笑いの時の果てに

はる

第1幕 冬の芸人

 神出鬼没の画家が人気を博した年に、僕は恋をした。彼は相当なお調子者で、ひたすらに顔がよかった。

 初対面の彼はのっぺらぼーで、僕は血だらけだったから、お互い最初は初対面であるということすら分かっていなかった。お察しの通り、僕と彼はお化け屋敷の幽霊要員であり、客入りが一時的に途絶えたとき、彼がタクシーの前面を模した大通具の向こうから話しかけてきたのが最初の会話である。

「暑ない?」

 くぐもった耳慣れない、しかしパンチ力のある声。

「暑いですね。お化け屋敷ってもっと寒いもんだと思ってました」

「まぁ幽霊に凍えられたらあかんからなぁ。きみ、新人さん?」

「あ、そうです。3日前から入らしてもらってて」

「そうなんや。大学生?」

「はい。4回生なんですけど、短期で」

「へー、じゃあいっこ下やん。俺23やねん」

 まぁそこで察する。この人フリーターか。

「そうなんですね」

「フリーターやと思ったそこのきみ。ただのフリーターやあらへんで。吉丸興業所属のフリーターや。将来有望やでぇ」

「え、芸人さんなんですか」

「せや。新進気鋭の若手漫才師、瀬野聡といったら俺のことや」

 びしり、と人差し指を突き出してくる。

「…………すみません、勉強不足で」

「その顔で申し訳なさそうにすんなや! 傷つくやろ!」

 顔を覆う仕草をするのっぺらぼー。剽軽な人である。

「自分家どこ?」

「〇〇大学の学生寮に住んでます」

「そぉか。じゃ、送ったるついでに車んなかで動画見せたる。べんきょーし、べんきょー」

 ずいぶん押しの強い人だ。

 なのになぜか、ペースに乗せられることに不快感はなかった。あちらの話術が上手いのか、僕が好感を持ったからなのかは判別がつかなかった。その後お客さんが来て、閉館まで驚かすのに忙殺され、くたくたになってバックヤードに戻った。

 お疲れさまでーす、と言いながら蛸部屋に入ると、見知らぬ男がいる。荒く染めた金髪に、既に解散したアングラバンドの長Tシャツ、ジーパンという出で立ちで、あぐらをかいて部屋の中央に座っている。しかし、目を引いたのはそこではない。彼は驚くべき容姿をしていたのだ。大きくてつぶらな目、つんとした鼻先、小さくて形のよい唇。まるで異国の王子のような顔立ちをした彼は、あろうことか僕を見て、

「よっおつかれ。血ぃとったらえらい二枚目やん」

 とのたまったのだった。

「え……っと、のっぺらぼーさんですか」

「嘘やろ、もしかして芸名覚えてない……?」

「あ、えっと、瀬野聡さんでしたっけ」

「よかった、合ってる合ってる。ま、それそのまま本名やねんけどな。そういや君の名前聞いてなかったな、わるかった。なんていうん」

「芳賀裕太といいます」

「……はがゆうた、か。なんか聞いたことある名前やな」

「そうなんですか?」

「……ああ! 思い出した! 第二南中のプリンス!」

「……へ?」

「せや、一個下になんやめっちゃ綺麗な子ぉ入ってきたいうて騒がれとったやつ! 自分のことやで、覚えてないんか?」

「えーっと……」

 そういえば薄っすらと心当たりはあった。

「なんとなーくは……?」

「なんやそれ! モテを享受せーよ! オクテくんか!? 霞食なんか!?」

「なんすか霞食って」

「仙人みたいってこと。はーーこんなところでそんなやつとまた巡り合うとはなぁ」

 しみじみと腕を組んで頷く瀬野さん。

「今もモテるんか?」

「いや、工学部なんで。男ばっかです」

「そうか〜……。でも、あんたにとったら不都合ないやろ?」

 心臓が跳ねた。なんで。なんでこの人は。

「……どういうことですか」

「どういうこともなにも、あんた別に女ぁ好きやないやろ。見てたら分かるよ。中学校の時の人気に気ぃとめてないし。あ、あとあんた! 俺がこの部屋で着替えてるとき遠慮して入ってこんかったやろ!」

