第5話 探し人現る

「もう帰るんだ?」


 十五時になってすぐ帰り支度を始めた色葉に、休憩をしていた仲間が声をかける。いつもならば、だらだら休憩している人間と話してから帰るので、不思議に思われたらしい。色葉は「用事があるから」と手を挙げて急いで荷物をまとめた。特にからかわれることもなく会話は終わり、裏口から外に出る。


 むわ、とした、息をするのもためらう空気が覆った。十六時までは一番暑い時間だと言われるから仕方ないとしても、幼い頃は熱中症という言葉もあまり聞かなかった気がする。服に守られていない腕や足が太陽に照らされ、暑さと一緒にひりひりする痛みを感じながら、自転車を図書館まで走らせた。


 中途半端な時間だからか、車も自転車もあまり置かれていない。入口近くの駐輪場に停めて中へ入る。エアコンの効いた室内が汗を急激に引かせていった。長時間いたら、体が冷やされて風邪を引いてしまいそうで、目的の本へまっすぐ向かう。室内と外の気温差が体によくないことを思い出しながら、見慣れた棚を上から眺めていった。


「うーん、志賀直哉……どうしよう。あっさり読める短編がいいな」


 ものの数分で一冊手に取る。カウンターでは男性が手続き中で、その後ろへ並んだ。視線が前にあるものだから、自然と男性の図書館の利用カードが目に留まる。

 色葉は目を剥いた。


「あのっ」


 不可抗力であろうと勝手にカードを覗き見してしまったとか、初対面の男性に突然声をかけるなど失礼なことだと、考える前に行動していた。見知らぬ、いや勝手に知っている人をついに見つけた。


 何という偶然、予想の斜め上を遥かに超える衝撃を全身で浴びる。カードでは名前しか窺い知ることは出来ない。それで十分だった。そもそも、色葉が知っているのは名前だけなのだから。


「山口コトさん!」


 腕を掴まれ困惑した人が振り返る。その顔を確認して、さらに仰天した。


 まさか、そんなはずはない。図書館に寄付した本の持ち主、コトはてっきり名前から察するに年配の女性だと思っていた。

 色葉の目の前にいるのは、若い男性。女性ですらない。通常なら、後ろ姿でおかしいことに気が付くはずなのに。しかも記憶が確かならば、午前中にバイト先のレストランで見た、あの窓際の席に座る男性だったのだ。


 名前を呼びかけられ零れ落ちる程見開かれた瞳のまま、色葉に向けて薄めの口もとを緩める。色葉の緊張は躊躇なく最高点を軽々超えた。


「……いいえ、違います」


「そんな……」


 否定されるとは露程も思わなかった。色葉が知る裏表紙の人と別人だったとしても、カードに書かれている名前は確かに「山口コト」だったのだから。何故、拒絶されたのか、自分がおかしな行動を取って怯えさせてしまったのか。


 聞きたいことは山程あったが、もうこちらが話しかけていい理由は無い。未だに腕を握っていることに顔を青ざめさせ、慌てて離しながら謝罪した。


「す、すみません! お名前が偶然見えてしまって、でもコトさんじゃなかったんですね」


 女が知らない男へ後ろから急に腕を掴んで名前を呼ぶなど、一歩間違えれば、よくてナンパ、悪くて不審者まがいなことをしてしまった気がして、バツが悪く顔色は青どころか白に近い色にまで落ち込んだ。


 恥ずかしさに逃げ出したくなりながら、手の中にまだ借りていない本を思い出して足が動かない。カウンターに座る司書が困り顔で二人を見つめていたが、やがて男性が色葉の左腕にぽんと手を置いた。


「違うんです。いえ、私が山口コトではないことはそうなんですけど、コトさんの代理で来ていますので」


 灯りが差した。崖から突き落とされた相手にロープを投げられた心境だ。色葉は驚きのあまり頭を空っぽにさせたまま、コトの代理だという男性に手を引かれて図書館を後にした。


 次に気が付いた時には、男性と対面に座りコーヒーをすすっていた。本は無事借りられていたが、その記憶すら無い。一体どう歩いてきたのか、分かるのは自転車を図書館に置いてきてしまったことだけだった。閉館前に取りに戻らねば、門が施錠されて自転車が檻に閉じ込められてしまう。不安気な色葉を見て、男性が柔らかに笑った。


「さて、私は確かにコトさんの知り合いなんだけれど、どうして知っていたのか教えてくれる?」


 暗に警戒されていることを悟り、今更ながら姿勢を正して一度頭を下げた。


「先ほどは失礼しました。嬉しくてつい……あ、私は神田色葉と言います。実は、コトさんのことは名前しか存じ上げていませんで、図書館で名前が書かれているのを拝見しただけなんです」

「名前を? 何でまた」

「私が借りようとする本の裏表紙に、たまに名前が書かれていることに気が付いたんです。きっと、図書館に寄付された持ち主のお名前だと、本の好みが似ているならお会いしてみたいと思っていたんです」

「その名前がコトさんだったってことか」


 納得がいった男性が頷く。思い当たることがあったらしい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る