾け、空腹を忘れるように眠りに就こうと意識を手放そうとした、その時だ。


 水の流れる音の中に草を踏む音が混じった。

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