57 - 宿屋の住人達

 マリーが戻ってくると、ナルラと何か相談を始めました。ややあってマリーが菜優の方に向き直ると、「女湯の方、空けておきましたから。入っても大丈夫ですよ」とウインク混じりに声をかけてくれました。菜優は待ってましたと言わんばかりに、女湯の方へと飛び込んでいきました。


 暖簾をくぐると更衣室があって、さながら銭湯のような雰囲気です。服を脱いでから浴室の扉を開くと、そこには十人は入りそうな大きめの浴槽が、浴室の真ん中にででん!と言わんばかりに鎮座していたのです。


 菜優は体を洗ってから浴槽に浸かり、久しぶりのお風呂を堪能しています。それにこんなに大きなお風呂は、日本に居た時、それこそスーパー銭湯に連れて行ってもらった時以来です。


 それも、もうどれだけ前の話でしょう。菜優の家族はスーパー銭湯によく通う家族ではありませんでしたから、二、三か月で住む話では、きっとないでしょう。お湯の中で手足を思う存分伸ばせるだけで、もうそれだけで体の奥底に眠っていた疲れまでお湯の中に溶けていくような心地がして、疲れと緊張が抜けるたび、眠気に襲われていきました。


 そんな菜優の耳を、女の子の号哭が劈きました。菜優はびっくりして、お湯の中に沈めかけていた意識を呼び戻して、何が起きたのかを探ってみます。よく聞くと、マリーの宥めるような声も聞こえてきます。おおかた、子供たちが喧嘩して泣き出しちゃったのでしょうか。菜優は改めて大変そうだ、と思いながらまたお湯の中に意識を溶かしていきます。


 とはいえ、子供達の泣き声が簡単に収まってくれるはずもなく、菜優の耳には常に泣き声が届けられました。おかげで気は休まりませんでしたが、うっかり寝てしまって溺れかける、なんて事態にはなりませんでした。


 菜優がお風呂から上がってくると、男湯と書かれた隣の暖簾から子供達がどたどたと元気よく飛び出してきました。特に勢いの良かった数人をデールが捕まえると、彼らを両脇に担いでどこかへ歩いていきました。


 その後に、マリーが多くの子供達を連れてお風呂から出てきました。マリー達もデールの後を追おうとしたところ、マリーが同じくお風呂上がりの菜優に気がつきました。


「あ、ナユさん。お風呂どうでした?」


「もう、ほんっと良かった。危うく寝ちゃうとこだったよ」


 感想を聞いたマリーは目を伏せ、口角を上げました。


「それはよかった。私達はこの子達を連れて帰らないといけないので、何かあったら、ナル兄に言ってくださいね」


 そう言って、マリーはくるりと翻り、デールの後を追うように去っていきました。菜優は彼女達を視線で見送ると、部屋に戻りました。


 部屋に入ると菜優は、お風呂に入って緊張がほぐれたからなのか、日がまだ高い位置につけているにも関わらず、もう眠たくてたまりませんでした。ベッドに倒れ込むように寝転がると、そのまま寝息立てて眠り始めました。


 そんな菜優の耳に、どたどたとまた騒がしい足音が近づいてきました。「こら、待つっスよ!」という叫び声が、足音に続きます。菜優は浅く眠りながら、その喧騒を意識のどこか遠くで聞いていて、いつもこんなに煩いのかな?とどこかうんざりしていました。まだ昼過ぎなので子供達も元気なのでしょうが、これが夜にも続くとなると、とても休まる気がしません。


 うたた寝をすること、数時間が経過しました。目を覚ました菜優が見た日は、西に傾き夕色に染まっています。あたりが薄暗くなってきたところですが、今の菜優は素寒貧で、宿屋に泊まれたは良いものの、帰る前に払うお金がありません。菜優はとりあえず仕事を探さないとと思い、ルナーの街へと繰り出しました。


 宿屋をぐるりと回り込むように裏手へ進んでみると、もう一つ、小さな家のような建物があるのが分かりました。そこで、デールが幼い子供達と遊んでいるのが見えました。子供達は楽しそうにはしゃいでいますが、一方でデールはしきりに目を周囲にやって、子供達の様子を伺っているようです。さながら、保育園の先生のようです。


「あれ、ナユさん。こんな時間からおでかけですか?」


 楽しそうな子供達を目で追っている菜優は、後ろからいきなり声をかけられてびっくりしました。そちらに目をやると、両腕いっぱいに荷物を抱えたマリーの姿がありました。


「余計なお節介かもですけれど、夜のルナーは危ないですよ?特に、女の子一人で街を歩いてたら、何されるか分かったもんじゃないですし」


「あはは…私にはケルちゃんがおるから問題ないよ。それより、お金ないから仕事探さななぁって思とったとこなんさ。けどまだここにきたばっかやから、右も左も分からんくて」


 菜優がそう打ち明けると、マリーは顎に手を当てて、何かを考えているふうな態度を見せました。ややあって、菜優の方に向き直って言います。


「なるほど、どおりで見ない顔だと思ったわけだ。ルナーこんなまちに来るなんて、一体何がお目当てなんです?それとも、何かをしでかしたとか?」


 菜優はどきりとしました。後ろめたいことをしたつもりはないけれど、このマリーという子に菜優の悪事を見透かされたような気がして、少しばかり怖くなりました。菜優は気まずくなって「まぁ、ちょっとね…」と、思わず誤魔化してしまいました。


「ははは。ルナーこんなまちに来る理由なんて知れてますからね。でも不思議なんです、ナユさん、そんな風には見えないから。もしかして、巻き込まれたとか?」


 菜優またどきりとしました。このマリーという子は、どこまで聡いのでしょうか。菜優は半ば恐れを抱きながら、「まぁ、そんなとこ…」と、これもまた曖昧に答えることしか出来ませんでした。

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