2-4 公女の誘い

 体育館での出来事の数日後だった。

 非番の翔馬はベールヘーナつきの侍女から馬場に呼び出された。

 馬場には公女が乗馬服姿で馬を用意して待っていた。

「しばらくつきあいなさい。乗る前の馬具の点検を忘れずにね」

 ベールヘーナは言って、手綱を手渡した。

「どうしたの。わたくしの顔になにかついていて」

「……いえ、失礼しました」

 翔馬はそっと眼をそらせた。

 ふたりは一時間ほど一緒に馬を責めた。

 やがてベールヘーナがいった。

「思ったとおり、かなりの腕前だわ。でもわたくしたちの馬術とはだいぶ違うわね」

 たしかに幼い頃から正式の訓練をうけているベールヘーナの華麗な馬術にくらべると、翔馬のはいかにも野暮ったい。

「おれのはただの見よう見まねです。でも毎日何時間もただひたすら歩きつづけていると、自然とみんなこうなります」

 翔馬は淡々と言いながらも、内心では驚きを覚えていた。

 公女たちのようにまっすぐ背筋を伸ばす乗り方は、見た目はきれいだが人も馬も疲れやすく、隊商の旅には向かない。だがその違いを単なる上手じょうず下手へたで片づけなかったあたりといい、翔馬の立場を察してあえて馬具の点検を命じた心づかいといい、この方はきれいなだけのお姫さまではない。

 この日から翔馬は、非番の日はベールヘーナの馬術の稽古に加わり、一緒に馬を走らせるようになった。

 馬上では言葉を交わす際にいちいち頭を下げる必要もない。

 お互い、とくになにを喋るわけでもないが、いつしか翔馬の生活はこの時間を中心にまわりだしていた。


 やがて翔馬は園丁たちの口から、ベールヘーナの侯爵家における複雑な立場を知った。

 ベールヘーナの母はオースタ・サベーリアといい、新興の硝子製造業者の娘だったが、宮廷の舞踏会でスタルノに見初められて運命が狂った。

 すでに婚約者のいるオースタは侯爵の求愛を拒んだが、スタルノは娘を城から帰さず、強引に思いをとげてしまった。かつて英主と呼ばれた男も中年をすぎてから人が変わっていた。

 やがてベールヘーナが生まれると、いっかな心を開こうとせぬオースタに嫌気のさしていたスタルノは、やっと帰宅を許した。

 以来オースタはビスビューを離れ、侯爵はもとより娘とも一切の接触を絶っている。

 宮廷で生活する貴族の子女はそれぞれ実家から多額の仕送りを受けている。貴族は〝貴族らしい〟生活をしなくてはならない。その子女も同様だ。倹約は庶民の美徳である。

 公女たちもまた、化粧料や交際費の大半は母方の実家からの仕送りに頼っている。ベールヘーナにはそれがない。

 いきおい宮廷内のつきあいを避け、友人もごく限られているという。事実、心を許せる同年輩の少女は異母妹のマルヴィーナ公女だけらしい。

「サベーリア家もサベーリア家だな。貴族ならベールヘーナさまのお立場くらいわかっているはずじゃないか」

 翔馬は内心義憤を感じていった。いくら侯爵が憎いからといって、実の娘に肩身の狭い思いをさせることはないだろう。

「サベーリア家は貴族じゃねえよ。おめえは貴族が何か知らねえな」

 園丁は説明した。宮城に勤めているだけあって、さすがに詳しい。

 爵位を持つ国主とその配下の世襲貴族は、経済によって結びついた運命共同体だ。

 ハンメルダール侯国の場合でいえば、ビスビュー家が経営する地熱発電所と製陶会社を背骨として、貴族の経営する工場や大農場がハンメルダール経済圏の骨格を成している。ただし雇われ経営者は貴族にはなれず、また商人や金融業者のように生産手段を持たぬ者も貴族とは認められない。

「サベーリア家だって硝子の製造会社を持っているんだろう。なぜ貴族じゃないんだ」

「貴族の資格はそれだけじゃねえんだ」

 貴族は税を払う必要がない。その代わりに、学校、病院、あるいは孤児院や養老院といった施設を建てて運営し、公共事業なども自費で行なわなくてはならない。一朝事あれば兵士や軍費を国に提供する義務もある。これらの事業に金を惜しめば、所有の企業や農場が課税の対象になる。つまり貴族の特権を剥奪されるのだ。サベーリア家は会社をおこして間がなく、まだそうした公共事業の実績が充分ではない。

