第2話 マリアンとロンおじいさま


 夜になって、扉がノックされる。

 返事をすると、乳母のマリアンが静かに入ってきた。

 パンの入った籠を持つマリアンの顔は悲しそう。どうしたのかしら。


「マリアン、いつも本当にありがとう。ところで、何か悲しいことがあったの?」


「フローラお嬢様……」


 マリアンの優しい茶色の瞳に、うっすらと涙が浮かんでいる。

 一体どうしたのかしら。心配だわ。


「ライラお嬢様が、屋敷中に言いふらしていました。フローラお嬢様が北のガーランド辺境伯領に嫁ぐと」


「ええ、そうなの。隣接した領地だからあまり長旅にならなくて済むわね」


「ですが、お相手の方は同性愛者で女性に冷たく、しかも一年で離縁されると……!」


 そんなことまで使用人に言いふらすなんて。貴族の事情なんて軽々しく口にすべきではないのに……困った子ね、ライラ。

 それを聞いたマリアンは私のために悲しんでくれているのね。

 心優しいマリアン。

 この小屋に追いやられた私のために、外出可能な週に一度の休暇の日にいつも柔らかいパンと日持ちするパンを買ってきてくれた。

 彼女がいなかったら、私はもっと飢えていたと思うわ。


「そんなに悲しそうな顔をしないで、マリアン。私は楽しみにしているのよ。新たな地では家族の目もないし、どんな環境でも食事さえあれば幸せに生きてけるわ。さすがに妻を飢えさせることはないと思うし、そうでないなら今みたいに狩りをして暮らしていけばいいもの」


「ですが。本来なら、お嬢様はこのような待遇を受けていい方ではありません。伯爵令嬢として、幸せに暮らして、幸せなご結婚を……」


 そこでマリアンは言葉を詰まらせ、涙を流した。


「ありがとう、マリアン。ずっと気にかけてくれて。こうして小屋を訪れて話し相手になってくれたこと、自分のお給料で私にいつもパンや調味料を買ってきてくれたこと、本当に本当に感謝しているの。あなたには仕送りをしている家族だっているのに、無理をさせてしまって」


「いいえ、いいえ。私はこの程度のことしか……奥様にあれほどお世話になっておきながら……」


「泣かないで、マリアン」


 マリアンの薄い肩にそっと手をのせる。

 小刻みに震える彼女の肩は、その心根のままにとても温かい。

 マリアンがパンを持ってきてくれるようになったとき、最初は屋敷の厨房から持ってきているのだと思った。

 私が屋敷を追い出された後、彼女は厨房で働くようになったから。

 でもそんなことをお父様やイレーネ夫人が許すはずがない。

 自分のお給料で買ってくるから、マリアンが私にパンを与えているのを見逃していたのだと思う。

 イレーネ夫人はともかくお父様は私が死ねばさすがに寝覚めが悪いでしょうし。

 

「いつか必ずあなたに恩返しをするわ。あなたとお別れすることだけが辛いけれど、私は自由に、幸せになるわ。だから笑顔で見送ってちょうだい」


「はい、お嬢様……」


 マリアンは肩を落として小屋から出て行った。

 マリアンと、今は亡き森の管理人のおじいさま。

 その二人がいなければ、私は今生きていなかったかもしれない。

 本当に感謝してもしきれないわ。

 