「な……」

「これからは俺の時やったら気にせず入ってき。俺もなんも気にせぇへんし。わかったか? へんな遠慮ごっこはなしやで」

「せ、先輩……」

「ん? なんや?」

「観察眼すごいっすね……」

「そうかぁ? いや〜〜しかしプリンスなぁ」

「……先輩こそ騒がれてそうですけど」

「ん? 俺?」

 僕はなんとも言いようがなくなって目を逸らした。まさかほぼ初対面で先輩に「綺麗ですよね」なんて言えない。

「あ、天才的なお笑いセンスを持ってるって!? いやー、それはあり得るかもな〜」

 一人悦に入る先輩。

「よっしゃ、じゃあその結晶を見せたろ。帰るで」

 僕はあれよあれよというまにミニ四駆の助手席に乗せられた。先輩は慣れた手つきでスマホを車の前部に固定し、youtubeを開いて「綿貫露店」と検索窓に入力した。ヒットした同名のチャンネルをタップし、一番上の動画を開く。暗い垂れ幕の前に、サンパチマイクを挟んで男が二人立っていた。右が瀬野さん。左は丸顔の見知らぬ人。

「こいつが相方の花田やな」

 適切な補助説明が入る。ありがとうございます。

 結果から言おう。……先輩に見とれていたらネタが終わっていた。ガン見しながらも全く笑わない僕を、先輩は異形を見る目で見ていた。

「うそやろおま……これ結構自信作やねんで? 相方の調子もええし……なぁ……なんとか言えよ……」

「……え? ああ、すみません。素晴らしかったです」

「毛ほどもわろてないやんけ……」

「すみません」

 あなたを見ていたらネタが全く入ってきませんでした、とも言えない。

「……まぁええわ。また見したるから。……もうすぐ寮や。地面凍ってるかもしれんから気ぃつけや」

「ありがとうございました。またyoutubeチャンネル登録して(ちゃんとネタを)見させてもらいます」

「え、気に入ってくれたん? わろてなかったのに……?」

 先輩は首を傾げながら帰っていった。


 寮の部屋に戻り、ベッドに飛び込む。ああ。なんて人だろう。蛸部屋で顔を合わせたとき、まるで僕が子どもの頃に好きだった児童書の王子様が、現実世界に再び生を受けたんじゃないかと一瞬錯覚した。それほどまでに似ていたのだ。あの顔から流暢な関西弁が出てくるだなんて未だに信じられない。

 有名少女漫画家が挿絵を担当したその児童書を、僕は寮にまで持ってきていた。一人暮らしの男の部屋にあるにはかなり特殊な代物だと自覚しているので、普段は本棚の奥の方に隠してある。 

 他の本を退け、いそいそと取り出すと、王子様が初めて登場する挿絵がある頁をめくる。古い紙の匂いがかさこそと鼻腔をくすぐった。

 王子の名はフィーリア・スタニスワフ。自然を愛する平和主義者で、器用な人だがあまり口が上手くない。その代わり、彼が大切にしていたのは手紙を書くことだった。王子はあらゆる人に対し手紙をしたため、送ったり送らなかったりする。そのことを知っている周りの人は、感謝だけ伝えて返事を送らないことが多いのだが、一人だけ筆まめに返信をくれる人がいた。それは、隣国の王女、アマリアである。彼女の文章は端麗で、筆跡も濃淡著しく、フィーリアはその人のことを好きになる。でもアマリアは、決してフィーリアに会ってはくれなかった――。というあらすじ。

 なぜ王女はフィーリアに会わないのか。それは……分からない。何故かというと、この児童書は前後編に分かれており、悲しいことに両方絶版本のため、後編がすでに手に入らなくなっていたからだ。ちなみに前編は叔母からもらった。後編について彼女に訊いてみると、「分かんない。捨てたんじゃない?」とのこと。思い入れの乖離が辛い。

