十四
第30話
鍋に水を入れてコンロにかける。先日買った野菜を出して軽く洗う。レシピを一度見返すと重たい包丁を出した。
ニンジンは銀杏切り。最初に皮を剥きましょうとある。包丁をその表面に当てると、端末がニンジンの皮を識別し、疑似的に青く染めあげた。
刃の先が震える。料理なんて経験無いから、包丁だって始めてだ。深く切り込めば安全に皮を剥ぎ取れるが、それでは量が減ってしまう。なるべく薄くしたいが、ニンジンは持ちにくくて安定しない。何度か刃の場所を変えると、唾を飲み込み力を込めた。
「料理ですか。お昼にしては早いですね」
思わず悲鳴を上げる。ニンジンは深く抉られ、指先に小さな切り傷が浮く。何事も無いように見えたが、見る間に赤い血が溢れ洪水となる。
急いで水で洗い流す。洗えども洗えども血は溢れ、水と一緒に流れ出る。
大丈夫ですか、の質問に無理に笑って誤魔化す。しかしセラフは私の手を掴むと、椅子の上に座らせた。
「痛そうに。結構深くいきましたね。無理に料理しなくても良かったのに」
「でも」
「まずは消毒です。痛みますよ」
内から切り裂かれるような。鋭い痛みに歯を喰いしばる。スプレー式の消毒液をこれでもかと吹き付けて、絆創膏を取り出す。ガーゼを傷口に当てると、丁寧に巻き付けた。
「もう大丈夫です。後は僕がやりますので待っててください」
有無を言わせぬ様子で言ってから彼はキッチンへと入る。火にかけたままの鍋を下ろし、包丁を洗い流す。最後に抉れたニンジンを二本の指で摘みあげると、ゴミ箱へと放り込んだ。
「急に料理なんて、どうしたんですか」
絆創膏に指で触れる。
この国に来て多くの人たちを見てきた。誰もが働きカネを得ている。私一人が何もしてないような気がして、何かしないと、そう思った。初めての料理だったから失敗だけは予想していたものの、まさかセラフに止められるとは思わなかったが。
「何もしなくてもいいんです。アナタはこの国に来て自由になった。コンピューターが介入しないこの国で、アナタはアナタの幸福を感じて頂ければそれで良い。それとも、スズネさんは幸福だと感じていないのですか?」
セラフは包丁を戻す。そして後ろから私の肩に手を乗せる。
絆創膏から指を離し、手を組み膝に挟み込む。巻いたばかりの絆創膏に赤色の血が滲むのが見えた。
「大丈夫。幸せだよ」
視界の端に灰色の影が映り込む。目だけを動かし見てみれば、遠く離れた部屋の隅でうずくまるシズクの姿があった。
「なら良かったです」
うす暗い部屋の隅でシズクの両目が鋭く光る。私はそっと目を伏せ、肩に置かれたセラフの手へと手を伸ばす。
「ずっと考えていました。このままアナタとこの国で、一緒に暮らす生活がどれだけ幸福な事か。スズネさんさえ良ければ、このまま一緒に暮らしませんか? 何一つとして不自由なんてさせません。日本に居た時と同じくらい。いいえ、日本にいた時以上に。僕が必ず幸福にしてみせますから」
腕を私の首へと回す。彼の言葉に何も答えず、黙って彼から手を離した。
「そろそろ出ないと。おカネは置いていきますので、お昼は自由に食べてください。夕方頃には戻る予定です」
しばらくそうしていた後に、腕を解いて鞄を取る。行ってきますと彼は言って、扉の奥へと姿を消した。
どこか遠くでクラクションが鳴る。この国は日本よりも騒々しい。だが、わずか数日で慣れた。救急車や消防車のサイレンだって同じだった。雑音の多いこの国で、サイレンの一つや二つ程度なら、雑音の中に紛れてしまう。
「おいでシズク。お出かけしよ」
暗がりの中、頑なに動こうとしないシズクに向かって微笑みかける。帽子を取ってシズクの前で膝をつくと、そっと片手を差し出した。
「そんなに拗ねないで。さぁ、行こ」
鼻先を動かしながら、ようやくシズクが出てくる。しばらく匂いを嗅いだ後、満足したのか。私を見上げて高い声で鳴いた。
