第18話 空想科学のプロローグ

 目を開くと、そこには教室の光景が広がっている。どうやら俺は、教室の窓際の席に座っているらしい。木製で座り心地の悪い椅子の感覚を覚える。周囲の面々を見るに、恐らくここは二年二組。皆自分の荷物を鞄に入れようとしていたり、コートを着ようとしていたりと帰宅の準備をしている。放課後のようである。


 しかし、何かがおかしい。クラスメイトのほとんどがある一点を見つめており、その視線の先には教室の前側の入口。俺は、自席の右側に佇んでいる北斗にその疑問を投げかける。


「なあ、北斗。何かあったのか」

「ええ、見てなかったん? さっきまで寝ていた大志が急に起き上がって、外に走って教室から出て行ったんだよ」

「大志は、あいつはどんな様子だった?」

「ん? 何か心ここに非ずといった感じで、俯いたまま。七限もずっと寝たままだったし、終わってからも苦しそうにしていたから、保健室にでも行ったんじゃないかな」


 違う。さっきの世界線で、あいつは遠東に撃たれたことでタイムリープに失敗した。だから、その遠東や俺のいる教室から逃げたのだろう。


「……そうだ。遠東は? あいつはどこに行った?」

「遠東先生? あの人なら出張だろ。朝、俺らに英単語テストだけ返してどっか行ったじゃん」


 どういうことだ。俺が今までタイムリープで訪れた一二月八日、九日にはともに遠東がいた。


「北斗。今日は何月何日だ?」

「えっと、一二月九日だったかな。さっき現文のプリントに書いたわ」


 一二月九日。時計を見ると、時刻は四時二〇分。ということは、さっきまでいた日と同じ日。そこで四〇分前に戻っただけのはず。では、何故遠東がここにいないのか。世界線変動による影響。そう結論を出す。とりえず、好都合なことには違いない。まだ間に合う。このまま大志を追い、彼の空想を否定すれば、上書きされるまでにアカシックレコードによる変化をなかったことにできる。


 椅子を引き、立ち上がる。しかし、心の中でストップがかかる。足が動かない。不意に、さっきの大志に投げかけた言葉を思い出す。あの言葉は、立花を失ったショックから生まれたものなのかもしれない。何故なら、俺の話にはそれを裏付ける証拠がないからだ。


 皆の中に、同好会解散後も仲間でいようとする思いが、気持ちがあったのだろうと俺は言った。しかし、そんなこと考えたこともなかった。要するに、あの話は口から出まかせなのだ。結局、同好会の面々が俺のことを、他のメンバーのことをどう思っているかなんて分からない。


 今この状況で大志を見つけたところで、彼のことを止めることができるのか。そんな不安が脳内に渦巻く。彼の考えを否定することも、世界を肯定することも俺にはできない。


 どうすればいい。どうすればいいんだよ。ブレーキのかかった俺の頭に、あの夜の記憶が呼び覚まされる。それは彼女と、立花瑞希と過ごした公園での記憶だ。そこで彼女がゆっくりと、美しい声で俺に言った一つの台詞。「諦めないで」という一言が、俺を励ます。


 そうだ。諦めるわけにはいかない。立花瑞希を救うため、紫月美望に笑顔を戻すため、矢車竜次の大志を止められなかった後悔をなくすため、そして何より、毛利大志の未練を晴らすため、俺は止まるわけにはいかない。


「……やってやる」


 廊下に向かい、全速力で駆け出した。


  ◆  ◆  ◆


「お前ら、何やっているんだ?」


 玄関に着くと、そこには竜次と中和、岩波の姿があった。三人とも上履きから外靴へと履き替えようとしているらしい。


 焦りと驚きを含んだ俺の問いに、玄関の扉の前で佇む岩波が反応する。


「マッドサイエンティスト遠東を捕まえに行くんだよ」

「どういう意味だ……なあ、竜次」


 三度目のタイムリープ前、こいつは俺に触れたことで、アカシックレコードの管理する立場、つまりは俺や紫月さんと同じ立場になっている。それにより、たとえ大志によって竜次が記憶を失うように世界を編集していたとしても、先ほどの世界線で起こったことを記憶しているはずなのだ。


