噛みつき姫と呪われ侯爵
神無月もなか
第一話 噛みつき姫と出会いの夜
1-1 噛みつき姫と出会いの夜
きらびやかな会場。色とりどりの豪奢なドレス。人々の笑い合う声に、場を満たす美しい楽器の音色。
大勢の名家の令息令嬢が集まるその場所は、誰の目から見ても高貴な身分である人々が集まっている場だとわかる。
参加している人々は皆が皆、楽しそうに言葉を交わし、あるいは会場に流れる音楽に合わせて軽やかに舞っている。
会話にダンスに美味しい食事。楽しむ条件が揃っている夜会会場で、イツカ・クラマーズだけは壁際からぼんやりとした表情で今回の夜会に参加している人々を眺めていた。
――退屈だなぁ。
その一言が思わず口からこぼれそうになり、慌てて飲み込む。
家に招待状が届いたのがきっかけで参加したはいいが、やはり自分にはこういった場の空気はあまり合わない。
普段、屋敷や領地からほとんど出ないことで他の貴族とどのような会話をしたらいいのか困ってしまうし、どうにも自分は場違いなのではという思いが生まれてしまう。
(たくさんの名家の方々が集まる夜会というだけあって、ちょっと興味がわくものが見られるのは個人的に嬉しいけど。やっぱり退屈)
ぼんやりと考えながら、イツカは目の前を通り過ぎていく紳士淑女を目で追いかけていく。
手に持っていた扇を広げて口元を隠し、その下でため息をついたそのときだった。
ふわり、と。イツカの視界の端を黒い靄が泳いでいった。
過ごし慣れた領地でもそれをまとったものを何度も目にしてきたが、これまで目にしてきたどれよりもどす黒く、禍々しい強大な気配を放っている。
そんなイツカにとって特徴的なものを見逃すわけがない。
反射的に顔をあげ、視界の端で捉えた靄の先へ視線を向ける。
領地でもなかなか目にできないほど、強大でおどろおどろしい、この場にいる誰よりも強い負の気配を漂わせるもの。
それを引き連れた青年の背が、イツカの目に映った。
『あァ、いいな。あれは美味そうだ』
すぐ耳元で、そんな声が聞こえたものだから。
つい、手が伸びてしまったのだ。
「……?」
「あ、あの」
はし、と。彼との間に空いていた距離を詰め、歩くたびに揺れていた豪奢なコートの裾を掴む。
こちらを振り返り、不思議そうに見やる彼の瞳を真っ直ぐ見つめ、イツカは口を開いた。
「美味しそうだから、あなた様のそれ、食べさせてくれませんか!」
「……は?」
イツカが言葉を発した瞬間、しんと辺りが静まり返る。
目の前に立つ彼はもちろん、周囲にいる他の貴族令嬢や子息たちもぽかんとした顔でこちらを見ている。
周囲から突き刺さる無数の視線を感じ、イツカは己の顔が青ざめていくのを感じた。
あ、これ、やってしまった。
さあっとイツカの体温が急激に下がっていく。
眼前に立つ青年は、小柄なイツカよりもうんと背が高い。ほどいたら肩甲骨の辺りまでありそうな銀糸の髪を首の後で緩く一つにまとめており、切れ長の赤い瞳をしている。
冷たそうな印象がある人物だが、突然のイツカの行動と理解不能の言葉に心底驚いたのだろう。
目を丸く見開き、ぽかんとした顔でこちらを見る今の彼の様子からは、冷淡な印象からくる威圧感や恐怖感などは感じられなかった。
「あの方は一体誰だ?」
「ネッセルローデ様を呼び止めるなんて……」
「いや、それよりも先ほどの言葉――」
周囲にいる令息令嬢たちのひそひそとした声がイツカの耳に届く。
イツカは己の顔がますます青ざめていくのを感じながら、掴んでいた彼のコートの裾から手を離した。
「す、すみません突然! 先ほどの言葉は忘れてください!」
「あ、おい!?」
イツカの声を聞いた青年がはっと我に返る。
彼が何か言うよりも早く、イツカは後ろへ下がって数歩距離をとり、くるりと背を向けた。迷わず足を大きく踏み出し、参加者をかき分けるかのようにして会場の出口を目指して走り出した。
次から次にすれ違う人々のささやき声がイツカの耳に届いては、耳の中で大きく反響する。
「今のお方は――」
「クラマーズ領のイツカ・クラマーズ様だ」
「ああ……あのクラマーズ領からほとんど外に出てこないという噂の」
「『噛みつき姫』が領地から出てくるなんて――」
ささやき声に混じり、先ほどの青年がイツカを呼び止めようとする声も聞こえる。
だが、イツカは足を止めることも振り返ることもなく、会場を勢いよく飛び出した。
かつ、かつ、かつ。ヒールの音を奏でながら走るイツカの顔には、はっきりとした焦りの色が滲んでいた。
「ああもう、やっちゃった……! お兄様から『いつもの感覚で発言しないように』って言われていたのに!」
イツカの脳裏に、夜会に参加する前に聞いた兄の声がよみがえる。
『いいか、イツカ。よく聞け』
『お前が今宵向かうのは、私たちの領土の外だ。わかるな?』
『クラマーズ領では問題なく受け入れられていたことも、一歩領地から出れば受け入れられなくなる。普段と同じ感覚で言葉を発すれば、まず間違いなく奇妙なものを見る目を向けられる。だから、普段と同じ振る舞いをするのは避けろ』
『特に――イリガミ様のお眼鏡にかなう奴がいても、いつもと同じ感覚で声をかけるな。絶対にだ』
繰り返し何度も言い聞かされ、頷いたというのに――!
頭を抱えて転がりたくなる気持ちをこらえながら走り続けるイツカの耳元で、くつくつと笑う声が聞こえる。
あの青年に声をかける直前にも耳にしたこの声は、イツカが幼い頃から何度も聞き続けてきた声だ。
『バレたら確実に説教されるだろうなァ。説教を免れてもお小言は免れられんだろうよ。さァ、どうする? お嬢』
イツカの傍には誰もいない。
だが、イツカの耳には確かに聞こえている――低く、わずかにかすれた男性の声が、声の主がいるのだということを証明している。
屋敷で働く使用人たちから妙な目を向けられるのも構わず、イツカは大きく息を吸い込んで大きな声で言葉を紡いだ。
「そもそもイリガミ様が、わたしの耳元であんなことを言うからじゃないですかー!」
今にも泣き出しそうなイツカの声は、無数の星々が輝く夜空の中に吸い込まれていった。
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