第3話 バレンタインデー大作戦♡ その3

 旅行二日目。


 今日は目的地、例の吊り橋に向かう。ホテルにレンタサイクルがあるのは、彼女によってリサーチ済みである。宿泊客なら格安で借りられる。吊り橋のある公園はホテルから自転車で1時間ぐらい。道順も彼女任せ。道路標識は漢字なので僕にも少し読めるが、彼女に任せた方が確実ンゴ。

 華西世界探険公園。ここが目的地である。観光スポットではあるが、平日の昼間という事もあって人の姿はまばらだった。山の上の方にあるので軽く登山。軽く? いや、僕の肥満した、運動不足の肉体にはきつすぎる。1時間のサイクリングだけで足がパンパンだった。それでも彼女に弱みは見せたくなくて必死に登った。汗だくの僕を見て彼女は笑い、用意していたタオルで何度も顔を拭ってくれた。僕が山登りで汗だくになるのは、彼女にはお見通しである。強がってもあまり意味はなかったンゴ。


 ヒイヒイ言いながら、やっと山頂へ到着。ベンチに腰を掛けて一休みする。やはり観光客はほとんどいない。何メートルあるのだろう? 高さ全長とも4~500メートルぐらいか? 眼下を見下ろすガラス張りの床。想像以上の怖さ。もし落ちれば命はない。恐怖で足が震える。僕が休んでいる間、彼女は橋の端っこの辺りを踏んだり乗ったりして遊んでいたンゴ。

「ねえ、楽しそうだよ。行こ」

 汗だくの僕の手を引っ張って、吊り橋の方へ行こうとする。僕は足の震えに気付かれないよう、精一杯強がってみたが、吊り橋の手前からどうしても一歩を踏み出せなかった。心臓が口から飛び出しそうンゴ。

「も~、そんなに疲れた?」

「ンゴ。もうちょっと休んでからにしないンゴ?」

「え~」

「今、人少ないけど、お昼になったらもっと減ると思うンゴ。先に何か食べてさ」

「怖いんでしょ?」

「えっ。いや、えっと」

「隠さなくていいのに。じゃあ、飲み物買って来るね」


 走り行く彼女の後姿を眺めながら、僕はベンチに戻って荒い息を整える。まさかこんなに怖いとは思わなかった。食欲が全く湧かないンゴ。

「お待たせ! こっちは私の作ったサンドイッチだよ」

 一個でもかなりのボリュームがある。何が挟まっているのかよく分からないが、分厚いサンドイッチの断面が並んだ箱を僕の方に差し出した。有難うと一言断ってから、適当に一つ取ってラップを剥き、口に運ぶ。極度の疲労と恐怖からか、味がしない。何かの歯ごたえだけは感じる。彼女が買ってきてくれた飲み物を口に含んで、胃に流し込むンゴ。

「美味しい?」

 どこか遠くから聞こえてくるような彼女の声に、僕は黙って頷いたンゴ。

「もう一つ、食べる?」

 サンドイッチを適当に掴んで飲み物で流す。噛んで飲み込む。噛んで飲む。なんだろう、頭がぼーっとして、考えが纏まらない。もしかしたら高所にいるせいで、酸欠になっているのかも知れないンゴ。

「大丈夫?」

 彼女の問いかけに、ただ頷いたンゴ。

「ねえ、私、渡したいものがあるんだけど」

 そう言って、彼女はバッグから何かの箱を取り出したンゴ。

「少し早いけど、これ。チョコレート」

「チョコ……レート……」

「そうだよ。もうじきバレンタインだよね」

「ああ……」

 そう言えばバレンタインだ。なぜだろう、考えが纏まらない。何か忘れている気がするンゴ。

「ねえ、大丈夫?」

「平気、ンゴ」

「本当に?」

「ンゴ、全然。だいじょうぶ」

「はい、チョコ!」

 少し怒ったような声がする。彼女が差し出した細長い箱のようなものを、僕は受け取った。はずだ。手の感覚もあまりない。覚束ない手つきで箱を開けようとすると、彼女がそれをサッと奪い取るようにして、

「開けてあげる」

 ピンクっぽい何か。それを引っ張って……ひらひらする何かが僕の手に。リボンを渡されたンゴ?

「はい、あーんして」

 ぼーっとした頭で、彼女の言うまま口を開ける。口の中に何かが押し込まれた。少しざらざらした食感ゴ。

「手作りチョコだよ?」

「ンゴ」

「ねえ、本当に大丈夫なの?」

「ンゴ」

「……もう帰ろっか?」

 彼女の顔がぼやけて見える。目の前に彼女の顔があるンゴ。

「ね、美味しい?」

「……ンゴ」

 正直味がしない。口の中にザラッとしたものが残る。手作りチョコと言っただろうか? 何が入っているンゴ?