「なんでだよ! お前だってさっきあの弾丸を食らったんじゃねえのかよ! そのお前がなんで、どうして他人を巻き込もうとするんだよ!」


 竜次に向け、畳みかけるように語りかける。


「さっきクラスの奴に遠東について聞いたら、数分前にあいつのことを見たって言っていたんよ。私の推測やけど、多分あいつは毛利氏を探しているんよ。このままじゃ危険やろ」

「でも、だからって二人を巻き込んでいいことにはならねぇだろうが‼」


 俺は竜次に訴えかける。しかし、今度は口を閉ざしてしまう。


「なあ、和也」


 数秒の沈黙を破ったのは、竜次の奥で靴に履き替えようしていた中和だった。


「よく分からないけど、やらなきゃいけないんだろ?」

「……だけど危険なんだよ。今の遠東は俺と大志の空想通り、マッドサイエンティストになっている。当然、普通の人間とは思えない発想や思想を持っている。今のあの人は、何をするか分からないんだ‼」


 それでも、中和は引き下がらない。俺の目を見つめ、話を続ける。


「でもさ、こうすれば大志を救えるんだろ?」


 すると岩波もこちらに顔を向け、それに付言しようとする。


「そうそう、それに……」


 しかし、言いづらいのかその後の言葉が出てこない。それを見て、、今度は中和が言葉を紡ぐ。


「お前の力になれる、そうだろ?」


 言いながら、中和は岩波の方を見る。すると岩波も首肯する。


 二人の覚悟が、表情から伝わってくる。大志のため、そして俺のために戦おうとする意思がはっきりと分かる。彼らと目を合わせたまま、何も言い返すことのない俺に、竜次が言葉をかける。まるで、同好会メンバーの気持ちを言語化すかのように。


「山上氏……私らは仲間やで」


 竜次の言葉が、心に染みる。言葉として中に入ることで、ようやく俺も理解する。彼らの本意を、思いを。結局、俺のような受け手にも問題はある。俺が彼らを信用しなければ、彼らの信用が俺に伝わらない。今、やっと彼らのことを信用できた。


「……ありがとな」


 小声でぽつりと呟く。恥ずかしくて三人には聞こえて欲しくない。言葉をかき消すように、俺は雄叫びを上げる。


「よし……行くぞっ‼ 必ず、大志を助け出すんだ‼」


 三人が俺の言葉を肯定する。


  ◆  ◆  ◆


 竜次の指示で、中和も岩波も学校周辺を探索するため、彼らは校内をあとにする。俺は一人、玄関前で考える。今の大志はどこを目指すのか。どこに行けば彼を見つけ出せるのか。


「……和也くん」


 思考を巡らせていると、聞き覚えのある声が耳に入ってくる。その声は細々しい。しかし、以前聞いた彼女の声とは違い、奥深くに力強さを感じる。そこにいたのは紫月さんだった。体育の授業終わりだったのか、体育着を着ている。しかし、運動していたような形跡はない。見学していたのであろう。


