「今、ここ」から「未来」へと振り返る 

はまたに

『タコピーの原罪』感想と近況について

 このおよそ100年の間、世界中の人々がものごとをおそろしく観念でしかとらえてこなかった。だからこそ勇気をふりしぼり決断した者がいざ現れたとき、人々はなにもできず、ただそれを傍観するしかない。巨大な組織も名声ある偉人も誰も戦争を止められやしなかった。これまで観念でしかなかった「革命」の二文字が今ほど血肉を伴って眼前に現れたことはない。

 しかし、とはいいながら今のぼくはただの一小市民でしかない。「革命」を実践するための論理も手段も持ち合わせてはおらず、赤紙が届くその瞬間まで、ただ蹂躙されるだけの存在でしかない。なので今ぼくができることをできるままにやり、生活していくしかない。情けないとは感じるけれど、本当にそれしかないのだ。何かあるならだれか教えてほしい。いざとなったとき、まず戦うのは兵隊さんだ。ネットでわがもの顔で防衛政策を語るような有象無象にはそれすらわからない。だが、かといって軍隊に対する過剰な期待や、戦意高揚をあおるプロ市民にもくみできない。ぼくはぼくとしてぼくにできることをやって、いずれ死ぬ。だから今は、書くことがぼくにできる唯一の闘争手段なのだと信じている。本当に、本当に無力で情けなくはあるけれども。


 さて、『タコピーの原罪』について現時点で公開されている12話までの感想を書こうと思う。前々からツイッターでは話題になっていた漫画だが、しかし不思議なことに、感想を探してみるとこれが驚くほど、全く出てこない。みな伏線探しや今後の展開について予測し、当たりはずれに一喜一憂しているばかりで、小学生の読書感想文並みの感想すら出てこない。いったいみなは『タコピーの原罪』のどこを面白いと思って話題にしているのだろう? ぼくはそれを聞きたい。ならばまずはぼくが感想を記すのが礼儀かなと思って今書いている。これを読んでくれた人がどこにでもいいから『タコピーの原罪』の感想を書いてくれると嬉しい。探しているのでめぐりあえれば読むと思う。たぶん。


 作品中では種々の虐待が描かれそのむごさに呆気にとられるが、冷静に見ればあの虐待の描かれ方はかなりステレオタイプなものだ。言い換えれば虐待の描写にはディティールがない。こういってしまうとけなしているように思われるかもしれないが、そうではない。それから注意してほしいのは、著者が実際に虐待を受けたかどうかはあの虐待の描写のされ方には関係がないということだ。ステレオタイプとは実際に生々しい現実を知っている者にとってもそれとは別に強固に存在している。

 わざわざステレオタイプを用いている理由はふたつあると思う。ひとつは少年ジャンプがあくまでも少年誌だから。虐待のディティールを知る読者だけが共感できうるつくりにはしていないということだ。またあまりにもリアリティのある虐待描写は読者を選別してしまい凡庸に考えても大衆娯楽にはふさわしくない。実際の虐待がもつむごさを緩和するために用いられているのではないだろうか。ふたつめは、この漫画が虐待を描いた作品ではないからだ。正確にいうなら、虐待はあくまで題材であってテーマは別にあるのではないかということだ。そしてそのテーマとは「描く/読むことがそもそも持つ暴力性」ではないだろうか。

 例えば1話の最大の見せ場である首をつったしずかちゃんをタコピーが発見したシーン。あの写実的な描画につるっとしたタコピーのデザインは明らかに異質で浮いている。タコピーのデザインはもっと写実的な、例えばメンダコっぽい描き方もできたはずだが、異質な描き方をあえてされている。しかし異質な異星人というわりには、どうやら彼の言葉を聞いている限りだと、ハッピー星人はかなり人間に近い設定ではないか。母親と父親がいることから生殖能力はおそらく似通ったもの。また掟が存在していることからある程度の社会性を有していると思われる。ならば異星人という、異質な存在にした理由はどこにあるのか。ここからは予想になってしまうが、ぼくはいずれ語られるであろうタコピーの出自やハッピー星の詳細が著者や著者のおかれた境遇にいちばん近いのではないか、つまりタコピーこそが著者の投影なのではないかと思っている。だからこそ著者=現実の存在がフィクションに入り込んだ=異質な描き方になったのではないか。そしてもしそうなのだとすれば、彼は物語の登場人物のひとりでありながら、語り手であり、物語を今まさに書いている張本人である。つまり物語は彼がいつでも都合よく終わらすことのできる可能性にいつでもひらかれているのではないか。ハッピー道具なるあまりに都合のよい道具は、全部なかったことにして突然ハッピーエンドを描ける可能性すらあるのではないか。

