第9話 穏やかな空間

 会話を重ねる中で分かってきたことがある。コトは、色葉と俊彦を混同しているだけでなく、意識の半分程が戦前に戻っている。しかしながら若者には無縁と思われる杖を突くことには抵抗が無く、戦後の話を「戦後」と言葉にせず話の中で提示すれば成り立つ。ただ、戦争自体がすっぽり頭から抜けているようで、ちぐはぐな受け答えをされたこともある。


 加齢によるものであれば致し方なく、それなのに本の知識は膨大で、勉強になるこの訪問はすでに日々の楽しみになっていた。


「今日のお昼はおうどんでした。お兄さんに洗濯もしてもらって、私ももう少し動くことが出来たら」


 ヘルパーは午前中、朝食の時間に合わせて来る。そうして、洗濯や掃除、昼食までの調理を済ませて帰ると言った。夕方には桃也が交代で来て夕食を作るらしいので、彼はシフトで言えば遅番なのだろう。次に会えたら、コトの詳しい状況や俊彦のことを聞いてみたいと思った。


「心配しなくて平気ですよ。お兄さんたちはお手伝いの為にいらしてるんですから」


 仕事ではなく単なる好意で来てくれていると思っているコトは、たびたびヘルパーに対して申し訳なさを感じている。こればかりは「それなら止めてもらって、自分でやってみましょう」などと言えるはずもなく、感謝の気持ちを伝えればいいと言うに留めた。


 しばらく、「歩ける距離に美味しいパン屋がある」「お兄さんが連れていってくれる散歩コースに花が綺麗に咲いた」など世間話をしていたが、つい奥の本棚が気になって視線を送ってしまった。気付いたコトが小さく吹き出す。


「部屋、行きましょう。毎回私と話すだけではつまらないでしょうし」

「いえ、つまらないことはないです! ちょっと気になってしまって……有難う御座います」


 視界の隅に置いているつもりだったのに、笑われるくらい見ていたとは自分のことながら恥ずかしくて顔を覆いたくなった。立ち上がるコトに手を添え、歩き出す後ろ姿を眺め静かに後ろを付いていく。少し背の曲がった、色葉より頭一つ低いコトの姿は、見守っていなければ一瞬の内に消えてしまう薄雲のようだった。


 ドアが押されて、手前しか見えなかった本棚が顔を出す。六畳の和室は、壁中が本で埋め尽くされていた。


「森鴎外、夏目漱石、芥川龍之介……谷崎潤一郎、太宰治に……錚々たる顔ぶれですね。私が知らない作家もいっぱいで……」


 思った通り、図書館にあるコトが所有していた本と全く同じものたちが並んでいる。コレクターの中には本が発売されるたび三冊ずつ購入する者もいるわけだから、コトも“そういう類”なのかもしれない。目の前にある一冊を手に取った。色葉の想像はすぐに否定されることとなる。


――あれ、名前が……。


 不思議に思い、他も数冊手にする。確かめてみると、そのどれもが裏表紙に「俊彦」と手書きされていた。


――ということは、自分の分を手放して俊彦さんの分を残しておいたってことか。


 同じ本を持っていたから、処分した。ますます二人の関係が気になってきて、問いかけたくなるのを我慢するので精一杯になる。後ろからコトが覗いた。


「それは俊彦さんのですね。そういえば、俊彦さんが本棚を処分する時に一緒にしたんでした。持ち帰られますか?」

「い、いいえ! 大丈夫、大丈夫です。ここに置いておいてください」


 呼ばれる名が俊彦であるだけで、それ以外は何の繋がりもない。持ち帰ってしまえば、コトが読みたい時に読めなくなる。そもそも、手に入れる権利など無い。


 もらうことなど出来るはずがなく、両手を力いっぱい振って遠慮した。不本意ながら騙している状況に申し訳なく感じているのに、さらに上塗りしたくない。


 ともあれ、これだけの書物に溢れた部屋を出入りできるのだ。今後は読みたくなったら、図書館に行かずにコトの家を訪ねればいい。彼女も色葉が来る前はヘルパーとしか会話することもなかったそうだから、話相手にもなれたらいいと思った。


「それにしても、本当魅力的な部屋ですね。私もこうして本に囲まれて暮らしたいなぁ」


 大して趣味も無いから、ワンルームの我が家でも小さな本棚なら可能だろう。図書館で借りれば事足りていたはずが、部屋の雰囲気に触発され、帰りにインテリアショップに足を運びたくなった。出来ることなら、四方全てを本で埋め尽くしたい。さすがにベッドを置いた部屋では足の踏み場も無くなってしまうが。理想な部屋を心の内で留めながら、適当に一冊取り出して居間へ戻る。


 コトは借りてきた本を、色葉は本棚の本を読みながら時おり感想を言い合っていると、玄関の外から発せられた軽快な音が響いた。太陽が大分傾いている。桃也が夕食を作りに来たのだ。


 時計を見遣ればもう午後六時を差していて、夏の所為で明るい外がすっかり色葉の時間を狂わせていた。インターフォンの音楽にコトは廊下を一瞥したが、迎えに行く素振りはない。やがて、がちゃりと鍵が開いた。色葉と尋ねた時はコトが出てくるのを待っていたが、普段は歩かせる負担を考えて合鍵で開けているらしい。

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