 とにかく、だからこの話の真相部分というのが不明なままなのだ。にも関わらず、僕はこの話と挿絵に入れ込んだままであり、たまに後編を探して古本街をうろうろしたり、古本市が開かれたと聞けば飛んでいって血眼になって探したりしている。なにせ、挿絵も儚くて美しいし、文体もふわりと優しくありながらどこか耽美的で、読んでいて酩酊するかのような中毒性があるのだ。文学としての完成度も高いと思う。夢零社という版元の出版社が倒れていなければ、きっと今も版数を重ねていただろう。ちなみに復刊支援サイトで、ほぼ毎日リクエストを繰り返している。

 そこまで入れ込んでいる本の主人公にそっくりな人が目の前に現れたのだ。それはもう、ちょっと好きになってしまうだろう?

 ……でも、それだけではないような気がしていた。男性が好きだという僕の性向を見抜いたあの目。気にせぇへんし、と安心させるように微笑んでくれた笑顔。思い返すたびに、心がふわりと浮足立つ感覚がした。口達者でフィーリアみたいではないけれど、でも同じくらい優しい人な気がする。まだ一回しか会ってないけれど。

 次のバイトでも会えたらいいな、と乙女チックなことを考えながら眠りにつく。

 

 次に会ったとき、先輩は蛸部屋で王子様の格好をしていた。

「何かの冗談ですか?」

 あまりの感激に思わず口を滑らせると、しょげかえる先輩は悪いふうにとったのか、

「うるへえうるへえ! お前も無関係やあらへんで! 王子Bの刑にしょす!」

 とわめいた。

 話を聴くとこういうことらしい。再来週から遊園地は期間限定のヒーローショーをすることになったのだが、適当な俳優がなかなか見つからない。そこで園内スタッフから探したところ、年頃の男がいるではないか! これはちょうどいい!……ということで、僕ら二人がヒーロー役に選ばれたのだとか。小さな遊園地らしい。

「処されます」

「なんややる気マンマンやな……。まぁそっちのほうが園長も喜ぶやろ。ドリーム王国を守るためにがんばろうな」

「はい!」

 がっくりうなだれる先輩。舞台に立つことに慣れているはずなのに、何がそんなに嫌なのだろう。その理由を訊いてみようとしたが、ノック音が聞こえてきたため後にすることにした。蛸部屋に園長が入ってきて、額の汗をパンダの手ぬぐいで拭いながらにこにこと笑う。

「瀬野くんよぉ似おうてるやん! あ、芳賀くんおはよう。もう瀬野くんから概要は聞いてるやろ? せやろと思った。再来週からヒーローショーすんねん。やってくれる? おっしゃ、ええ返事や。内容は簡単やから心配せんでもええで。んじゃ、芳賀くんはこっちの衣装着てな」

 手渡された衣装を見る。青系統だ。素材は薄手だが、それは可動性を意識してのことだろう。先輩は白を基調として金の飾りがついた意匠だ。すごく似合っている。

「なんや芳賀」

「似合ってます」

「そらありがとう」

 口では喜びながら、浮かない顔の先輩。

 本心を聴くためにしばらく黙っていると、やがて先輩は再び口を開いた。

「……でもな、ちゃうねん。こんなんで目立ってもしゃーないねん。俺は漫才師やから笑われてナンボや。格好ええ役のイメージついてもうてもあかんし、あんまやりたくなくてな」

 そういうことだったのか。

 ……先輩の演じる純真無垢な王子様を見たかったが、それよりも優先されなければならないのは先輩の意思だ。

「……ならこうしましょう。こうすれば先輩に格好いいイメージが付くことなく、お二人の知名度アップに繋がるのではないかと」

 先輩がはっとした顔をして、耳打ちするために口に手を当てて近づく僕の口元に、耳を寄せた。その素直さにどきりとしたのは内緒である。

「ええっと、いいですか?……」


「いやー、いい舞台だった! 瀬野くんは舞台慣れしてるやろうから心配はしてなかったけど、芳賀くんが未知数やってん。それがあんなしとやかなプリンセスに化けるとはなぁ……。おっちゃん感無量や。台本の大幅改定を芳賀くんから打診されたときはひやひやしたけどな。しっかし瀬野くんの2.5枚目っぷりはよかったなぁ! 素のおちゃらけた瀬野くんにぴったりやった。それに花田さん! 突然のアポイントを快く受けてくださってありがとうございました! いい怪人役でしたわ……。程よく雑魚、程よくしつこい! 最後はいい負けっぷり! それに途中の二人の掛け合い! お客さんにとったらタダであんなにおもろい漫才見さしてもろてほんまに」

