エルネスト・タシトゥルヌ 七
夜会の翌日、「妻」が帰宅したのはもう夕方になって我々が退庁する頃だった。
なにしろ王宮から帰って来た彼女と、1日働いてようやく屋敷に戻って来た我々が、ちょうど玄関で鉢合わせしたくらいなのだ。いったい夕べはどれほどお楽しみだったのだろう。
今日はだいぶ仕事がはかどったので良い気分だったのだが、おかしなところで彼女の自慢話につかまってしまい、なんとも締まらない気分だ。
まだ持ちかえった政務があるので先に休むように言うと、さっさと湯を使って自分だけ夕飯を摂り寝てしまったそうだ。
まぁ、おかげで水入らずで過ごすことができるのでありがたいと言えばありがたいが。使用人に言って食事は執務室に運んでもらい、二人で差し向かいで食べた。
夜遅くまで政務を執っても二人でいると疲れも気にならない。
膨大な量の資料から、関連するものを拾い集めて照合して、矛盾を探していく。気になるところを一つ一つ書き留めて、二人で照らし合わせると、今日も思いのほか多くの不正の証拠を見つけることができた。
関わっている者の数も多い。貴族だけならともかく、一般の商人は全てのものや金の流れを法務で把握できているとは言い難く、少々難儀するかもしれない。
……ましてや、金で雇われた貧民街の住人などは、戸籍すらない者も少なくない。人頭税をごまかすため、出生届を出していなかったり、死亡届を出して死んだことにされていたりするのだ。
これらを一網打尽にするのはなかなかに難しいが……奴らの手足をもぐためには、一部の貴族だけを罰すれば良いと言うことにはならないのだ。
奴らの犯罪は実に多岐にわたり……そのいくつかについては心優しいディディが珍しく怒り心頭に発している。
あの穏やかな彼が必ず自分の手で叩き潰すと勇ましい事を言っているのだから、よほど腹を立てているのだろう。あまり無茶をしなければ良いのだが。
翌朝、火のついたように泣く赤子の声に気付いて慌てて1階に向かった。
テラスに着くと揺りかごの傍らでディディがアナトリオを抱いて子守唄を唄いながらあやしており、アナトリオは歌に合わせてきゃっきゃと声を立てて笑っている。
そして貴婦人にあるまじきドスドスという足音を立てながら忌々し気に立ち去るパトリツァの後ろ姿。
どうやらまたパトリツァが癇癪を起こして息子を泣かせてしまったらしい。いつまでも子供のままでいられるのも困ったものだ。
長男のアナトリオは1歳になったばかり。赤子なので時々癇癪を起したり大泣きすることはあるが、俺やディディの顔を見るとニコニコ笑って手を伸ばしてくる。
鮮やかな赤毛に俺そっくりの顔立ちと瞳の色で、知らずに見ればディディと俺の子に見えないこともない。こればかりは『妻』の髪色が赤で良かったと本当に思う。
「泣き声が聞こえたが」
「赤ちゃんだもの、泣くのが仕事みたいなものだよ。それより絵本を読んであげてたんだ。エリィも一緒にどう?」
産みっぱなしで母親らしいことを何一つしようとしない「生物学上の母親」の代わりに、ディディは毎日アナトリオに家族としての愛情をたっぷり注いでくれている。忙しい合間を縫って、毎朝絵本を読み聞かせたり、ハイハイや伝い歩きの練習に付き合ったり……
トリオも優しいディディに懐いており、おそらく実の『母』ではなくこちらを母親だと認識しているだろう。ディディに抱かれている時にパトリツァがやってきたりすると、引き離されるのを嫌がって大泣きする事も珍しくない。
パトリツァは子供が泣いたり、涎が出たりするのを毛嫌いして怒鳴り出す。その一方で、トリオが自分以外に懐く素振りを見せるとそれはそれで癇癪を起こして騒ぎ立てるので仕方がないのだが……
男遊びは激しく、気分次第で使用人には当たり散らし、女主人として行うべき使用人の統括や金銭の管理も、母親として行うべき育児や教育も一切しない。そんな身勝手な言動を重ねる事で、自分自身の居場所がこの家の中からどんどんなくなっていくことに気付いていないのだろうか?
少なくとも結婚当初、俺はここまでパトリツァを疎んじていなかった。たとえ義務であっても尊重するつもりはあったのだ。
アナトリオを産んだ頃は感謝でいっぱいだった。ちゃんと家族として互いに尊重しあえるよう、努力しようと本気で思っていた。
今では彼女の顔を見るだけで不愉快だ。妻としてはともかく、せめて母親役くらいは果たしてほしかった。……もうどうでも良い事だが。
俺にはディディがいる、ディディさえいてくれれば他はどうでもいい。
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