第四章(04) 追いつめられて

 他に竜の姿のない一室。そこに逃げ込んだ兄妹はやっと足を止めた。


 フェガリヤは兄の前に跪くと月の光を放ち、黒い竜の傷を癒していく。

 だがその光は不安定で、時折、かげろうのように揺らいでは消えかかる。


「フェガリヤよ、無理をするな」

「けれども兄様をこのままにしておけません」


 歌い続けた疲労に、逃避による疲労が重なった。特に竜のために子守唄を歌い導くのは、精神力も使う。不安定な光を見なくとも、明らかにフェガリヤは疲れ切っていた。華奢な身体はより弱々しく、色白だった顔は青ざめている。唇の血色も悪く、指先は震えていた。


 しかし妹が頑固であるのを知っているため、兄はそれ以上口を開かなかった。その代わりに見たのは、自身の傷。槍が深々と刺さってしまった箇所。いま、全ての槍は抜いた。フェガリヤの光で塞がってきてはいるものの、溢れ出た血の跡が鱗に残っている――血は床にも垂れていた。ひどく出血していたのだ、来た廊下を見れば、ぽたぽたと鮮やかな赤の道ができている。


 メサニフティーヴはその道に、不安を覚えていた。

 嫌な予感は的中する。足音が響いてきた。


「――いたぞ!」


 廊下の奥、人間達が姿を現す。やはり血の跡を追って来てしまったのだ。


「逃げるぞ。またどうにか、撒くことはできるはずだ」


 兄様、とフェガリヤが弱々しい声で呼んだのに対し、メサニフティーヴは優しく返す。だがある程度癒されたとはいえ、黒い竜には多くの傷が残っている。


「私は大丈夫だ。さあ、行くぞ」


 不安そうにしている妹を、軽く鼻先でつついた。銀の少女は頷き、急いで兄の背に乗る。


 ところが、メサニフティーヴが走り出す前に、後方で悲鳴が響いた。人間達の慌てふためいた声。身体が切り裂かれる音、また潰れる音。焼けるような、溶けるような音。


「『戦竜機』と『屍竜』です!」


 フェガリヤが叫んだ。追って来ていた人間達は、突然廊下に流れ込んできた竜達に襲われていた。すでに赤い血が広がっている。人間の体の一部が転がっている。しかし生き残っている者は槍を構え、また別の者は網を投げる。見たこともないものを持ち出す者もいて、確かに彼らは竜と戦うことに慣れているようだった。わずかに『屍竜』の腐った肉が飛び散ったが、彼らの服は質のいい竜素材でできているらしく、溶けることはない。


 ちょうどいい、今のうちに、とメサニフティーヴが言おうとしたその時。


 『戦竜機』が人間一人に噛みついた。また別のものが、尾で『竜血鉄』の槍を弾き、刃の角で一人の身体を切り裂いた。

 槍を受けるものの『屍竜』の一体が人間一人を圧し潰す。そのすぐ隣では、別の『屍竜』が吐瀉物のような息吹を吐き、一人を腐らせ溶かしてしまった。


 兄妹のすぐ近くまで迫ってきていた者も、跳ねるように飛んできた『戦竜機』の牙の餌食となる。手にしていた槍が大きな音を立て転がる。


 慈悲もない、凄惨な光景。そして生きてはいない竜達は、兄妹へと視線を向ける。


 メサニフティーヴはすぐに走り出した。竜達は声を上げながら追ってくる。意思と心をなくした殺戮兵器と、歩く「死」そのもの。両者は追いかける中もつれると、互いに攻撃し始める。彼らに仲間意識はない。ただ目の前に獲物、動くものを見て行動するだけ。


 逃走する中、追手はもつれたことによっていくらか減った。しかしまだ追いかけてくるものもいる上に、騒ぎに集まってくるものもいる。


「フェガリヤよ! すまない……ここは一度、外に逃げた方がいいかもしれない!」

「ええ、兄様! とにかく、逃げましょう……!」


 薄暗い中、銀の少女を背に乗せた黒い竜は、一室に飛び込んだ。ところがそこは。


「……道がない!」


 メサニフティーヴは急に止まり、辺りを見回す。突然止まったものだから、落ちそうになったフェガリヤも目を見開く。


 そこは行き止まりの、大部屋だった。入ってきたもの以外に、出入り口はない。窓もない。

 荒れ果てているというには、ものの少ない寂れた部屋。黒くこびりついた血の跡が広がっていて、また腐った何かの欠片が落ちている。よく見れば人間の骨、竜の骨が転がっていて、折れた『竜血鉄』の槍らしきものもある――かつてここで、戦いが繰り広げられたのだろう。

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