霧の魔法使い

 真夜は家を飛び出した後、角を曲がってすぐにつま先を2回鳴らした。2歩3歩と歩くと、ぐんと景色は飛び去って、すぐに小高い丘の屋敷にたどり着いた。


 その屋敷の扉の前に立つと、月明かりでツヤツヤと光る黒の扉は真夜の姿を良く写した。真夜は、目元が腫れた寝巻き姿に顔をしかめ、親指にキスをしてから指をパチンと鳴らした。すると、腫れを引かせた目元にはパールの輝きが添えられ、寝巻きのワンピースは形を変えて、太ももまでの深いスリットの入った黒いオフショルダーのイブニングドレスに変わった。


 髪の毛を手櫛てぐしで整えた後、指で唇をなぞり、深紅の口紅を指したら、真夜はいつもの薬屋の主人ではなく、かつて集会で他の魔法使いの視線を集めていた時と同じ、妖艶な雰囲気をまとう魔女の姿に変わっていた。


「まあ、こんなもんかしら」

 うん、と頷いた真夜が、自分の目線の少し上に取り付けられた、銅のコウモリの鼻を人差し指でかいてやると、コウモリはクスクスと身を捩らせて、かちゃりと鍵が開く音がした。


 扉を開けたすぐ先の玄関ホールに漂う黒い霧に、真夜は迷う風もなく突き進む。

 黒い霧の中を突き進んだ先は、壁の見えない空間が広がり、壁の代わりに、いくつかの色とりどりの霧の塊が漂っていた。

 どの霧にいるだろうか、当たりをつけようと見比べていると、青い霧からシースルーの黒いロングドレスに身を包んだ魔法使いが出てきた。


 その魔法使いは、真夜を見るなり破顔はがんして「あらあら、音のお嬢さんお久しぶりね」と熱烈なハグをお見舞いしてくれた。

「バイオレット、あなたが出てきてくれてよかったわ。シャルムいる?」

 そう聞くと魔法使いは真夜の頬にキスをしながら、「もちろんよ、呼ぶわね」と指をくいと曲げた。


 すると薄紫の霧からよく知る顔が、見えない何かに引っ張られる様にして出てきた。

「もう、バイオレットは強引だなぁ。あれ?真夜どしたの?」

「あんたにちょっと頼み事があるのよ」

「ふうん。じゃあ、奥のソファで聞くよ」

 シャルムはにこりと微笑み、親指で霧の向こうを指す。


「私もいこうっと」とするりと絡められた霧の魔女の長い指に引かれて、真夜も薄紫の霧の中に溶け込む。


 中は王様のベッドのような大きな紫のソファの上に、大きなクッションがゴロゴロと並べられていた。

 その前にはテーブルもあるのに、ソファが大きくて届かないからか、色とりどりのキャンディで装飾されたクッキーが盛り付けられた大皿と、ワインボトルとグラスがふわふわと浮いていた。


「クッキーがうまく焼けたからたくさん食べてね」

「あんたが香水臭いから味なんてわかんないわ」

「その割に手が止まらないねー」

 眉根を不機嫌そうに寄せたまま、クッキーとワインを交互に口に運ぶ真夜の様子を、二人の魔法使いは楽しそうに見つめる。

「食べてる姿だけで何で可愛いのかしら」

「バイオレットは、本当にまよに弱いなぁ」


 真夜が二人の感想を聞き流しつつ、どうやって切り出そうかクッキーを頬張りながら考えていると、霧の魔法使いがまた頬に顔を寄せる。霧の魔法使いは、真夜の頬ですんと香りを確かめた後、微笑んで言い当てた。

「可愛いお嬢さんは、シャルムに二つもおねだりがあるのね」

 真夜が音で人の感情がわかるように、バイオレットは匂いにとても敏感だった。言い当てられることに慣れていた真夜は、伝える手間が省けたとでもいうように頷く。


「一つは自分にかけた呪いなんだけど、解除したはずなのに解けてなくて」

「どんな呪い?」とシャルムが顔を覗き込む。

「相手に対してその時思った感情が持続する呪い」

「なんてこじらせた呪いなんだ…」

 珍しく鬱陶しそうな顔をするシャルムに、真夜は、魔素よけの魔法を使わないように『約束』させられたことと、そのために、コハクに対する感情をコントロールする魔法をかけようとしたことを説明した。

「で、魔法は失敗したはずなんだけど、コハクにキスされてから心臓がおかしくて…なんとかしてくれないかしら?」


「だから魔法を解除して欲しいってこと?…で、もう一つは?」

 細い目で話を聞いているシャルムは、そのまま続きを促した。

「コハクの音を聞きたくない。」

「なにそれ?」

「あの子の音がうるさいの。思春期ってやつかしら。」


 『うそでしょ、本当は』

 その好意に絆されるのが怖いのか、いつか、他所に向けられるのが怖いのか。

 国潰しの魔女が何に怯えてるんだか。とシャルムは言いたくなったのをぐっと堪えた。


「できるけど、本当にいいの?」

「魔法が呪いになっても知らないからね」


 真夜の譲らない表情を見て、仕方ないというように頭をかいたシャルムの横で、バイオレットが意気揚々と乗り出して、顔を寄せた。

「じゃあ、私がかけてあげるわー!」

「ちょ…バイオレット?」

「はい、可愛い子はこっちを向いて?」


 慌てるシャルムの横で、バイオレットはスッと真夜の頬に手を添えて横を向かせた。

 そして、先ほどと違って頬ではなく唇に口付けられた。


 すぐに深くなったキスは、先ほどのコハクのキスとは全く違う、と真夜は思った。


「ん…」


 心地よくて、丁度良い。


 少し離れて、空気に触れた唇が冷たいなと感じた後、一拍置いて、もう一度重ねられる。先ほどよりもさらに深く、真夜が心地いいと思っていた場所を丁寧になぞられて、思わず、バイオレットのレースの生地を握り締めてしまう。


 やっぱり、コハクのキスとは全然違う。


 触れるだけの一生懸命なキスとは全然違う。

 気持ちを押し付けるだけのうるさいキスとは全然違う。


 あんな事故みたいなキス、早く忘れないと。


「ねえ、もっと…」真夜が続きをねだると、バイオレットの紅くなった口は弧を描いた。

「ふふ…。ねえシャルム、あっち行っといて」

 バイオレットの手がするりと真夜の首に巻き付いたので、真夜も応えるように再び目を閉じて、バイオレットの首に手を添えた。

 そして唇が再び重なろうとして…重ならなかった。

「ダメです」

 両側に口紅のついた手をひらひらしながら、顰めっ面で話すシャルムに真夜とバイオレットは口を尖らせた。


 すると、これで我慢というかのように、二人の口にジャムの乗ったクッキーが押し付けられた。

「なによ、シャルムもしたかったの?」

 バイオレットの言葉は無視して、シャルムはいつかの言葉を真夜に返した。

「まよ、僕もバイオレットも誰かの代わりにされるほど安くないんだ」

 僕が恋しい時ならいつでも大歓迎けどね、とシャルムは肩をすくめる。


 バイオレットは、「私はどんな時でも大歓迎よー!」と言うので「黙れ」とでもいう様にシャルムに頭を叩かれていた。

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