第44話 コウの"友達の話"
「それでもそいつはまだ幸運だよ。学費も家賃も生活費も、少なくとも大学卒業までは面倒を見てくれることを約束してもらえた。人によってはカミングアウトが原因で、縁を切られたり家から追い出されたり仕送りをストップされたりすることもあるらしい。そんな不幸の背比べに何の価値もないことくらいわかっていても、自分を慰める気休めにはなったみたいだよ」
俺たちは、静かにコウの話を聞いていた。
「それで、結局そいつは入学式には一人で行ったみたいだ。同じ大学に進学することになったパートナーや友人が、一緒に行こうかと誘ってくれたみたいだけど、それぞれご両親も来るって言うのに邪魔をしたら悪いからな」
コウは少し皮肉気に笑った。
「入学式自体は、感情さえ殺していればなんてことはなかった。ただ、困ったのはその後だ。入学式の会場の外は、サークルの新歓活動に集まった先輩たちでごった返してた。人ごみにもみくちゃにされながら、なんとか駅を目指して歩いているとき、一人の先輩に腕を掴まれた。それが女性ジェンダーだと分かった瞬間、うまく呼吸が出来なくなってぶっ倒れた。多分、自分でも気づかないうちにストレスをためていたんだろうし、緊張もしてたんだと思う。そこにたまたまだけど、女性ジェンダーに腕を掴まれたっていう事象が加わって、倒れてしまった」
そこでコウは一息つくと、乾いた口をぺろりと舐めた。
「それがトラウマになってしまったんだろうな。しばらくは女性ジェンダーに近づくだけでも冷や汗と動悸が止まらなくなった。ただ、これも本当に幸いなことに、比較的女性ジェンダーが少ない理工学部だったから、日常の中での接触は限りなく抑えられた。それから、当時付き合っていたパートナーや友人の支えもあって、今はすっかり克服したみたいだけど」
そう言って、コウは笑った。
「俺の"友達の話"は、だいたいこんなところかな」
コウは最後にそう言った。
長い語りを終えて、コウは残っていた烏龍茶を静かにのどに流し込んだ。誰も何も語ろうとせず、いつも余裕の笑みを浮かべているハルですら、難しい顔をして、じっと考え込んでいるようだった。
「……聞いてくれて、ありがとう」
コウがポツリと礼を言った。その表情はすこし悲し気で、しかしとても満足そうだった。みんなはこの話をどこまで知っていたのだろう。パートナーのハルは、全部知っていたのだろうか。
「こちらこそ、話してくれてありがとう」
涙声でそう言ったのはマヨだった。両親へのカミングアウトの話。マヨの"友達の話"の内容を思えば、この反応も頷けた。もしかしたら、この先マヨも経験するかもしれないのだから。
「うん。マヨの話を聞いて、俺はこの話をすべきだと思ったんだ」
言いながら、コウはマヨにハンカチを差し出す。マヨはそれを受け取ると、そっと目元に押し当てた。
「でも、ちょっと前の俺だったら、話すのは難しかったと思う」
そう言って、コウは俺に視線を向けた。それが言外に、『お前のおかげだ』と言ってくれているようで、俺は胸の内が熱くなるのを感じた。
「だからこそ、話せてほっとしてるんだ。きっとこれからも、この思い出は辛いものとして記憶されるんだと思う。どんな経験だって人生の糧になるって、言うのは簡単だけどさ。もし、通らなくていい道なら、通らないで済むんだったら、こうなるってわかってたら、きっと引き返してた。そういう経験があることを、誰かに勝手に美化されたくない」
それは悲しい経験、辛い経験を語る人に、励ましとして使いがちだ。でも、コウはそれを否定した。これは美談などではなく、あくまでトラウマの話だとくぎを刺した。きっとコウが求めているのは単なる気休めなどではなく、トラウマはトラウマとして、ありのままを受容することなのだ。
それがわかったからこそ、俺もありのままをさらけ出すことを決められた。
「……ごめん、最後だけは"俺の話"を聞いてくれるか?」
俺がそう言うと、みんなは黙って頷いた。俺はそれを確認して、ついに棚上げしていた問題の箱を開いたのだった。
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