第42話 ある冬の日の不協和音
「どうしたの急に」
母が戸惑いながらもそう言った。父の態度からはその心情を読み取ることは難しかったけれど、重要な話なのだということは伝わっているのか、その目はとても真剣だった。俺はゆっくり呼吸をすると、口を開いた。
「合格したら話そうと思っていたんだけど、実は俺、トランスジェンダーなんだ」
頭に浮かんでいる言葉を取り出すだけで、こんなに心に負荷がかかるものなのだろうか。頭と体と心がバラバラになったみたいな気がした。頭は妙にすっきりしているのに、口はからからに乾いていて、心臓の鼓動がうるさい。心は燃えているようでそれでいて冷たく冷え切っている。熱い炎を分厚い氷が覆っているような、不思議な感覚がした。
「な、に、それ」
母が途切れ途切れにそう言って、明らかに動揺していることが窺えた。一方、父は相変わらず不動の姿勢を崩さない。
「トランスジェンダー。俺は自分のことを男だと思っている」
母は黙り込んでしまった。視線をさまよわせて、目の前の現実をどう受け止めるべきかを必死に考えているようだった。誰も言葉を発さず、身動ぎ一つせず、そのまま膠着状態が続く。父が淹れてくれたコーヒーの香りと湯気だけが時が止まっていないことを教えてくれた。
「そうか。
しばらく静寂が続いた後、今度は父がそう言った。その一言がどれだけ嬉しかったか分からない。俺は緊張が解けて、涙腺が緩むのを感じた。
「ありがとう、お父さん」
その言葉は先ほどよりも震えていた。俺は目元を乱暴にこすると、大きく息を吐いた。話はここで終わらない。終わらせるわけにはいかないのだ。
「それで、これから治療を始めたいと思っている」
俺は言葉を続けた。
「治療?」
父がそう聞いてきた。俺は今日まで自分が調べてきたことを説明した。精神科の診療やホルモン治療、性別適合手術などについて。両親はその間、黙って俺の話を聞いていた。
「だけど、大学はどうするんだ」
父が眉間にしわを寄せながらそう言った。情報を整理するために頭をフル回転させているのだろう。
「治療と並行にはなるけど、大学にはきちんと通うつもり。手術は長期休みを使えば問題ないと思う」
ある程度想定していた質問だったので、用意していた回答をする。
「しかし、いきなり見た目が変わったら周りから何か言われるんじゃないか」
この質問も想定済みだった。
「大学には最初から男として通いたいと思っている」
バンッ!
その時だった。母が強く机に両手を打ち付けた。かなり大きな音がして、父も俺も驚きに身をすくめる。
「さっきから何を勝手なことを言っているの」
母のそれは怒りだった。
「おい」
父がたしなめようとしたが、母はそれを振り払った。
「お母さんは絶対に認めないから! 治療って、病気でもないのに」
母の声は震えていた。それは怒りによるものなのか、悲しみによるものなのか。それでも、俺は俺のために、自分の人生を生きるために、ここで引くわけにはいかなかった。
「病気じゃないけど、治療が必要なんだ。俺が俺でいるために」
しかし、母はこの言葉に激昂した。
「"俺"って言うのをやめなさい!」
それは強い強い拒絶だった。
「……どうして?」
俺は静かに聞き返した。
「だって、だってあなたは女の子なのよ?」
母はそう言って泣き始めた。思えば母が泣いている姿を見るのはこれが初めてかもしれない。気丈な母だった。自分にも他人にも厳しく、常に完璧のその上を目指していた。そんな母に、今の自分はどう映っているのだろう。
「ごめん、でも、"俺"は"女の子"じゃない」
自分は自分だと主張することが、こんなにも人を傷つけてしまう。しかも、それはどうでもいい誰かなどではなく、血を分けた親なのだ。
「そんなはずないわよ。どうしてそんなことを言うのよ?」
その一言一言が、自分らしくあることを否定されているように感じた。決意が揺らぎそうになる。それでも、後戻りをしてはだめだと、俺の中の一番深いところが叫んでいるような気がした。
「ずっと、辛かった」
口が鉛のように重く感じた。口を開くのが怖かった。それでも伝えなければ伝わらない。
「ずっと違和があって。年を重ねれば重ねるほど、それは強くなった。身体が変わっていくことが辛かったし、"女"を認識させられる度に、本当は違うって心が叫んでた」
心を空っぽにして、聞かれたことに答えることに集中した。そうでなければくじけてしまいそうだった。
「だけど、あなた女子校に通えたじゃない。6年間も。平気だったじゃない」
なんてむなしいやり取りだ。ただ俺がそう思うから。どうしてそれではダメなのだろう。どうして証明しなくてはいけないのだろう。疑われなくてはいけないのだろう。何が間違っていたのだろう。まるで沸騰したお湯の中に次から次へと浮かんでくる泡のように、頭の中に発生する疑問。それらに全部蓋をした。
「平気じゃなかった。ただ強がってただけなんだよ」
気が付くと、俺の頬も濡れていた。理性的に話したかったのに、こればかりはどうしようもなかった。
「……でもあなた、
「え?」
その言葉にひどく動揺した。なぜここでハルの名前が出てくるのだろう。驚きすぎて涙も言葉も止まってしまった。そんな俺の態度に、やっと突破口を見つけたと思ったのか、あるいはどう考えを巡らせても、これこそが証明だと考えたのか。母はこれを好機と畳みかける。
「そうよ、そうじゃない。
そう言って、母は満足げに笑った。俺はついに痛み始めた頭に鞭を打って、諭すように言った。
「確かに俺は
すると母の怒りはまた再燃したようだった。
「関係ないはずないでしょう!
その物言いが、自分は絶対正しいと信じて疑っていないようで、俺は自分の心にも火が付いたのを感じた。
「『女の子の方がいい』って、何? 俺が男で
俺がけんか腰になったからなのか、母の心の炎はますます燃え上がったようだった。
「問題大有りでしょう! それはホモってことよ!」
その言葉に一瞬我を忘れて、気が付くと俺は母に掴みかかっていた。
「
その時父が止めてくれなかったら、俺は何をしていたか分からない。それでも、この行動はお互いをクールダウンすることに貢献した。親に掴みかかってしまったという罪悪感と、子に掴みかかられたという驚愕が、お互いの熱を下げたのだ。
「……ごめん」
俺はいつもそうだった。沸点が低い。それが生来のものなのか、普段抑圧されているからこそなのかはわからなかったけれど、カッと頭に血が上ると攻撃的になってしまう。母は乱れた襟元を直すと、静かに言葉を発した。
「お母さんは
そんなことは言われなくても痛いくらいわかっている。わかっているからこそ辛かった。自分のせいで愛する人が苦しむなんて、そんなことは耐えられない。それでも、これから一生自分を欺いて生きる方が正解と言えるのだろうか。どこにも逃げ場がない袋小路で、じっと膝を抱えて生きるのか。今までも、これからも。
「『俺のため』って、何?」
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