 しかしながら、少なくとも現時点までのタコピーはそうはしていない。むしろ主人公として3人のたどる運命に翻弄され続けている。だが12話で明らかになったが、どうやらしずかちゃんはタコピーが渡した仲直りリボンで首をつらなければロープが切れて助かっていたらしい。そして散々ツイッターでも話題になっているが、しずかちゃんとまりなちゃんの対比描写から彼女らはおそらく近しい運命の存在だと思われ、察するに今度はしずかちゃんが殺され、まりなちゃんがタコピーを殺そうとするのではないか。つまりタコピーは翻弄されているのではなく、むしろ3人の運命をかき乱しているということになる。もしタコピーが関わらなければあの3人はそれなりに、すくなくともタコピーが関わるよりはしあわせな結末を迎えるのではないか。が、当然のことながら、タコピーがかかわらなければあの世界はそもそも物語たり得ない。なぜなら彼は語り手であり、主人公でもあるからだ。彼が観測して、関わって、初めてあの世界は物語になっている。わたしたちが知るところの起承転結やエンターテイメントに欠かすことのできない驚愕、笑いとシリアスの起伏に富んでいる。その結果、あの3人は非情な結末をむかえている。彼女らをしあわせにしたければタコピーはおろか、そもそも著者が『タコピーの原罪』を物語として成立させなければよいのだ。


 ところで『EUREKA』では、既存のエウレカシリーズがすべてシルバーボックスとエウレカがつくりだした仮想世界であることが明かされ、受肉した仮想世界の住人であるデューイが創造主であるエウレカに対して複雑な感情を抱きながらも自由意志を証明するために最後は自決した。ぼくはデューイの「どうして私をつくったのですか?」というエウレカへの問いかけは、そのままエウレカが監督である京田知己に問うことができ、京田監督のつまるところの悩みはそれに対して「ぼく(京田監督)はなんと答えられるだろうか」ということだったように思う。そして京田監督の出した答えは「この物語はぼくでも、ぼく以外のスタッフでも、ましてや視聴者のためでもなく、エウレカとレントンのためにあった。だからふたりのために終わらそう」ではないだろうか。エウレカはレントンのいない世界を贖罪のために生きると一度は決意しながらも仮想世界、現実世界の人々が世界を救うために特攻していくことに耐え切れず、封印してきた最愛の人の名を叫んでしまう。京田監督はパンフの中でそれを「そのダサい感じもひっくるめてエウレカらしさ」と表したが、最後にエウレカに「わたししあわせだった」といわせて「ぼくもだよ」とレントンにこたえさせる京田監督も同じで、ぼくはアネモネよろしく「バカなんじゃないの。勝ち逃げなんて許さないから」と突っ込みたい。確かにホランドもスーパー6も名もなきモブも世界を救うために自らの自由意志で特攻しているだろうから自由意志はあったと解釈するのが普通だろうが、それすらも京田監督含めたスタッフがつくっているわけで、結局のところ自由意志があったかどうかはわからないのだ。けれどもあると信じたい、エウレカとレントンの気持ちは本物だと信じたい京田監督があれをセリフとしていわせてしまっているところに、エウレカに通じる京田監督の「ダサさ」がある。


『タコピーの原罪』に戻って、では以上のことからタイトルのタコピーの原罪とはなんなのかと考えると、ぼくは「それでも描きたいというエゴ」だと思う。人間が人間である以上逃れられぬ衝動であり、しかし描くことにはエゴと呼べる以上のものがなく、作品のなかで登場人物たちは著者(創造主)のおままごとによって傷つけられ、しあわせになり、読者はそれを楽しむ。作中で出てくる重要な道具がハッピーカメラなのは象徴的じゃなかろうか。カメラとは単に額縁で景色を切り取るだけの道具ではない。その景色をわざわざ切り取る写し手の恣意性が介在しており、それが描写であり、リアリズムの問題につながる。つまりそこでいわれるリアルとはいったいなんなのかということだ。作中においては現像された写真の時間に戻れるということだったが、結局のところ何度やり直しても事態は好転していない。切り取られた額縁のなかをタコピーが延々といじくりまわしても現実は変わらない。漫画という媒体を無謬のものとして受け入れ、そのなかでいくらもがいてみても、結局その外には出られないのだ。

