第五章(11) 絶望の底の光
破れ目のような空。血色の満月が浮かんでいる。その光は、あたかも深海を照らすかのように、深い亀裂の底をぼんやりと照らしていた。
目を覚ましたメサニフティーヴが感じたのは、ひどい冷えだった。凍ってしまいそうなほどに寒い。重い身体を動かせば痛みが身体を蝕み、それでも自らの血でできた赤い水溜りの中、起き上がる。
「フェガリ、ヤ……」
ちぎれかかった翼を引きずり、深淵を歩く。もう片方の翼も、落下の時に骨が折れたらしく、畳むことはできなかった。
数歩歩いて、潰れるように倒れる。それを繰り返しながらも、妹の姿を探した。息をするのも難しい。だが黒い竜は、妹を探し続ける。
守らなくてはいけなかったから。どこかで困っていたのなら、助けなくてはいけないから。
そして、闇の中に銀色の輝きが見えた。
――赤く広がった絹の上に。
「そんな……!」
フェガリヤ、と黒い竜は名前を呼ぶ。だが返事はなく、彼女は動かない――息をしていない。
フェガリヤは死んでいた。
深淵の底に、黒い竜の嗚咽が響いた。もう名前も、言葉も発せなくなったメサニフティーヴはその場に崩れてしまった。身体を震わせるものの、深い緑色の瞳は、妹の亡骸に向けられたまま。揺らぎ、波打ち、零れる。
守れなかった。守れなかったのだ。
あんなに愛した妹を。守ると決めたのに。
慟哭が深淵を震わせた。溢れ出た涙が血と混じる。
自分の無力さを恨んだ。今は亡き妹に、ひたすら謝った。
孵化しない卵だった。やっと生まれてきてくれた。
竜ではなく人間の姿だった。けれどもうなじに、自分や母と同じ鱗があった。
間違いなく妹だった。だからこの荒れ狂った時代の中、共に生きたいと思ったのだ。
それなのに。
気付けばメサニフティーヴは、嗚咽と共に血を吐き出していた。その血を見て、少しだけ冷静になる。
「……フェガリヤ、大丈夫だ。私も、すぐに行く」
そして黒い竜は優しく微笑んだ。
もう飛ぶことはできない。身体の冷えが、死が間近にあることを告げている。
目を閉じる。
竜は死んだら、その魂は月に還ると言われていた。
……いま、理由はわからないものの、月は赤く染まっているが。
無事に還ることができるだろうか。そして人間の姿である妹も、そこにいるのだろうか。
不安が渦巻く。だからといって、もうどうにもできない。目ももう開けられなかった。
身体がより冷えていくのを、死していくことだけを、感じる――。
――けれども。
瞼の向こう。光があるように思えた。
優しい光が、自分を照らしているように思えた。
導かれるように、メサニフティーヴは目を開けた。
――それは、どこか懐かしくも感じられる輝きだった。
眩しくはない、しかし強烈な、優しい光。
その中心に、人の影。
「――兄様、死なないで」
死んだはずの妹が、起き上がっていた。起き上がって、微笑んでいた。
「大丈夫です。私は、死んでいませんよ。私は……まだ死ぬわけにはいかないことを、思い出しましたから。使命があることを、思い出しましたから」
宙を歩くように、光を纏ったフェガリヤは兄へと歩く。より、その光がメサニフティーヴを包んだ。
「フェガリヤ……!」
瞬きをすれば、涙が零れた。妹が両手を伸ばし、その涙を拭う。そのまま、銀の少女は兄の頭に抱きついた。
黒い竜は、妹の体温を感じていた。息遣い、鼓動も感じる。そして彼女が放つ、力強くも優しい光も。
――月の光。
痛みが失せていく。身体が軽くなっていく。そして温まっていく。気力を取り戻していく。
銀色の光。竜に必要なもの。メサニフティーヴの全てが、強いその光によって癒されていく。
やがて、光が消え失せる。元通りになった翼を、黒い竜は力強く広げた。もう身体には傷一つなく、鱗も艶やかに輝いていた。
しかしフェガリヤは、兄に抱きついたまま。
「……兄様、聞いてください」
深淵の底、彼女は囁く。
「赤い月を見て、思い出しました。自分が何のためにここに来たのか」
ふわりと離れて、彼女は兄を見上げる。兄も妹を見下ろし、慈愛の瞳を向けた。
あの子が何故生まれたのかはわからないが……間違いなく、何か意味があるんだと思うよ。
かつて友が言った言葉を思い出す。
「教えておくれ、フェガリヤ。何のために来たのか。一体お前が何者であるのか」
それを自分は、受け止めなくてはいけないと思った。
受け止めて――助けにならなくてはいけない。
自分は彼女の、兄なのだから。
銀の少女の唇が震える。どこか、
「――私は月の涙。月の女神の分身。月が赤くなるのを予期して、落とされた存在」
暗闇に浮かぶ銀色は、間違いなく月のもの。
「竜達を救うために、地上に生まれました。全ての竜を月に還すために、やってきました」
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