第五章(09) 襲われた里

 この日、多くの竜が人間達に連れ去られた。殺された者もいたかもしれないが、遺体の一つも見つからなかった。


 見回りをしていた竜達がやられ、ハイムギアまでもが捕まった。幸い、それ以上谷の奥に竜狩りは侵入してこなかったものの、失ったものは多く、竜達は悲しみにくれた。


 そしてフェガリヤも。

 銀の月が浮かぶ夜。同じ色の瞳と髪を持った少女は、その清らかな光が照らす高台にいた。メサニフティーヴはその隣に寄り添ったが、妹は何も言わず、ただ月を見上げたままだった。


 あれから数日。妹は感情を失ったかのように月を見上げていることが多くなった。


「フェガリヤ、少し、眠った方がいいぞ」


 そしてほとんど眠れていない様子だった。だから兄は声をかけたが、フェガリヤは返事をせず、まるで聞こえていないかのようだった。

 それが、黒い竜にとっては少し恐ろしく、不安だった。

 育て親を失い、友も失った。それは泣くこともできなくなるほど、彼女を大きく傷つけた。


 と、ようやく彼女がこちらを向く。


「兄様……怪我は、まだよくならないのですね」


 あの日に負った傷。本来ならば、月の光を浴びれば数日で治るものだった。

 それが、何日も浴びているにもかかわらず、メサニフティーヴの傷はそこにあり続けていた。鱗の艶すらも戻っていない。まるで月の光が、ただの光になってしまったかのようだった。


 これは黒い竜にだけ起きている現象ではない。メサニフティーヴと同じく、あの日負傷した他の竜も、月の光での治癒ができなくなっていた。


 数か月前よりも。数週間前よりも。昨日よりも。月の光は明らかに力を失っていた。

 傷は熱をもって痛み続ける。このままでは危ないかもしれないと、長老に言われた。


「兄様、私は、怖いです」


 フェガリヤは再び月を見上げる。風が吹いて銀髪を揺らした。


「これからとても恐ろしいことが起こるような気がして、私は怖いのです」

「……心配はいらない、何があっても、お前だけは守るから」


 くすぐるような風に傷が痛んだが、メサニフティーヴはフェガリヤを中心に丸く横たわった。


 けれども妹は震えたまま。口を固く結んで、睨むように月を見つめていた。その表情はどこか、決意を躊躇っているかのような、道を見失い恐怖しているような顔にも思えた。


 だからより、メサニフティーヴは思う。

 何があっても彼女を守らなくては、と。

 彼女のためなら、何だってしよう、と。

 全てを捧げる覚悟はできていた。

 彼女は、大切な妹なのだから。


 そして、それからまた数日後。多くの竜が連れ去られて、まだ日が浅いと言うべき頃。

 目に見えて、月の光が弱々しい夜だった。どこも欠けていないにもかかわらず、まるで天に開いた白い穴というように、月はそこにあった。


 低い音が響いてくる。それは徐々に数を増していき、高台にいたメサニフティーヴは目を覚ました。他の竜達も起きる中、共に眠っていたフェガリヤを起こす。


 竜の一体が皆に指示を出している。


「『戦竜機』だ……ついにここまで来たんだ。皆、覚悟はできているか?」


 先日の襲撃により動ける竜は減っていた。夜の見回りも数が足らず、突破される可能性が考えられていた。だから竜達は、その時のことを考えていた。


 その時には、生きるために谷を捨てる。その時には、守るために命を惜しまない。


 老いた竜や子供、そして戦いに不向きな竜が、谷からの脱出を目指し列を作る。泣いている子供がいたものの、歩き出す。卵を岩場に隠した親と卵守も、涙を飲んでその場を離れた。


 そして戦うことのできる竜は空へと飛び立つ。先日の戦いで負傷したものの、それでも仲間を守るため逃がすため、飛び立つ者もいる――メサニフティーヴも、その一体だった。


「フェガリヤ、お前は皆と一緒に逃げるのだ」


 すぐそこまで『戦竜機』の駆動音が響いている。戦いが始まっていた。『戦竜機』の悲鳴も、竜の悲鳴も聞こえる。血の臭いが夜の闇を染める。


「兄様……」


 銀の少女は首を横に振ってなかなか兄から離れようとしなかった。


「……一緒に逃げましょう、兄様! 私は……兄様が傷つくのは嫌です!」


 もう誰かがいなくなるのは嫌です。

 小さな声は、兄に確かに届いていた。


「……私も、もう誰かがいなくなるのは嫌なのだ」


 だからメサニフティーヴは微笑む。


「だからこそ、私は戦いに行かなくてはいけないのだ……どうか、わかっておくれフェガリヤ。私の大切な妹よ」


 それでも妹はなかなか兄から離れなかった。

 だが彼女は幼子のような年頃ではなかった。やがてフェガリヤは目を固く瞑れば、二度と振り向かないと決意したように勢いよく走り出す。別れの言葉もないのは、そうならないために、彼女自身でそれを選んだからだろう。


