エルネスト・タシトゥルヌ 二十一

 その晩はまた少年時代のように二人で身を寄せ合って一つのベッドで眠った。俺の腕の中でディディは安心しきったように無防備な寝顔を見せている。一晩中その顔を眺めていたかったのだが、俺も疲れていたのか彼の体温を感じながらいつの間にか熟睡してしまっていた。

 朝目覚めると、俺の胸に頭を預けたディディが花の綻ぶような笑顔を見せた。


「おはよう、エリィ。夕べはおかげですごくよく眠れたよ」


 確かに夕べに比べると顔色もずっと良くなっている。

 二人で軽く身体を動かしてから身を清め、朝食を摂りながら、パトリツァが起きたらすぐに書斎に呼ぶように使用人に伝える。手早く制服に着替えてからトリオの散歩を済ませ、書斎で本を読みながら待つ。

 登庁時間が迫る中、じりじりとしていると、時折なだめるようにそっと手を握られて頭が冷える。目が合うとふわりと微笑まれた。不思議なもので、やわらかな笑みを浮かべたオレンジの瞳を見ていると、怒りと苛立ちで波立っていた心が嘘のように凪いでいく。


 ようやくやってきたパトリツァはどこの夜会に行くのか?と訊きたくなるほどしっかりと着飾っていた。

 微妙に色合いの異なる淡いグリーンとブルーのシルクシフォンを幾重にも重ねた爽やかで上品なラウンドガウン。パトリツァに任せるとけばけばしい色合いと露出の多いデザインで下品になってしまうため、ディディに見繕ってもらって作ったドレスの一つだ。

 昨日の今日で話し合いの場に着てくる神経を疑うが、パトリツァに悪びれる様子はない。まさかとは思うが、そのドレスを見立てたのがディディだという事を忘れているのだろうか。


「随分と遅かったな。我々は朝の食事も鍛錬も済ませて身を清めた後だが」


「ちょっと、エリィ……最初から喧嘩腰はダメ。おはようございます、パトリツァ夫人。朝からお呼び立てして申し訳ありません」


 つい言葉が刺々しくなるのをディディが窘める。


「いったい何の茶番ですの?わたくしはその阿婆擦れに身の程を教えてやろうとしただけですわ」


「何を勘違いしているのかわかりませんが、貴女が他人様をアバズレ呼ばわりできるほど清廉だとは初めて知りました。まさか私が何も知らないとでも?」


「な……なんですって!?いくら旦那様でもそのような侮辱……っ」


 勘違いしたパトリツァの言葉に思わず吐き棄てると、逆上した彼女がヒステリックに喚きだした。なおも言い募ろうとすると、寄り添って座るディディがそっと宥めるように背をさすってくれる。熱くなった頭が急速に冷えてきた。


「エリィ、言い方。パトリツァ夫人、不快な思いをさせてしまったのは私の不徳の致すところで、申し訳ありませんでした。

 しかし、私はあくまでタシトゥルヌ侯爵の補佐官として、政務のお手伝いに伺っているだけです。業務を円滑に行うため私室までご用意いただいておりますが、この家の使用人ではございませんので、誤解のなきよう。

 エリィ、これでいいね?」


 困ったような笑みを浮かべ、俺とパトリツァの双方をなだめるように、それでも伝えるべきことは過不足なく伝えるディディ。その余裕のある態度が余計に癇に触ったのか、パトリツァがまたヒステリックに喚き始めた。


「エリィ様、その者は旦那様とアナトリオを誑かしてこの家を乗っ取るつもりなのです。騙されてはいけません!!」


「君にその呼び方を許した覚えはないのだが」


「今はそんな事はどうでもよろしいでしょう。その者はこの侯爵家を乗っ取ろうとしているのですよ!!放置しておいては取り返しのつかないことに!!」


 あろうことか、俺をエリィと呼んでディディがこの家を乗っ取ろうとしているのだと騒ぎ立てる。冗談ではない。

 無欲なディディが家の乗っ取りなんてものを企むはずがないし、そもそも俺をエリィと呼んで良いのはディディだけだ。きわめて親しい友であるマリウス殿下やマシューにすらその呼び方は許していないのに、なぜ自分だけは特別だと思い込めるのか。


「その者を一刻も早く屋敷から叩きだして!!お家乗っ取りを企む犯罪者よ!」


 俺がまともに取り合わないのにしびれを切らしたか、パトリツァは懲りずに使用人たちに喚きたてるが、当然のことながら従う者は誰一人としていない。


「お言葉ですが夫人、私がアナトリオ様のお相手をするのも、お子様があなたに懐かないのも、貴女が母親としての義務をすべて放棄しておられるからです。

 この年齢の幼子には家族の愛情が必要不可欠です。私がアナトリオ様と関わるのがお嫌なら、ご自身がお子様と向き合うべきでしょう。

 孤児院で縁もゆかりもない子供と遊んで楽しむのは貴女の勝手ですが、我が子を放置して良い事にはなりません。しばらく外出を控えてご自身の生活やご家族とのかかわりを見つめ直されてはいかがです?」


 しつこく喚きたてるパトリツァにディディが毅然と言い切った。徹頭徹尾正論なのだが、本人はどの程度理解できただろうか。


「我々はもう登庁の時間なのでもう行きますが、今日一日このところの自分の言動を振り返って反省してください」


 俺もいつまでも付き合ってはいられない。

 パトリツァにきっぱり言い置くと、ディディと二人で急ぎ登庁した。

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