第25話 林檎のパイで占いを(前編)
砦の城の調理場は、城館としては珍しいことに、広間にほど近い日当たりの良い場所にあった。
来客の多いシーズンには三十名ほどの料理人がここに詰めっきりになる。
サウィン ――秋の収穫祭を控え、今は嵐の前の静けさといったところか。
ダナンの王子を城主に迎えてからこっち、この
調理や仕込みの邪魔にならぬ時間を選び、長くは居座らない。王子が引き上げた後は、それと分からぬほど元通り、いや使用前以上に整頓されていた。
猫を連れ込むのを見て、露骨にイヤな顔をする者もいたが、どれほど探しても猫の毛一筋、足跡のひとつも見当たらない。床には粉のひとつまみすら落ちてはいなかった。
料理人たちは気を引き締めた。今やここは、城で最も掃除の行き届いた場所と言われている。
昼の
王子さまがひとり、焼き菓子を作っている。本日のお菓子は、焼き林檎のパイだ。
調理台の上でパイ生地を伸ばしながら、アリルは自分の身にささやかな異変を感じていた。
(体が軽い)
気のせいではない。ぎしぎしと悲鳴を上げていた骨や筋肉、
情けない話だが、以前パンを作ろうとして肉離れを起こしたこともあるのだ。
それが、さんざんダンスに付き合わされた翌日だというのに、かつてないほど快調なのである。
「癒しの力、か」
ふと口からこぼれ落ちた言葉に、木の椅子の上で丸くなっていたシャトンの耳がぴくりと動いた。
つないだ手を通してエネルギーをもらったのか。
これがエレインの力なら、誰もが彼女を欲しがるだろう。
この力は目に見える傷だけでなく、体の内部にまで及ぶのだろうか。
もし、心の傷まで癒すことができるとしたら。
(あの子を奪い合う争いや企みも、あったのではないかな)
歴史書にはそのような事実は記載されていない。だが、実際にはどうだったのか。フランあたりに聞けばすぐ分かるのだろうが。
――彼女を心から愛する者が、不死の呪いをその身に引き受けてくれるだろう。
不老を伴わない不死など、誰が望むものか。むしろ彼女は
頭に渦巻くもやもやとした思いとは別に、その手はてきぱきと働く。
丸く伸ばしたパイ生地が二枚。片方を丸い皿に敷き、フォークで数回つついて穴を開けておく。もう一枚は
中に閉じ込められた赤い林檎たちがしわしわの
「もういいかな」
取り出して、ごろごろと調理台の上に転がす。
これは冷めてからざく切りにしよう。
塊が大きすぎると切り分けるときにパイの形が崩れてしまうかもしれない。小さすぎると林檎そのものの味わいがなくってしまう。加減が難しい。
フィリング用のクリームを作る。メインは林檎だから、少なめでいい。
木のボウルに柔らかなバターを入れ、溶き卵を加えてなじませる。砂糖はほんの気持ちだけ。香ばしさと風味を出すため、今回は小麦粉に
これをパイ皿に入れて、表面を
それから――。
黙々と動いていた手が、ふと止まった。
「シャトン」
と、背後を振り返る。
「少しの間、これを見ていてくれませんか」
シャトンは起き上がると背を伸ばし、くわあと大きなあくびをした。
「見ていればいいのかい?」
「小虫などが中に入らないように、追い払ってくれるとありがたいです」
「はいはい」
椅子ごとシャトンを調理台のすぐ前まで運ぶと、アリルは身につけていたエプロンをきちんとたたみ、その椅子の背もたれにかけた。
「すぐに戻りますから」
そう言い置いてそそくさと出てゆく。ぱたん、と扉が閉まる。
厨房には猫だけが残された。
シャトンは調理台の方を向いてきちんと座った。目の前に作りかけのパイがある。
(これはアタシにも食べられる菓子かねえ)
前足を調理台にかけ、そうっと鼻面を近づけようとしたところに、
「……シャトン」
声をかけられた。びくっと足をひっこめて、声の方に小さな頭を巡らせる。さっき閉じられたばかりの扉がうっすらと開いており、金色の娘と目が合った。