 メサニフティーヴの頭上で、歪な咆哮が空気を震わせた。遠のいていく愛しい背を、惜しみながら眺めることも許されない。そして傷がいくら痛もうとも。


 跳ねるように地面から離れると、黒い竜は勢いのまま『戦竜機』に襲いかかった。背に乗っていた人間が悲鳴を上げるが、落ちまいと抵抗し、片手で『竜血鉄』の槍を構える。『戦竜機』も刃物のような牙をむいた。


 槍の切っ先が冷たく光る。けれどもメサニフティーヴは長い尾をぶんと振って、それを叩き落とした。またその衝撃に、人間が『戦竜機』の背から落ちていく。だが『戦竜機』は敵に噛みつこうと宙を食み、鱗を切り裂こうと爪を振り下ろす。まだ完全に塞がっていない傷から血が溢れ出てくるが、メサニフティーヴは身をよじってすべての攻撃を避け、反撃に出る。『戦竜機』の首に噛みつく。


 普段ならそのまま、骨を砕いて投げ捨てることができた。ところが負傷しているいま、なかなか仕留められず、絡まるようにして敵と共に地上に落ちてしまった。地面に叩きつけられた『戦竜機』は起き上がろうと必死にもがく。メサニフティーヴは覆い被さって押さえるが――相手の力に負けてしまった。逆に転がされる。


 次の瞬間、首に鋭く焼けるような痛みが走った。圧迫される。悲鳴が押し出される。


 フェガリヤの悲鳴が聞こえた。離れた場所で、銀色が揺らめくのを、深い緑色の瞳は捉えた。


 『戦竜機』に喉を噛まれた。だがすぐに敵の姿は白い輝きに呑まれ、メサニフティーヴから離れる。その慌てている隙に、空から息吹を吐いた仲間の竜が『戦竜機』に突っ込む。


「メサ! 大丈夫か!」


 『戦竜機』が動かなくなったのを確認して、その竜はメサニフティーヴに駆け寄ってくる。

 黒い竜は何とか起き上がれば、掠れた声で「大丈夫だ」と返したが。


「……いやだめだ。メサ、お前は……お前は長老様や子供達と一緒に逃げろ」

「……何?」


 それは一種の、残酷な言葉でもあった。しかし彼は繰り返す。


「お前はもう、これ以上戦えない。危なさ過ぎる。だから逃げろ……我々は、命がけで仲間を逃がさなくてはいけない。しかし命がけと言っても、少しは生き残る確率がある。出来る限り、生き残らなくてはいけない。けれどもお前は……もう、無理だ」

「ふざけるな……私は、まだ……」


 それでもメサニフティーヴは起き上がり、羽ばたこうと翼を広げた。だがいくつもの傷から血が溢れ出し、がくりと体勢を崩してしまう。


「兄様! 兄様……っ!」


 そして先に行かせたはずのフェガリヤが戻って来てしまっていた。服が汚れるのも厭わず、彼女は兄に寄り添う。


「フェガリヤも来てしまったし……いいか、お前は妹を連れて逃げるんだ。妹を守るんだ。そして逃げた皆と合流したら、今度は皆を守りながら逃げるんだ」


 見下ろせば、見ているこちらが苦しくなるほど、妹は銀の瞳を潤ませていた。


 もうメサニフティーヴは言葉なく頷くしかなかった。それを見て、仲間の竜は安心したように、けれどもどこか寂しそうに羽ばたき地上を離れる。


 最後の会話になる覚悟をして、黒い竜は仲間を見上げていた。だが。


 ――見えない何かが、彼をなぶった。竜は岸壁に叩きつけられ、地面に落ちる。急いで体勢を立て直そうとしたところで、突然身体に深く長い切り傷が刻まれる。


 何かがいる。目を見張り、メサニフティーヴはフェガリヤの前に出る。何者かに襲われた竜は『戦竜機』に乗った人間に網をかけられると、槍数本に穿たれる。と、人間が何か指示を出している。自身が乗った『戦竜機』ではなく、宙に。


 胸を締めつけるような不安が、身体を蝕む痛みと共に、黒い竜の息を乱す。


 見えない敵。透明な敵。

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