 打ち上げの席で園長が上機嫌で喋りまくるのを、お地蔵様みたいな微笑みの花田さんがにこにこと聞いている。僕も側に寄っていって頭をさげた。

「すみません、お会いしたことがないのに無理を言ってしまって」

「いいのいいの! なんや瀬野がゴネたんやろ? こっちこそ悪かったなぁ、思案させてもうて。これで綿貫露店の知名度もちょっと上がったかもやし、むしろありがたかったわ。ありがとう、芳賀くん。ほら、瀬野もお礼言い」

 ぐいと頭を押し込められる先輩。

「おわ! そんなんせんでも頭さげるわ!……ありがとう芳賀。お前のおかげでほら」

 スマホ画面を見せてくる先輩。

 Twitterの検索結果画面には、「綿貫露店がドリームパークでコントやったって」「子ども連れて行った遊園地でヒーローショーやってたんだけど、あの俳優の人たち綿貫露店? っていう漫才師だったらしい。中々よかった」「えっえっ綿貫露店が遊園地でコント!?!? ちょっと見たかったかも」……などのツイートが並んでいた。

「けっこう知名度ありますね」

「せやで!! 売れっ子若手芸人やで!! バイトはしてるけどな!!……まぁよく劇場には立ってるからな。草の根運動が効いてるんやと思う」

 先輩の真摯さに、僕は尊敬の感情を抱いた。決してビジュアルで売ろうとしない先輩の、実力に対する確かな信頼が伝わってきたからだ。

「先輩、真面目ですね」

「やめて、お調子者で通ってんねやから」

 日本酒を傾ける先輩の横顔をじっと見る。とたんに頭が軟派に切り替わってしまう。酔ったふりして触れられないだろうか。あなたの明るい瞳。頬。

「なにじっと見て。酔おてんの? 大丈夫? 帰れんの?」

「分かりません……」

「しゃーないなぁ」

 先輩はやおら立ち上がり、園長と花田さんに「ちょっと芳賀風に当たらせてきますわ」と一言言って、僕の脇に手をやった。ちょっと待って、タイムタイム。願ってもみない状況だが、ちょっと心臓の音がバレる。

「先輩、大丈夫です、自分で立てます」

「ほんまぁ? 顔まっかっかやで」

 たぶん、お酒のせいじゃないんだろう。

 

 外に出ると、涼しい風が吹いていた。

「こんなとこに長椅子あんで」

 二人並んで座ると、長椅子はいっぱいいっぱいになった。

「芳賀」

「なんですか」

「お前がいてくれてよかった」

「どうしたんですかあらたまって」

「お前は賢いやつや。将来綿貫露店がラジオ持つようになったら、構成作家になってな」

それだけ言うと、先輩はこちらに体をもたせかけてきた。火照った熱が伝わってくる。突然の展開に頭が追いつかずに慌てていると、やがて幼子のような寝息が聞こえてきた。そうか、酔ってたのは先輩のほうだったのか。

 あどけない表情で眠る彼の頬にそっと触れる。ああ神様、これくらいは許してください。

 彼の肌は、僕の指先をあっけなく溶かしてしまった。この頬で何度笑い、泣き、愛されてきたのだろう。聡さと鈍さ、抜け目なさと無防備さ、自己主張と無私が混在するこのにぎやかな人の全てを知りたかった。最初は顔立ちに惹かれた。でももうそこは通り越してしまった。どうか彼が目を覚ました時、健やかな気持ちで起きられますように。

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