「ほらぁ! こぼしてるよ」

 彼女が僕の手を取って、ズボンの辺りに落ちたチョコの破片を触らせる。その時、僕の右手に硬いモノが触れたンゴ。

「そう……わ、渡さ、なきゃいけ、いけない、ものが……」

 僕はその硬いモノを、ポケットの中から取り出したンゴ。

「ん? なあに?」

「こ、これ、ンゴ」

 震える手。落としそうになった。小箱を持つ感覚がなくなったので、落としてしまったかと思ったが、彼女が上手くキャッチした様子ンゴ。

「何?」

「あ、開けて、みて」

 箱の中にあったのは、10万円のオパールリング。彼女の目が大きく見開かれ、大粒の涙が滲んだ。ように見えた。実際、僕の目には、彼女の顔の輪郭ぐらいしか映っていない。でも彼女が喜びの涙を流すのを、僕は感じていたンゴ。

「あ、これは、私に?」

「ンゴ……たん、たんじょ、う石を、え、えら……」

「ありがと」

 消え入りそうな声、だった気がする。彼女の返答は、僕の耳に届くか届かないかのか細いものだったンゴ。

「か、栞奈。こ、告白、す、する……が、ある」

「なに?」

「ぼぼ、ぼくと、僕と……け、結婚を、ぜ、ぜんて……」

 呂律が回らない。頭も回らない。目も見えない。耳も聞こえない。喋る事も困難。結婚の申し込み。婚約の指輪。彼女にきちんと伝えて渡せたンゴか?


「見て! 人がいなくなったよ!」

 唐突に聞こえた、明るい彼女の声。霞む目で吊り橋の方を見る。風に揺れる橋。反対側まで人っ子一人いないようだ。ぼやける視界。よく見えないが、彼女がそう言うのだから間違いない。風? 鉄筋の橋が揺れるわけない。揺れているのは僕の方ンゴ?

「今がチャンス! ね、渡ろ?」

「ちゃん、す?」

「足が震えてフラフラでしょ。私知ってるんだから」

「ンゴ」

「今なら誰にも見られないし、恥ずかしくないよ? ほら、今がチャンス!」

「ンゴ……」

「……やっぱり……やめて帰ろっか?」

「行くンゴ」

 彼女に支えられて立ち上がる。膝から下に力が入らない。立つのも困難ゴ。

「行くよ! せーの」


 彼女の声に合わせて、二人三脚のように吊り橋の方へ向かうンゴ。

「いち、に。いち、に」

 ぼーっとする頭と体。彼女の体温だけを感じるンゴ。

「ね! さっき告白してくれたでしょ? 実は私も。告白があるの」

 返事もできない。僕の体も頭も、全く動こうとしないンゴ。

「私の告白はね。あのチョコレートとサンドイッチ」

 何を言っているンゴ?

「実はあれ、私が徹夜で作ったの! おかげで寝不足!」

 知ってるンゴ。

「この日のために大学で研究してきたんだ。ずっと待ってた、このチャンスを」

 本当に彼女は何を言っているンゴ?

「人の体が動かなくなるおクスリ。睡眠薬とか、しびれ薬みたいなものね。少し動けなくなる程度なら、100均やドラッグストアで売っているものだけで作れるの」

 ?

「パンとチョコ。タオルにも沁み込ませてあったよ」

 !?


「お前さあ。キモいんだよ。ンゴンゴって老人かよ」

 もう語尾なんてンゴなんて言わないよ絶対。

「ど~でもいい話をペラペラ喋り出すしさあ。ヲタク丸出しでキモすぎ。高校も大学も無理して同じ所に来やがってストーカーかっつうの。いつもいつもエロい目で見てさあ。スリーサイズ聞かれた時マジ殺意芽生えた」

 あれ? おかしいな。涙が溢れてきた。

「前も寝たフリした私の髪の毛触って匂いかいでキスしやがったろ。耳元でンゴンゴ言いやがってマジ鳥肌。キモいからすぐ髪切ったし。告白? 婚約指輪? マジキモいマジ無理マジ死ねよ」

 全否定。悲しい……悲しいよ。

「お前は! 事故で! 落下した! って! ご両親にも! 伝えて! おいて! や! る! よっ!」

 ああ。僕の人生、何だったのかな。彼女のために生きて。でも彼女に殺されるなら……それもいいか。

「お、ち、ろォ!」

 最期に見た光景。濃紺の小箱を投げ捨てる彼女の姿。遠いのに。さっきまで霞んで見えなかったのに。彼女の鬼のような形相も。小さな宝石の輝きも。妙にくっきり見えた。


 吊り橋効果で気になるあの娘を落とそうバレンタインデー大作戦。

 まさか僕が吊り橋から落とされる羽目になるなんてね。

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