私を愛する事のなかった貴方へ

歌川ピロシキ

本編

パトリツァ・コンタビリタ 一

 わたくしは名ばかりの侯爵夫人、お飾りの妻でした。


 旦那様にとってわたくしは、最初から王命によって仕方なく娶らされた、形ばかりの配偶者だったのでしょう。そんな事も知らず、わたくしはついにエルネスト様の求婚を受けたと、あの女嫌いで有名な「氷の貴公子」様のお心すら射止めることができたのだと有頂天になっておりました。


 思えば婚約の際の顔合わせの時からおかしかったのです。


「パトリツィア嬢、これは政略結婚です。お互いに恋愛感情を抱くのは難しいでしょう。それでも、双方が協力して努力すれば、家族として温かな愛情のある夫婦になることはできるかもしれません。私とともに歩む努力をしていただけますか?」


「もちろんですわ」


 わたくしは迷わず即答しました。


 年頃の令嬢たちの憧れの眼差しを一身に集めながら、浮いた話の一つもない「氷の貴公子」ともあろうお方が、素直に女性への好意を口にできるとは思いません。社交界の華と呼ばれ、数々の貴公子たちから愛を囁かれるこのわたくしに恋焦がれてはいるものの、わたくしの愛を自分だけのものにできるとは思えないのでしょう。わたくしはみなさまに愛される宮廷の華、わたくしの愛は等しくみなさまに注がれるものなのですから。


 だから、せめて「家族としての愛情」だけでも我が身に与えてほしいとこいねがっておられるのだと、固く信じておりました。旦那様の心は、とうの昔からあのお方ただお一人のものだったとはつゆ知らずに。


 旦那様はわたくしのことを侯爵夫人として常に尊重してくださいました。


 社交のためのドレスや宝石は、必要になる都度、最高級のものを作らせてくださいました。使用人たちもわたくしの事を女主人として敬い、きめ細かな配慮とともに従順に振舞います。誕生日や記念日にはこまめに贈り物を下さいます。


 いずれも最高級の品質であるのみならず、実に洗練されて気の利いた、侯爵夫人の持ち物にふさわしいものばかり。その洗練されたセンスと質の高さに、社交の席では常に羨望せんぼうの眼差しを向けられておりました。それを選んだのは旦那様ではなく、あのお方だったとは、あのお方が亡くなるまで全く存じませんでした。


 我が家で茶会やパーティーを開く時は、わたくしが何も言わなくても執事や家政長が完璧な差配でお客様を楽しませてくれます。毎回様々な趣向が凝らされており、目が肥えていて気難しいと評判のお客様も、我が家の催しだけは楽しみにしているとおっしゃるのです。「さすがはタシトゥルヌ侯爵夫人」と皆様に讃えられ、わたくしはすっかり良い気分でした。


 社交嫌いの旦那様ですが、夜会の席ではきちんとエスコートして下さいます。


 夫婦でわたくしが選んだ衣装に身を包み、堂々と入場すると、みなさまの憧憬の眼差しが心地よく刺さって参ります。あの女性嫌いで通っていた「氷の貴公子」の妻の座を射止めたわたくしは、令嬢たちの嫉妬と羨望を一身に受け、まさに社交界の女王として君臨しておりました。


 意外な事に、社交の席があまりお好きではない旦那様ですが、ダンスだけはお上手です。夜会のたびにわたくしとともに見事なファーストダンスを踊っては、人々の賞賛を受けておりました。


 嫡男のアナトリオが産まれた時の旦那様の喜びようといったら、そのまま天にでも昇る気ではないかと思うほどのはしゃぎっぷりで、産褥のわたくしも目を疑うほどでした。わたくしそっくりの鮮やかな赤い髪に、旦那様そっくりの凛々しい顔立ちと澄んだ蒼い瞳はその名の通り、立ち昇る朝日そのもの。旦那様は目の中に入れても痛くない可愛がりようで、自ら乳母を選び、お忙しい政務と領地経営の合間を縫ってはあやしたり遊んだりしてくださったものです。わたくしも1年近く妊娠、出産で思うに任せぬ日々を送り、辛い思いも致しましたが、旦那様の喜びようと我が子の溺愛ぶりに、あの辛く苦しい妊婦生活とおぞましい出産の苦痛に耐えた甲斐があったと嬉しく思いました。


 そう、わたくしは幸せの絶頂にあったのです。その幸せが見せかけだけの、儚く脆いものだと知りもせずに。

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