「もっとも、あんなことがあったんじゃあ、ハンメルダールの貴族になんて、なりたくもねえだろうがな」

 実際、今ではサベーリア家の事業の半分は他国に移っているという。ベールヘーナは見捨てられたようなものだ。

 翔馬は溜息をついた。お姫さまといっても、足元は案外心細いものらしい。


 その日もふたりは、ビスビューターネのほとりを馬を並べて進ませていた。連峰の山肌はまだ白く覆われているが、風はすでに春の香りを運んでいる。

 唐突にベールヘーナがたずねた。

「ショーマはいくつ言葉が話せるのかしら」

「標準語は全部です。地方語は――いくつかな。標準語を知っていればおぼえるのは簡単ですから」

「そんなに。どこで教わったのですか」

 標準語の中には天山回廊でほとんど使われていない言語もあり、隊商では学べないはずだ。

「基礎は両親や村の人たちに習いました。あとは独習です。おれの村はかなり変わっていまして――」

「〈旧世界〉の人々の開拓村なのでしょう」

「――ご存じでしたか」

「初めて逢った時からそうではないかと思っていました。あなたには、なんというか、一種の風格といったものがあるわ」

 〈塵の冬〉が終わってから開拓されたハンメルダール侯国とちがい、〈旧世界〉の助力で〈冬〉を生きのびた天山連邦には、今も官界や産業界に〈旧世界〉の人材が多く派遣されている。彼らのなかには本国にもどらず、そのままこちらで開拓者として第二の人生を歩む者も多い。

 そんな〈旧世界〉出身の開拓者たちは高度な教育を受けており、食いつめて移住してきた連中とちがって物心ともに余裕のあるのがふつうだ。いきおいその開拓村からは、知的な職業につく者が多くでる。ベールヘーナも翔馬にそうした独特の雰囲気を感じとったのだろう。

 事実、翔馬にいくら語学の才があるにせよ、〈旧世界〉人の開拓村に生まれていなければ、この齢でこれだけの言語を身につける機会はなかったはずだ。

「園丁たちの間でもあなたは一目置かれているそうですね。人事の報告では、近いうちにあなたを本採用にするそうです」

「それでこの前、くわしい身体検査を受けさせられたんですね」

 だが翔馬には、園丁仲間や人事の評価よりベールヘーナの言葉の方がうれしかった。この温かく包まれる気分――なぜかとても懐かしい。

 そうだ、思い出した。昔、晴れ着を汚して途方にくれていたのを、葉月姉さんがこっそり洗ってくれたことがあった。あの時の姉さんも今のベールヘーナさまと同じくらいの齢だった。

 翔馬は突然、もっと自分のことをこの人に知ってもらいたいという強い思いに駆られた。もし裏切られたら――それまでのことじゃないか。

「四年前の秋、おれの村は馬賊に襲われました」

 翔馬はこれまでの経緯いきさつを語った。

 折れた左腕を抱えたまま山麓の樹海の中で力尽きてうずくまっていた翔馬をたすけたのは、猟師の一行だった。彼らは手当をしてくれ、わずかな食料を置いて、また深い森の奥へ消えていった。

 置き去りにするなんてずいぶんと冷たい仕打ちだとその時は恨んだが、それが獲物を追っているときの猟師のしきたりだと後で知った。怪我人を運んでいては獲物を逃がす。そうなれば彼らの家族が飢えるのだ。怪我人の命は本人の運と体力にゆだねるしかない。

 実際、彼らにもらった携行食を食べ、彼らの教えてくれた川をたどって、なんとか人里までおりられたのだ。

「あなたは誰にも身の上話をしないと聞いていましたが」

「いつかおれが戻るまで両親たちをそっとしておきたかったからです。でも姫さまなら――」

 ベールヘーナはほほえんだ。

「信じてくれてうれしいわ。あなたの村のことは、わたくしだけの胸におさめておきます」

 ふたりは黙って馬を進ませた。

 やがて公女があらたまった口調で言った。

「ショーマ、わたくしに仕えませんか」

「えっ」

「わたくしの直参じきさんになれば、誰もあなたに手をだせなくなります。それにわたくしも、あなたがそばにいてくれれば心強い」

 翔馬はおもわず公女の顔をみた。真剣な眼だ。

 胸が高鳴り、体が熱くなった。直参になれば、ずっとこの方の身近にいられる。いつも顔が見られ、声を聞けるのだ。

 ふと、焼け跡で冷たい雨に打たれている両親の無惨な姿がよみがえった。気絶して馬賊に抱え上げられようとする葉月姉さん。焼け崩れた村の家々……。

 つかのまの夢がさめた。翔馬はまっすぐ公女を見て言った。

「ありがとうございます。けれどおれは、さらわれた姉をみつけなくちゃなりません。隊商に入ったのも、姉の手掛りをみつける早道だと考えたからです」

 それに村が襲われた理由も知りたい。岩間村は、行きずりの馬賊が襲撃できるような場所ではないのだ。

「なのに居心地がよくて長居をしてしまいました。本当なら、とうに城を出ていなくてはいけなかったのです」

 そういったとたん、翔馬はどうしようもなく胸が切なく苦しくなった。

 ベールヘーナはそっと眼を伏せた。が、ふたたび顔をあげたときには、いつもの笑みをうかべていた。

「あなたの志はわかりました。きっと男の子はそうあるべきなのでしょう。ひとつわたくしと約束してくれますか」

「どんなことでしょう」

「あなたが旅に出る時がきたら、必ずわたくしに知らせること」

「約束します」

 翔馬は、さしだされたベールヘーナの手を握った。

 ベールヘーナの目が一瞬丸くなり、すぐに細くなった。

 高貴な女性のさしだした指先に接吻する習慣を翔馬は知らなかったのだ。

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