霧の魔法使い
真夜は家を飛び出した後、角を曲がってすぐにつま先を2回鳴らした。2歩3歩と歩くと、ぐんと景色は飛び去って、すぐに小高い丘の屋敷にたどり着いた。
その屋敷の扉の前に立つと、月明かりでツヤツヤと光る黒の扉は真夜の姿を良く写した。真夜は、目元が腫れた寝巻き姿に顔を
髪の毛を
「まあ、こんなもんかしら」
うん、と頷いた真夜が、自分の目線の少し上に取り付けられた、銅のコウモリの鼻を人差し指でかいてやると、コウモリはクスクスと身を捩らせて、かちゃりと鍵が開く音がした。
扉を開けたすぐ先の玄関ホールに漂う黒い霧に、真夜は迷う風もなく突き進む。
黒い霧の中を突き進んだ先は、壁の見えない空間が広がり、壁の代わりに、いくつかの色とりどりの霧の塊が漂っていた。
どの霧にいるだろうか、当たりをつけようと見比べていると、青い霧からシースルーの黒いロングドレスに身を包んだ魔法使いが出てきた。
その魔法使いは、真夜を見るなり
「バイオレット、あなたが出てきてくれてよかったわ。シャルムいる?」
そう聞くと魔法使いは真夜の頬にキスをしながら、「もちろんよ、呼ぶわね」と指をくいと曲げた。
すると薄紫の霧からよく知る顔が、見えない何かに引っ張られる様にして出てきた。
「もう、バイオレットは強引だなぁ。あれ?真夜どしたの?」
「あんたにちょっと頼み事があるのよ」
「ふうん。じゃあ、奥のソファで聞くよ」
シャルムはにこりと微笑み、親指で霧の向こうを指す。
「私もいこうっと」とするりと絡められた霧の魔女の長い指に引かれて、真夜も薄紫の霧の中に溶け込む。
中は王様のベッドのような大きな紫のソファの上に、大きなクッションがゴロゴロと並べられていた。
その前にはテーブルもあるのに、ソファが大きくて届かないからか、色とりどりのキャンディで装飾されたクッキーが盛り付けられた大皿と、ワインボトルとグラスがふわふわと浮いていた。
「クッキーがうまく焼けたからたくさん食べてね」
「あんたが香水臭いから味なんてわかんないわ」
「その割に手が止まらないねー」
眉根を不機嫌そうに寄せたまま、クッキーとワインを交互に口に運ぶ真夜の様子を、二人の魔法使いは楽しそうに見つめる。
「食べてる姿だけで何で可愛いのかしら」
「バイオレットは、本当にまよに弱いなぁ」
真夜が二人の感想を聞き流しつつ、どうやって切り出そうかクッキーを頬張りながら考えていると、霧の魔法使いがまた頬に顔を寄せる。霧の魔法使いは、真夜の頬ですんと香りを確かめた後、微笑んで言い当てた。
「可愛いお嬢さんは、シャルムに二つもおねだりがあるのね」
真夜が音で人の感情がわかるように、バイオレットは匂いにとても敏感だった。言い当てられることに慣れていた真夜は、伝える手間が省けたとでもいうように頷く。
「一つは自分にかけた呪いなんだけど、解除したはずなのに解けてなくて」
「どんな呪い?」とシャルムが顔を覗き込む。
「相手に対してその時思った感情が持続する呪い」
「なんてこじらせた呪いなんだ…」
珍しく鬱陶しそうな顔をするシャルムに、真夜は、魔素よけの魔法を使わないように『約束』させられたことと、そのために、コハクに対する感情をコントロールする魔法をかけようとしたことを説明した。
「で、魔法は失敗したはずなんだけど、コハクにキスされてから心臓がおかしくて…なんとかしてくれないかしら?」
「だから魔法を解除して欲しいってこと?…で、もう一つは?」
細い目で話を聞いているシャルムは、そのまま続きを促した。
「コハクの音を聞きたくない。」
「なにそれ?」
「あの子の音がうるさいの。思春期ってやつかしら。」
『うそでしょ、本当は』
その好意に絆されるのが怖いのか、いつか、他所に向けられるのが怖いのか。
国潰しの魔女が何に怯えてるんだか。とシャルムは言いたくなったのをぐっと堪えた。
「できるけど、本当にいいの?」
「魔法が呪いになっても知らないからね」
真夜の譲らない表情を見て、仕方ないというように頭をかいたシャルムの横で、バイオレットが意気揚々と乗り出して、顔を寄せた。
「じゃあ、私がかけてあげるわー!」
「ちょ…バイオレット?」
「はい、可愛い子はこっちを向いて?」
慌てるシャルムの横で、バイオレットはスッと真夜の頬に手を添えて横を向かせた。
そして、先ほどと違って頬ではなく唇に口付けられた。
すぐに深くなったキスは、先ほどのコハクのキスとは全く違う、と真夜は思った。
「ん…」
心地よくて、丁度良い。
少し離れて、空気に触れた唇が冷たいなと感じた後、一拍置いて、もう一度重ねられる。先ほどよりもさらに深く、真夜が心地いいと思っていた場所を丁寧になぞられて、思わず、バイオレットのレースの生地を握り締めてしまう。
やっぱり、コハクのキスとは全然違う。
触れるだけの一生懸命なキスとは全然違う。
気持ちを押し付けるだけのうるさいキスとは全然違う。
あんな事故みたいなキス、早く忘れないと。
「ねえ、もっと…」真夜が続きをねだると、バイオレットの紅くなった口は弧を描いた。
「ふふ…。ねえシャルム、あっち行っといて」
バイオレットの手がするりと真夜の首に巻き付いたので、真夜も応えるように再び目を閉じて、バイオレットの首に手を添えた。
そして唇が再び重なろうとして…重ならなかった。
「ダメです」
両側に口紅のついた手をひらひらしながら、顰めっ面で話すシャルムに真夜とバイオレットは口を尖らせた。
すると、これで我慢というかのように、二人の口にジャムの乗ったクッキーが押し付けられた。
「なによ、シャルムもしたかったの?」
バイオレットの言葉は無視して、シャルムはいつかの言葉を真夜に返した。
「まよ、僕もバイオレットも誰かの代わりにされるほど安くないんだ」
僕が恋しい時ならいつでも大歓迎けどね、とシャルムは肩をすくめる。
バイオレットは、「私はどんな時でも大歓迎よー!」と言うので「黙れ」とでもいう様にシャルムに頭を叩かれていた。
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