 お母様が亡くなる十三歳までは普通の伯爵令嬢として生活していたのだけど、それももう遠い昔のことのように感じる。

 お父様はお母様に冷たかったけれど、外出は多いながらも家に帰ってこないこともなかったし、私やお母様に暴力をふるうわけでも今のような生活をさせるわけでもなかった。

 すべてが変わったのは、お母様が亡くなってわずかひと月後、お父様の愛人であるイレーネ夫人と二人の娘であるライラが屋敷に来てから。

 お母様の遺してくださったドレスや宝石はすべて後妻となったイレーネ夫人とライラに奪われ、私は狭い部屋に移されて一人で食事をさせられるようになったのよね。

 それだけならまだ良かったのだけど。

 イレーネ夫人は、私にどんどんきつくあたるようになった。嫌味や暴言は日常茶飯事だったけれど、私が怒ったり泣いたりしないので癇に障るようだった。

 そのうち、イレーネ夫人は私に平手打ちをしようするようになった。

 そのすべてを私がかわしてしまうので、私に対する態度がより一層きついものになっていった。

 そして四年前。

 私はとうとう、敷地の外れ……森の入り口にある森の管理人の小屋へと追いやられてしまった。


 でも、私は幸運だったわ。

 だってそこには優しいロンおじいさまが住んでいたから。

 白いもじゃもじゃおひげの、森の管理人のロンおじいさま。血縁はないのだけれど、私は彼を敬愛をこめておじいさまと呼ぶようになった。おじいさまは伯爵令嬢なのにいけませんと仰っていたわね。

 おじいさまは私の境遇に同情してとても優しくしてくださった。

 ご令嬢なのにかわいそうにのう、と私の頭を撫でてくださったあの温もりは今も忘れられない。

 でも同情するだけでなく、自分は年寄りでいつ死ぬかわからないからと私に森とともに生きる術を教えてくださった。

 食べられる野草や木の実、動物を捕らえる罠の作り方、さばき方、そしてクロスボウの扱い。

 動物を殺すのもさばくのも、初めはおじいさまがしているのを見るだけで怖くて動物がかわいそうで泣いてしまった。

 そんな私に無理強いさせるわけでもなく、少しずつ慣れていきましょう、と優しく言ってくださった。

 クロスボウに関しては狙いを定められるようになると外さなかった。お嬢様は天才だのう、とまた頭を撫でてくれた。

 天才なわけではなくて、お母様から受け継いだこの目のおかげなのだけど、お母様との約束でそれは言えなかった。

 私のもう一つの能力、魔法については特に隠してはいなかったので生活を少し楽にするためによく使っていた。

 魔力を持った人間は少ないながらもいるし、私の弱い魔力なら隠すほどのものではないから。

 小さな火をおこしたり獲物をゆっくりと冷やしたりする程度の力だけれど、おじいさまはすごいすごいと褒めてくださった。

 ……なつかしいわ。


 おじいさまはずっと優しかった。

 私は森以外の敷地外に出ることをお父様に禁じられていたけれど、おじいさまは町に自由に出かけられたので、肉や毛皮、薬草を町で売っては食料を買ってきてくださった。たまに奮発して服や甘いものを買ってくださったときは本当にうれしくて。

 だから、私はこの森の小屋での暮らしが幸せだった。

 たまに来て差し入れをしてくれたり髪を切ったりしてくれるマリアンもいて、決して不幸なんかじゃなかった。

 けれど、二年前におじいさまが突然亡くなってしまった。

 本当に本当に悲しくて、一人の小屋は寂しくて。

 その頃が一番つらかったわ。

 けれどマリアンは以前にも増して来てくれるようになったし、嘆いていてもお腹が空くだけなので狩りに勤しんだ。

 たまにとれるシカやウサギの毛皮は珍しいものではないから高くは売れないけれど、マリアンが町で売ってきてくれ、わずかながらも現金になった。

 そのお金はマリアンが決して受け取ってくれなかったので、日持ちする食糧や調味料、身の回りの品の購入にあてた。


 そんなこんなで、二人に助けられつつしぶとく、案外楽しく生きてきたのだけれど。


 自分が嫁ぐ日がくるなんて、なんだか信じられないわ。

 この小屋で朽ち果てるか森で動物に襲われて死ぬかどちらかかなと思っていたし、嫁ぐとしてもお金と引き換えにお金持ちの家の妾か後妻として送り込まれるのではと思っていたから。

 若い男性、しかも辺境伯だなんて想像もしていなかったわ。一年限定かもしれないけれど。

 ガーランド辺境伯領はどんなところかしら。

 離縁されたら、許されるのならここには戻らずそのまま辺境伯領のはずれにでも住めたらいいのだけど。

 捕れる動物はきっとこの森とそう変わらないわよね。おいしい草もあるといいなあ。

 そして、辺境伯はどんな方なのかしら。 

 女性に冷たく男性が好きということだったけれど。

 愛情のない関係であっても、できれば友人のような関係にでもなれたら素敵ね。

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