八.
「僕は先生を二階にお連れして、そのままお休みになってもらいました。僕は湯を沸かして体を洗って、新しい服に着替えました。二階に上がると、先生は文机に向かって、書き損じの原稿用紙が散らばる中で窓の外をぼんやり眺めておられました。先生は僕を抱き寄せると、すまなかったと何度も謝りました。僕はいいんですと答えて布団を敷いて、先生に抱きつかれたまま眠りにつきました。次の朝、僕はいつも通りの時間に起きて、掃除と洗濯をして朝食を作りました。先生は食欲がないと言って召し上がりませんでしたが、それでも、昼過ぎには戸棚に残ったお菓子を食べておられましたし、新しい話を書くと言って僕に原稿用紙を買ってくるよう言いつけました。もう、全て元に戻っていました」
そんなことはないと、私は心の中で呟きました。それと同時に、今私の目の前で話している北村君は一体何者なのだろうと、俄然背筋が寒くなりました。結果としてこの時私の脳裏に浮かんだ恐ろしい仮説は当たっていたわけですが、それにしても蒼翅君はそのことに気づいていたのでしょうか?
答えは否だろうと、私は思います。彼はおそらく、この哀れな青年が、棺の中で産まれた我が子を育てる女幽霊よろしく彼の身辺の世話をしていたことに気が付いていなかったのでしょう。少なくとも、私たち二人が黙りこくっているところに降りてきた蒼翅君は、何も気づいていないようでした。
「やあ、どうしたんだい。二人ともひどい面持ちじゃないか」
蒼翅君はゆらりと笑うと、北村君の隣にどっかとあぐらをかきました。それから北村君の薄い肩に腕を乗せ、満足そうにあごを持って、唇にそっと口づけました。蒼翅君の幸せそうな笑顔にもそれに応える北村君にも、先ほど聞いた惨劇の影は少しも見受けられません。ひとしきり接吻をすると、北村君は部屋を片付けてきますと言って二階に姿を消しました。その首についていたあざは、いつの間にか綺麗に消えてなくなっていました。
私は、蒼翅君に何から話せばいいのかすっかり分からなくなっていました。ただじっと押し黙る私の顔を覗き込みながら、蒼翅君は言いました。
「どうしたって、そんなに湿気た顔をしているんだい。小暮君がそんな顔をするとは実に珍しい」
私は、それには答えずに、
「ときに蒼翅君、君は最近、きちんと食事をしているのかね」
と訊きました。
「なんだい、それは。瑤が何か言ったのか?」
「いいや。ただ、朝来たとき、君がやけにやつれていたのが気になって」
私がそう答えると、蒼翅君ははあとため息をつきました。
「小説が書けなくなってから、飯を食う気になれなくてね。瑤は心配して食べろ食べろと言うんだが、どうにも気分が乗らない……それに、昨日は言わなかったが、同じ頃からこっちも不調になってしまってね」
こっちと言って蒼翅君が触れたのは、自身の股間でした。私は非常に訝しみました——もしも正常に機能していないのであれば、彼と北村君のあの光景は一体何だと言うのでしょう?
私の疑問を感じ取ったのか、蒼翅君はかすかに頬を紅潮させて言いました。
「瑤がしてくれたら、何の問題もないんだよ。だが、一人でしようとするとちっとも反応してくれないんだ。恥ずかしい話だが」
「それは相当疲れが溜まっているんじゃないのかね? どこか旅行するとか、気晴らしにここを離れた方が良いんじゃないか?」
私が言うと、蒼翅君は首を横に振りました。
「駄目だ。駄目なんだ。今の私にはどこに行く金もない。瑤も貸せるほど持っていないし、そんなことをしては瑤が食べる金がなくなってしまう。それにだ、瑤に一人稼がせておいて、僕だけ遊び歩くなんてことはできないよ」
「静かな旅館に部屋を取って執筆をするだけじゃないか? 君のいつもの道楽趣味の方が、よっぽどの遊びだと私は思うがね。君が金をもらってもすぐ使い果たしてしまうせいで、北村君はひどく苦労しているんだぞ? 日頃から彼に稼がせているというのに、こういう時だけまともなことを言うのかね、君は?」
私がそう反論すると、蒼翅君はダンとちゃぶ台を叩きました。
「いいや、あれは僕の執筆に必要なんだ! あすこで見た痴情の駆け引きを下敷きにしているから蒼翅碧花の作品は評価されるんだ。全く、小暮君、君まで私を失望させるようなことを言わないでくれ。それに、たったの一日でも、僕は瑤のいない生活をするなんて想像もできないんだ。僕は何としても、瑤のいるこの家で、今書いているやつを完成させなければいけない。どうしてもここで書かなければいけないんだ!」
蒼翅君は声を枯らして怒鳴りました。彼がこんなに激高するところを見たのは初めてです。私は何を言い返すこともできず、そのまま口を閉ざしてしまいました。
蒼翅君もしばらく何も言いませんでした。やがて彼は立ち上がると、何やら呟きながら茶の間を出て階段をのぼっていってしまいました。上の方から北村君の声がくぐもって聞こえてきます。喫茶ルミヱールの制服にコート姿で降りてきた北村君を見て、私はまた夕方の五時が近いことに気が付きました。この家に丸一日いたというのに、実感が全くありません——私はいよいよおかしな気分になりながら、北村君にいとまを告げました。北村君はそうですかと答えると、
「明日もまた、来られるんですか?」
と尋ねました。私は仕事があるからと言って断ったのですが、心のうちではすっかり困り果てていました。このまま通い続けていたら私までこの奇妙な暮らしに囚われてしまいそうで、しかし私がこの病的な空間から蒼翅君を救い出さねばならないのもまた事実でした。
北村君は、なぜか紙屑の一杯入った屑籠を持って降りてきていました。私が尋ねると、彼はかまどの足しにするんですと答えました。
「碧花先生の書き損じをいつも焚きつけにもらっているんです」
私は、くしゃくしゃに丸められた原稿を上から一つ取って広げてみました。驚くほどかちかちに固められたそれを用心しつつ開くと、そこには大量の文字が並んでいました——しかし、そのどれもが一つとして意味を成しておらず、ただ漢字や仮名が大きさも順序も滅茶苦茶にぶちまけられているのです。所々にインクの滲んだそれは、まさしく狂気の産物とでも呼ぶべきものでした。私はそそくさと原稿を丸め直して北村君に返しました。北村君は屑籠に詰まった狂気を平然と空けると、そろそろ仕事に行くと言いました。私は彼と一緒に家を出ることにしました。時間も遅くなっていましたし、平静を装ってこそいましたが、一刻も早くこの空間から出たくて仕方ありませんでした。
「今日は夕飯の念押しをしなくていいのかね」
私がこう訊くと、北村君は
「ああなってしまっては、何を作っても召し上がってくださらないので」
と言ってやれやれとため息をつきました。その様子を見ていると、私は北村君のことを、やはり夫を気遣う若妻に見えて仕方ないと思わずにはいられませんでした。
私は
「では、また気が向いたら遊びにいらしてくださいね」
北村君の声がすぐ横から聞こえてきました。私は返事をしようとあたりを見回しましたが、北村君の姿はどこにも見当たりませんでした。まばらな通行人の中にも、彼の姿は見当たりません。北村君は家から出た瞬間に、嘘でも誇張でもなく消え失せてしまったのです。
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