「毛利くんが少し前に、駅の方へ……」

「紫月さん……」


 瞳の色は少し明るくなってはいるが、それでも彼女の精神はいまだ疲弊しきっているように見える。顔はやつれ、目の下には隈ができている。


「……ありがとう。あとは、任せてくれ……‼」

「和也くん……でも」


 言いかける紫月さんの声をかき消すように、俺は言葉を重ねる。


「立花さんは俺が救う。だから、紫月さんはあいつが帰ってきたときに、抱きしめてやってくれ。俺はヘタレだから、それができないんで」


 紫月さんの表情の裏に隠された思いを、瞬時に理解するのは難しい。しかし、今の彼女を巻き込むことはできない。それに、これは俺たち映画製作同好会の問題なのだ。


「じゃあな」


 それだけ言い残し、俺は駅の方へ向かったという、大志のもとへ急ぐ。


  ◆  ◆  ◆


 灰色のキャンパスの中、大志の姿がった。数分前、俺の前で鮮血に染まった、その場所に。


「大志……」


 声をかけても彼には届かない。振り向くことも、何か言葉を返すこともせず、大志は空を眺めている。


 紫月美望は、周辺の人間の行動を変えることで、自身の望む世界へ辿り着くことに挑んだ。恐らくだが、アカシックレコードを使って自分以外の人間に直接影響を与えることはできないのだろう。だから彼女は、自分が人を操る能力を手にするという、回りくどい方法をとった。それにしても、大志のやり方はそれ以上に回りくどい。わざわざタイムリープという方法をとる必要性は、彼の動機との関連性が薄い。これは俺の推測でしかないが、この方法をとった理由には他にある。それは何か。彼はまだ捨てきれていないのだ。現実世界への期待を。彼はまだ、この世界に期待している。ゆえに彼はタイムリープという方法を選んだ。他人の行動や考えをレコードの力で無理に変えようとはせず、あくまで自分の力でやろうとしている。


 ならば。立花瑞希のやり方で。


「なあ、大志。俺はあんたがやりたいこと、やりたかったことが分からないわけじゃないんだ」

「うるさい!」


 しかし、彼はその言葉を拒絶する。叫び、嘆き、周囲の声をかき消す。


「やーかーには、分らないよ」

「……大志」


 彼の声で分からなくなる。今の大志と、タイムリープを始めた大志とは違うのかもしれない。すでにこの世界への期待は消えていしまっていて、もうタイムリープという方法で世界を変えることは諦めてしまっているのかもしれない。


 そして大志は、その考えが当たっているとでも言いたそうな目で、道の端まで進み、下を通る道路へ視線を落とす。下に見える道路には、何台もの車が走っている。高さはそこまであるわけではないが、ここから落ちれば、恐らく助からないだろう。


「当たり所がよかったのかな。さっきの世界線で遠東に撃たれたあと、この世界線に移動するまでの間意識は残っていたんだ。だから、俺はタイムリープで生き返ったわけじゃない。死んだら終わり。俺以外の人が世界線を移動したところで、生き返ることはないんだよ」


 言いながら、大志は橋の柵に手を添える。


「ほんと、世界ってのは残酷だよ」


 彼はこの言葉を、遺言にでもするつもりなのだろうか。このまま身を投げ出すつもりなのだろうか。だが残念ながら、俺は知っている。彼が強い人間であるということに。だから俺は、この男の死に対する覚悟を否定する。


「本当に死ぬ気なんてないだろ、大志。お前はそんなに弱くないはずだ。確かに、心の中に闇を抱えているのかもしれない。でも今までそれを外に出したことがないだろ。お前はもう、耐えられるんだよ。耐えられてしまうんだよ。耐えられる人間は、いつか爆発しちまう。お前は優しすぎるんだ。周囲に対して愚痴ったり、悪く言ったりしない。もっと嘆いていいんだよ。自分の中の黒い感情を。俺なんかいつもぼやいているだろ。世界はくそだとかなんだとか。そうしないとやっていけない。だからお前も開放しろ。そうすれば、そう簡単に、こんなふうにはならない。俺の言っていることは空想かも知らない。綺麗事かもしれない。でも実際そうだろ。お前はまだ世界の否定を知らない。良いんだ否定して。実際この世界くそなんだ。もっと、気楽に生きろ。そうすれば自然と少しだけいいものに見えてくる、かもよ」


 言うと、彼は膝から崩れ落ちる。きっと納得はできていないはずだ。こんなその場しのぎの言葉で人の考えは変えられない。それは俺が一番よく知っている。だけど、少なくとも今はこれでいい。死ななければまだ、希望はある。


 ゆっくりと彼に近づき、再び声をかける。


「俺だって、過去を変えれば、自分の望む世界が手に入るんじゃないか、もっとうまく皆と関わって、分かり合えて、信用できるんじゃないかって。そんなふうに考えるんだ。でもさ、あいつらと話して確信した。何度間違えても、自分が変われば世界は変わるんだって。自分が相手を信用すれば、相手も自分を信用してくれる。俺は、そう思えたんだよ。現実ってものにもう少し期待してみてもいいのかもしれないな」