 では、どうするのか。ぼくはかつてその枠組みの破壊を試みた新世紀エヴァンゲリオンの26話よろしく、最後タコピーを犠牲に、ハッピー道具でタコピーと関わらない世界でしあわせそうに笑う3人の笑顔で締めたあと、急に『タコピーの原罪』を書き終わる謎のおっさん(おばさん?)が出てきて「かったりぃ~」とか言いながらコンビニに行くためにアパートの一室を出て、誰もいなくなった部屋を写して終了、みたいなのを予想している。ないわ。はい。


 ここまで長々と語っておいて結局これが全部見当違いでしたなんてことも、というかその可能性のほうが高いわけだが、もしこれがそこそこ的外れでもないという前提で感想をいうとするなら、作家の自意識、エゴイズムに作家自身がさいなまれ、その結果それを作品として表現して社会的承認とご飯をもらおうとする根性は、端的に下品だなと思う。作家なんてみんなそんなもんだろといわれれば、まぁそうなんだが、しかし作品において、作家の自意識をおおっぴろげにすることは基本的に下品だという認識でいなければ、むしろそのような作品自体を評価できなくなるのではないか。『ルックバック』という作品が前に話題になったが、あれに関してもぼくは同じように下品だなと感じた。しかしその後一度目の改稿の折、出されたプレスリリースに著者である藤本タツキの署名がないことにぼくは少し考えるものがあった。藤本タツキはおそらくあの『ルックバック』という作品が己のエゴこそなければ成り立たない作品だとわかっていた。だが読者の反応をふまえセリフを変更したい編集部と、あのセリフを変えてしまうと『ルックバック』そのものが成り立たなくなることを危惧した藤本タツキの意見が折り合わず、結局のところ、あの張ってつけたような奇妙な改稿と署名のないプレスリリースに妥結せざるをえなかったのではないか。ぼくはその後の単行本を読んでいないので、最終的にどのような表現になったのかは知らないが、少なくとも藤本タツキという漫画家が今後どのような作品を描いていくのかに興味をもった。のちにつくられてゆくであろう彼の作品の文脈によっては『ルックバック』は再評価される可能性がある。

 『タコピーの原罪』もその可能性にひらかれているわけだが、しかしそれに至るまでのシニズムは同時に今、批判されるべきだ。タコピーは少なくとも1話から12話までにおいて、どこかずっと自分を傍観者もしくは被害者の立場に置いてものを語っている節があり、やたら体よく的を射たことを白々しく語るときもあれば、ヤバい事態に直面したときは語尾のピが抜けて素に戻ったりする。タコピーの精神はきわめて未成熟だ。あの未成熟さが意図的なのか無意識なのかは判別しかねるが、どちらにせよあのタコピーの未成熟さこそ露悪的表現に他ならない。だがそれを批判できないところに、今日の人々の病がある。我々が批判すべきなのは日常に巧妙に紛れ込んだ偽札なのであり、一見してそれとわかる玩具などではない。タコピーの自意識が現代人のなにがしかを表象してしまっているのだとすれば、それを批判することはおのずとすべて自分に返ってくる。勇気を持とうじゃないか。同時代に生きる我々の感性をバラバラにしその正体を暴くことから始めよう。そのあとに個々人が感じているこの『タコピーの原罪』の面白さが浮き彫りになってくるはずだ。


 いっちょまえなことをいいながらも、ぼくは正直、これを書き始めたときから今に至るまで、『タコピーの原罪』に感じてる面白さとはなんなのか、よくわからなくなってきている。だからこそ他の人の感想を知りたい。感想を書くという行為はなかなか大変だ。「気軽に感想をいっていこうぜ」というのは簡単だが、書いていく過程でなにがなんだかわからなくなってくる。これは本当にこの作品の面白さなのか? そもそも面白いとはなんだ? 面白いと感じている自分とはなんだ? 次から次へと疑問が出てきて、ぼくは本当にこんな粗末な文章を感想だといって提出していいものか躊躇してしまう。けれどもやる。バカならバカなりに、今の自分がとりあえずどこまでバカか書いて残しておく。恥ずかしいけれども。だから軽んじるという意味でなく「日ごろから賢くなっていこうぜ」という、これまたひどくバカっぽい意味で、ぼくはそれでも「気軽に感想を書いていこうぜ」と言っていこうと思う。

 きっと表現するということはそのようなことだ。ぼくはタイザン5氏が己の無知をさらす恥とそれへの批判を乗り越え、表現し続ける胆力を持ち合わせていると思いたい。『タコピーの原罪』が「ダサい」と再評価される未来の可能性に「バカなんじゃないの。勝ち逃げなんて許さないから」と突っ込みながら。











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