「今、兄さまはいらっしゃらないわよね」
きょろきょろと厨房内を窺うと、オルフェンはするりと中に入ってきた。静かに扉を閉め、誰もいないというのに足音を忍ばせてこちらに近寄ってくる。
(この娘は虫じゃないから、近づけてもいい)
そう判断したシャトンは「にゃあ」と愛想良く一声鳴いて、しっぽの先をぱたぱたと動かした。
「いい匂い」
オルフェンが鼻をひくひくさせる。
いい匂いの正体はすぐに分かった。パイ皿に入りきらなかった焼き林檎が一つ、調理台の上に取り残されている。
「今日のお菓子は林檎のパイね」
作りかけのパイをちらっと見やり、オルフェンはシャトンの目の前でドレスの袖口から布の塊を取り出した。丸めた白い布。レースのハンカチだ。
「あのね、いいことを思いついたの」
ハンカチを調理台の上に広げる。
しゃりん、と金属の触れ合う音がして、きらきらした丸いものが台の上に転がり出た。
ぐい、とシャトンが本能的に身を乗り出す。前足が出る前に、オルフェンが止めた。
「ああ、触らないでね。あなたのおもちゃじゃないのよ」
大事そうにつまみ上げて、ハンカチの上に戻す。
(お金のようだね)
首をかしげる猫を相手に、オルフェンは丁寧に説明した。
「これはね、占い用の小物なの」
サウィンの日には特別なパンを焼く。フルーツをたっぷり入れ、スパイスを効かせた大きなパンである。
パンの中にはさまざまなものを隠しておき、何人かで切り分ける。それぞれの取り分から出てきたものによって、今後の運勢を占う。
「ずっと昔からある伝統よ」
(今日はまだサウィンじゃないはずだけど)
ふんふんと神妙な顔で小物の匂いを嗅ぐ猫を見て、オルフェンは微笑んだ。
「一足早くお祭り気分が味わおうかな、と思って」
指先でコインを示す。
「このコインが出てきたら、お金持ちになれる。収入が増えますよ、という知らせ」
占いというのは、猫にはあまり関係がなさそうだ。
「それでね、こっちはお守りのメダル」
シャトンにはコインとメダルの違いが分からない。きょとんとオルフェンを見上げる。もの問いたげな顔をした猫にオルフェンが解説した。
「ほら、表面に渦巻き模様が描いてあるでしょう。これは
(ふうん)
これは当たらない方がいいのだろうか。
それとも大変なことが起こるのはもう決まっていて、このメダルが守ってくれるというのだろうか。
お金が当たった人間は喜ぶだろう。しかし、このメダルが当たるのは人間にとって嬉しいことなのだろうか。シャトンには分からない。
次にオルフェンが指し示したものは、
「王冠。これ、兄さまに当たらないかしら」
眉間にしわを寄せるアリルの顔が容易に想像できる。しかしこれは庶民には縁が無さそうだが。
「近いうちに出世しますよ、っていうメッセージがあるのよ」
それなら、割の良い仕事にありつくとか、他人から技の腕前を認められるとか。解釈次第で何かは当てはまることがありそうだ。
「それから、これが女の子にとって一番重要なもの」
ひょいとオルフェンがつまみ上げたのは、彼女の小指の先しか入らないほど小さな銀色のリングだった。
「大切な人に巡り合えますよ、っていう意味。つまり、もうすぐ恋人ができますよってこと」
(それは確かに、年頃の女の子が好きそうだ)
自分のことは棚に上げて、シャトンは納得した。
菓子にこんな楽しみ方があったとは。
アリルは森の庵でもよく菓子を作るが、こんな遊びをしたことはなかった。
コイン、メダル、王冠、指輪。
「他にも布の切れ端とかボタンとか、いろいろあるのだけれど。あまり良い意味がないものは入れないでおくわね」
(て、ことは。メダルは良いものなのかね)
シャトンが考え込んでいるうちに、オルフェンはいそいそとパイを
「これが上にかぶせる皮ね。隅に寄せてあるのは余った分かしら」
