(8)伯爵の追想・封じられたおとぎ話
【封じられたおとぎ話】
幻燈魚・
「何故、涙を流す」
「悲しくて、寂しくて、仕方がないのです。あなたは
以下にも、我輩はこの
「可哀想な蔦郎。彼は今、ご乱心なのです。元は村の長に相応しく立ち振る舞いの良い快活な男だったのですが、妻を病で亡くして以来、自我を喪失していたのです。そんな彼にも寄り添って心身を快復させようと私達の群れから一匹、妻の姿になることを志願したものがいたのですが……」
九唄螺の声色が震える。
「妻の姿となったそのものは蔦郎にとっては只の魚。この世に生を受けた時から幻燈魚を育ててきた一族ですから、本当の妻ではないのをよく知っていますし、考え方に大きな差異が見られたのでしょう。心が病み、疑心暗鬼に陥った蔦郎は妻の姿をした幻に向かって斧を振り下ろすようになったのです」
「幻……? 振り下ろした斧はハントウさまとやらには当たるのかね?」
九唄螺が首を振った。
「振り下ろした斧は空切る。そんな蔦郎を妻の姿をした魚は諦めずに慰めようとしたのですが、彼はついに幻を創り出した元である魚を……殺してしまったのです。ああ……彼が犯した行いを口に出すのが恐ろしい……かねてより柳井家で禁忌とされてきた幻燈魚を食す行為を彼はやってのけたのです」
足元がぐにゃりと唸った。石畳が敷かれていた硬い地面が波打ち、突如我輩の身体は液状と化した地面に沈んでいった。
「うぐおっ!」
水飛沫を上げる石畳の下は透き通る青々とした水中だった。口から漏れた
我輩の傍には九唄螺がいて、手をかざすとまるで魔法を唱えたかのように風景が水中からどこかの住居へと様変わりする。
二人は畳の間にふわりと着地した。これは、柳井家の屋敷だろうか。
「あの光景は、私だけでは抱えきれない……」
「……」
目の前には柳井蔦郎がいた。こちらの存在には気付いていないようで、我輩達は過去の記憶を見ている、ということになっているようだ。
蔦郎は、クチャクチャと音を立てながら何かを
壁に腕を叩きつけている際に見えたのだが、彼の口からは幻燈魚の長い尾のような物がはみ出していた。四千年を生きた我輩でも
「錯乱しているのか。まるで阿片喫煙者だ」
「そうです。彼は幻燈魚を食すことによって快楽を得ることに気付いてしまったのです。そして……私以外の幻燈魚は皆、彼に殺され……」
「……最後の生き残りがそなただけとはな」
「いえ、まだ生まれたばかりの稚魚がいます。村から急にハントウさまがいなくなったことで疑問に思った村民達が柳井家に押し寄せるのですが、蔦郎は知らぬ顔をするのです。罵声を浴びせることもありました。村民の不信感が募っていくことを危惧した彼はやがて……私に村民の頭を
「出来るのか」
九唄螺はコクリと頷いた。すると霞が晴れていくかのように屋敷の風景が霧散して夜の渡里神社の境内に戻っていた。
「……なら、育ての親である柳井蔦郎の記憶を消してやったらどうかね。そうすれば万事解決ではないか」
「もちろん実行しました。何度も、何度も……。けれども、幻燈魚を食した彼の頭は既に壊れていて、記憶を消す度に凶暴性が増していきました。彼は二度と元には戻れなくなったのです。そして今、魚である私の目の前で彼は脅迫している。『今すぐに村民全員の記憶を消せ』と。稚魚である私の子らが泳ぐ水槽に毒を流そうとしている」
「なんだと……」
「私は蔦郎の言いなり。そして今、それを実行しようとしている。我が子らは何も知らない何も罪が無いのに。無様に殺されてしまうのは私には耐えられません」
九唄螺が我輩にニコリと微笑んだ。
「さあ、今すぐここから立ち去りなさい。村を出て、川を越え、遠く、遠くの地へ。願わくば私の子らが伯爵の手で救われることを願います」
「待て、待つんだ! 何か他に手は無いのか! そなたはいま何処にいるのだ!」
九唄螺の姿がフッと消えた。まるでろうそくの火を吹き消したかのようだった。花の香りも無い。今ここにあるものは人気の無い境内と暗闇の中で風に吹かれて葉が擦れざわざわと音を立てる山林だけだった。