 言い終わり、呼吸を整える。


 すると、世界は白い光に包まれる。


  ◆  ◆  ◆


「大丈夫か、山上」


 聞き覚えの声が聞こえる。ゆっくりと光が視界から消えていく。タイムリープとは違い優しい光だった。レコードから切断されたのだ。目を開くと、夏島と松田。三年三組だ。


 結局、いつもここに帰ってくる。そこは自席だった。しかし窓から見える景色は灼熱地獄。明らかに夏の景色だ。青々とした空に、大きな積乱雲が浮かんでいる。


「なあ、今日は何日だ?」

「おいおい大丈夫か。このあと模試だろ」


 心配してくれる夏島の言葉の中に不安要素が見つかる。模試、だと。そんな俺を差し置いて、松田がスマートフォンを見せてくる。そこには、今日の日付が表示されている。


 二〇二一年八月二一午前八時一五分。一度目のタイムリープから今までの時間が換算され、約三日後の時点に戻ってこられたようである。


 松田のスマートフォンを眺めていると、担任が前側のドアを開け、教室へと入ってく。


「よし、じゃあ模試始めるぞ。参考書とかはしまってください」


 夏休み終盤の模試。そういえばこの模試の結果が、進路に大きく響くって話だ。なんでだよ。


  ◆  ◆  ◆


 模試の結果は最悪だった。ネルチンスク条約を結んだときのロシアの皇帝なんて知るわけがないだろう。出すならせめて清の康熙帝の方にしてくれ。


 夕方の廊下でそんなことを愚痴る。皆模試を終え、落胆しながらも玄関へと降りて行っている。俺もだいぶお疲れだ。さっさと帰宅しよう。学ランの第一ボタンをはずしていると、彼女の、立花瑞希の声が聞こえてくる。


「おーい、山上くん」


 話しかけながら廊下を少女が疾走する。その後ろには正気を取り戻したのであろう紫月さんの姿がある。立花は俺の前で立ち止まり、膝に手を置いて呼吸を整える。


「いやぁ、美望に聞いたよ。また、君に助けられちゃったね」


 彼女は俺のことを見上げるような姿勢で、そう話す。確かに最終的に大志を説得したのは俺かもしれない。だが、俺が彼女を助けたという表現は合っているだろうか。


「いや、助けられたのはむしろ俺の方ですよ。それに、紫月さんの協力もありましたし」


 言いながら紫月さんの方へ視線を移す。すると、彼女は顔を赤らめながら首を大げさなほど横に振る。かわいい。そんなことを考えていると、今度は後方から男の声が聞こえてくる。


「おーい、山上氏」


 この呼び方間違いない。振り向くとそこには案の定竜次がいる。


「おう、竜次か。どうしたんだよ」

「いやいやいや、こっちも記憶残ったままなんやから心配してくれや」


 そういえば、こいつと大志もアカシックレコードの記憶が残っている。こいつにレコードのことを話したと伝えなければと思っていると、立花が竜次に話しかけた。


「君が、矢車くんだね。君の協力がなかったら危なかったよぉ。ありがと」


 彼女からの問いを受け流すも、立花は話を続ける。


「山上くんの判断だから、君の意見を尊重する。どうする? 記憶を消すこともできるよ」


「いや、こいつがまた泣きついてくるかもしれないんで記憶は残しておいてくだせぇ」


 意外な回答だ。それを立花も了承する。まぁこの男も非現実が好きそうだしな。


 竜次は立花との会話の瞬時に終わらせ、俺の方を見て口を開く。


「山上氏、大志が飯に誘っていたけど、このあと行かんか?」


 俺は大志が見るこの世界を肯定してしまった。何もしないでそのままというわけにはいかない。


「行けるぞ」と、夕飯を食べに行くことを決める。


 廊下の窓からは見える景色は、橙色に染まり切っていた。

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