立ち上がり、外に出る。エレベーターのボタンを押して到着を待つ。空っぽのエレベーターはすぐに来た。扉が閉まりかけた時、シズクが尾を立て入ってきた。
「二人でお出かけするのは久しぶりだね。どこへ行きたい?」
いつもはセラフが横にいた。出かける時も、家にいる時も。シズクはいつも隅に引っ込んで、姿さえ隠してしまっていた。だから今日は、と思ったのだった。
ビルを出る。
可愛らしい声で鳴く。まっすぐ立てた尾の先だけを魅惑的に揺らしながら、海のように青い瞳で見上げている。
「大丈夫、今日はずっと一緒だよ」
もう一度シズクは鳴くと、足取りも軽く歩き出した。
シズクを追って、どことなく、当てもなく。街の中を彷徨い歩く。考えも碌に纏まらぬまま歩き続け、気づけば平和門の前だった。
誘われるまま路地へと入り、急な石段に足を掛ける。自動車の走る音からも、喧騒からも遠く離れて、木漏れ日の中を一段一段登っていく。
色の剥げた鳥居を抜ける。風吹く度に枝葉が擦れる音が響く。姿も見えない鳥の声。土と木と青い草葉の香り。歩く度に草花の中から小さな虫が跳ねて逃げる。椿の花咲く参道の脇には一体限りの石のキツネが鎮座して、更に先には古びた社が建っていた。
苔の生した屋根の下、崩れかけた木箱があった。達筆で賽銭箱と書かれた箱と、黄銅色のコインがあった。中央に穴が開けられ、稲に海に歯車の三つが描かれた代物で、漢字二字で五円と刻印されていた。
賽銭箱に投げ入れる。
あちらこちらに跳ねまわり、落ちる音が箱の中から溢れ出す。ぶつかりながらも箱の底の穴から飛び出し、元いた場所に納まった。
手を合わせる。そして目を閉じる。
少しの間、お邪魔しますと、心の内で囁きかけると目を開ける。
風が吹き、揺れる木漏れ日が社を照らす。暖かな光の中で、シズクがおいでと私を呼んだ。
誰かが置いた椿の枝葉に、一輪の花が咲く。赤い花弁は寄り添って、一枚たりとも欠けてない。私は花を手に持つと、縁に腰かける。
シズクを見れば、暖かいでしょ、とでも言いたげな、鼻持ちならない表情だった。それがあまりに面白く、そして可愛らしい。
青い目を見つめながら円みを帯びた耳を揉む。
付け根から外に向かってゆっくりと。痛くないよう丁寧に、力を抜きつつ撫で上げる。その度シズクの瞼が下がり、息遣いが荒くなる。鼻息にも似たゴロゴロ音を奏でながら、もっともっとと顔を寄せる。
耳から頬へ撫でながら、鼻の下の膨らみをモチモチ触れる。そのまま顎へと指を滑らせ、首から背中へと流す。
「ごめんね、あまり構ってあげられなくって」
セラフは悪い人じゃない。むしろ優しく、色々と手を回してくれる。とても嬉しく有難い。世界中を探したって、あれ程の人はそう居ないはずだ。
だけどたまに考えてしまう事がある。もしも日本に残っていたら、私はどんな選択をしていたのだろうと。
最終幸福追求権。どうしても幸福になりえない人への死の権利。
日本にいて、私は幸福だっただろうか。
この国に来て、幸福になれただろうか。
椿の枝を指先で軽く回す。玩具だと思ったのか、シズクが前足で触れる。本物の椿の花はシズクの干渉を受けず、深紅の輝きを放つ。
シズクの身体を抱き上げる。柔らかく、そして温かい。
呼吸に合わせて膨らんでは縮む。人間よりも小さいながらも脈打つ鼓動は明瞭に、肌と耳から感じ取れる。シズクは暴れる事もせず、されるがままに、ただひたすらにモフられ続けていた。
冷たい空気に身を震わせる。
顔をあげれば、太陽は既に傾きかけて空が赤く染まっていた。いつの間にか寝ていたらしい。シズクは膝の上で丸くなり、目を閉じたまま大きな欠伸を見せる。椿の花弁が散り落ちて、風に吹かれて舞いつつ消えた。
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