丸く伸ばした白い生地の中央に、小さな切り込み。そこから放射状に六枚の木の葉が描かれている。串でつついた点で描かれた模様は、六等分に切り分けるための目印だろう。丁寧な仕事だった。
「兄さまってば、本当に几帳面」
ほうっと息を吐くと、オルフェンは丸いパイ皮を手に取った。そこそこ厚みがある。うっかり破ってしまう心配は無さそうだ。
形が
「コインがここ、メダル、指輪……」
その手元をシャトンがじっと見つめる。
(これは虫じゃないけれど、どうなんだろうか)
「清潔にしてあるから大丈夫よ」
猫の心配そうな眼差しに気づいたオルフェンが、真剣な顔で
(なら、いいか)
「王冠を入れて、これでおしまい」
シャトンに見守られながら占い小物を隠し終えると、オルフェンはしっかりと縁を閉じた。
「あとは焼くだけね」
二人して仕上がりを眺める。特に不審なところはない。まっとうな生のパイだ。
「兄さまはまだかしら」
扉の方をちらっと見やる。つられてシャトンも同じ方を向いた。
人の気配はない。
オルフェンは調理台の隅に置いてあった余りの生地に手を伸ばした。
少しちぎって薄く細く伸ばし、くるっと丸め、指でひっぱって形を整える。
「お花のできあがり!」
小さな花飾りを得意げにシャトンに見せ、満足そうに笑うとパイの端にちょこんとのせた。
「指輪が確実にエレインに当たるように。これが目印よ」
お茶の時間が楽しみだ。
「あの
「僕を、どうするって?」
背後から当の本人の声がした。
オルフェンは一瞬びくっとしたが、すぐに笑顔を作って振り返った。
「あら、兄さま」
「オルフェン、ここで何をしているの?」
「お手伝いをしたくて」
ものは言いよう。
「もうできることはなさそうでしたので、少し飾りをつけさせていただきました」
「ふうん」
アリルはしとやかに頭を下げる妹を
「にゃあ」
シャトンは何食わぬ顔で箱座りをしている。
「あとは僕がやる。数少ない趣味なんだから、楽しみを奪わないでほしいな」
「はい。では失礼いたします」
ドレスをつまんで一礼すると、オルフェンは軽やかな足取りで厨房から出ていった。
アリルは妹を見送って戸口まで戻り、きょろきょろと厨房の外を見渡した。その仕草は、つい先ほどオルフェンが厨房内に入ってきたときとよく似ていた。
誰もいないことを確かめると、アリルは静かに扉を閉め、ポケットから小さな箱を取り出した。
「何だい、そりゃ」
人さし指を唇に当てて、シャトンの目の前で茶色いビロードの小箱を開く。
金の指輪だった。窓から差し込む光を映して、キラキラと輝いている。
オルフェンが持ってきたようなおもちゃではない。本物の指輪だ。
男の指にはめるには少々小さいようだが。
「あんた、そんなもの持っていたのかい」
「まあ、いざというときのために。装身具は一通り持たされています」
「いざというとき?」
その問いに、返事はなかった。
指輪を水で洗い、乾いた布で磨く。
「ここにしましょうか」
皮の端をめくると、オルフェンが指輪を入れた、ちょうどその向かい側に埋め込んだ。
「で、目印に飾りをつけて、と」
手際よく生地でリボンの形を作り、その縁に置いた。
「サウィンの日には、いろいろな種類の小物をパンの中に隠して、占いをするんですよ」
小鳥、三日月……。
リボンと花が悪目立ちしないよう飾りを付け足しながら、独り言のように呟く。
「お茶の時間のお遊びですから、
――あなたを心より愛してくれる人が現れますよ。近いうちに、きっと。
性格は正反対のようでいて、やっていることがそっくり同じだ。血は争えないといったところか。
(本当に、兄妹なんだねえ)
妙なところでシャトンは感心した。
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