月が雲に隠れ、真の闇と化した渡里神社の境内を我輩は駆け出した。向かうのは渡里村の船着場である。手持ちの懐中電灯の明かりをつけて一心不乱に不慣れな山道を駆け降りていった。
「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ」
村民達に事の成り行きを語る暇も無い。幻燈魚である彼女らを救えるのは今この瞬間記憶を保持できた者だけだ。
九唄螺は我輩を幻想の世界へと連れていく事ができたのだ。人の思考を組み替える力が備わっているのは確実で、例え四千年分の生と知恵を持ってしてでもその力に抗えるすべなど何処にも無いと思われた。
少しでも早く走れるように私物を捨てながら走った。トランクケース、銀のステッキ、ハットやジャケット……。懐に仕舞い込んでいた懐中時計だけはどうしても手放せず鎖を首にかけた。船着場に到達した時にはシャツにパンツ姿であり、靴は履いていなかった。
もちろんこのような時間に渡守はいない。我輩は北上川に飛び込み、泳いで対岸の電飾の明かりが煌めく旧寛木町へ水飛沫を上げながら全速力で泳いだ。
背後に閃光が走り、我輩は振り返った。金色に仄かに輝くドーム状の膜が村の中心に出現した。それが次第に膨れていく。
──呑み込まれる。
戦慄した我輩は水中をもがいた。少しでも、少しでも遠くへ! 九唄螺の言葉を思い出す。川を越えろと。この速度では到底間に合いそうになかった。
ドーム状の膜が背後のすぐ側まで近づき、顔をしかめ諦めかけた。
その瞬間、泡が突然音も無く弾けた。
光の粒が空へと舞い上がって消えていくのを我輩は波に揺られながら呆然として見つめることしか出来なかった。
九唄螺が直前で手助けしてくれたのだろうか。その真相は今になっても分からないのであった。
○
三日後、旧寛木町にある小さなホテルのロビーにて我輩の元に戻ってきた使用人・
ボロボロのシャツにパンツ姿、靴下は川を泳いでいた際に脱げてしまい、片方しかなかった。
「追い剥ぎにでも襲われたような身なりですね」
「諸事情により衣服や貴重品を捨てなければならない状況にあったのだ」
「でもホテルに宿泊できたのですね」
「財布だけは肌身離さず持ち合わせていたのでな。その辺の店で服を買おうにも英国紳士である我輩に合うサイズの物が見当たらなかったのだよ」
○
『幻燈魚・九唄螺に関する記憶』を我輩は保持することに成功した。だが、今すぐにでも渡里村に足を運ぶのは身の危険を案じて
我輩が逃走中に捨てていったものは所在不明になっていた。これは仕方がないが、村民達と会話をしても我輩に会った記憶は持ち合わせているのに幻燈魚に関する記憶は全て消失していた。
戸口に魚の絵が描かれた木札を掲げている意味が分からず、取り外してしまう家屋が何戸かあった。
村の長である柳井蔦郎の屋敷に向かうのことに尻込みした。彼は恐ろしい人間だ。何らかの刺激を与えてしまうことを懸念して、彼に会わないようにした。九唄螺の子らが蔦郎の手中にあるうちは手を出すべきではないと判断した。
「そんなことがあったのですね」
時子が寂しげに空を見上げていた。
「我輩は、幻燈魚・九唄螺に対して何か出来ることはないか模索していく。例え、九唄螺を救えなくても彼女の子らが柳井家の元から解放出来る手助けをしたいのだ」
村を囲うドーム状の膜を思い出す。記憶を消されたのは渡里村に住まう村民だけだ。なら、村の外に移り住んだ者達はどうだろうか。彼らの知識次第で村民達の記憶再起のきっかけになり得るのかもしれない。
我輩は九唄螺の意志を継いで柳井家の下から幻燈魚を解放するべく、毎年のように寛木町に──星川家の住まう民宿『満月荘』に訪れるようになるのであった。
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