第9話 逃走

「台湾にも大きいのムカデいますが、こんな大きくないです」


 中に入ってきた鍾さんは、全身が白い液体に塗れていた。さっき仕留めたムカデの返り血だ。チェーンソーを床に置いた鍾さんは、身を震わせながらガスストーブに掌を当てた。緊迫した状況の後とあって、鍾さんのどこかおかしみのある台詞に、俺の強張った顔の筋肉が少し緩んだ。


「鍾さん、どこに行ってたんですか」

「すみませんでした……」

「いや、そういうわけではなくて……気になったので」


 咎めているわけではない。俺は単純に、今まで彼が何をしていたのか気になった。


「あー……話すと少し長くなります」


 鍾さんは、はぐれた後のことを語った。


 ムカデによる最初の襲撃で、俺と白石、鍾さんは一旦離れ離れになってしまった。この時、実は鍾さんも俺に少し遅れて外に出ていた。ただ、走り出した方向が逆だった。駐車場に向かった俺と違って、鍾さんはこの別棟に向かって走っていた。

 別棟の方に走った鍾さんは、そのまましばらく壁にもたれかかって身を休めていた。連日の寝不足が祟って眠気に襲われたものの、こんな寒い場所で眠っては命にかかわる、と、鍾さんは自分の頬や腕をつねったりしながら耐えたのだという。

 しばらく後のこと、鍾さんは敷地外の針葉樹林から、先ほどのものよりさらに大きなムカデが出てくるのを見た。鍾さんの故郷にはムカデが多く、祖母から「ムカデは目が悪いんだよ。だから動くものが目の前にいると自分の子どもでも襲っちまうのさ」と聞かされていた鍾さんは、ゆっくりゆっくり、なるべく足音を立てないようにしながらその場を離れ、別棟の北側にある小さな納屋に隠れた。

 納屋の中からじっと外を眺めていた鍾さんは、鮫島が別棟から出てきて、こちらに向かってくるのを見た。納屋に何かを取りに来たのだろうか。しかし、さっき見たのと同じムカデが、高速で鮫島に接近してきた。鮫島は何の抵抗もできず、ムカデの吐く白い息に包まれ、そのまま雪の中に突っ伏した。

 その後で、自分を呼ぶ声が聞こえた鍾さんは、仲間と合流すべく納屋から出ようとした。とはいえ納屋のすぐ近くをまだムカデがうろついていて、出ていくことができない。

 仲間たちが別棟に入っていくのを見た鍾さんは、納屋で見つけたチェーンソーを武器代わりに持った。そして納屋からムカデが離れたタイミングで外に出て、別棟へと向かった。すると、さっき鮫島を襲った例のムカデが、別棟の窓を割って侵入するところに出くわした。これは危険な状況だ、と意を決した鍾さんは、仲間を助けるべく、チェーンソーを手にムカデに襲いかかった。


 ……という経緯いきさつであった。


「俺たちが鮫島を見た時、マジで危なかったんですね」

「ムカデはそこまで感覚器官に優れてはいない。せいぜい地面の振動と、嗅覚ぐらいが頼りだ。ラッキーだった、というべきか」


 言いながら、メグミさんは散弾銃に弾を込めた。


「さて、こんなところさっさと出ましょう。メグミさん、車お願いします」

「……浩司がいない」

「えっ……マジですか」

「あいつ、箱を持って逃げやがった」


 メグミさんの言う通り、白石の姿が消えていた。さっき鍾さんが入ってきた時にはまだいたはずだから、ムカデに襲われたのではない。

 俺たち三人は、別棟を出て駐車場に向かった。さっきまで真っ暗であった空に、赤い光が差してきていた。

 吉崎たちのものと思われる黒いワンボックスカーが、目の前を横切った。その運転席には、確かに白石の姿がある。俺たちの気づかない内に車の鍵を持ち去ったのだろう。あの箱を持って、そのまま逃げる気だ。


「待て!」


 メグミさんは銃を構えて叫んだ。だが、車は止まることなく道路の上を走り去っていく。

 車が敷地の内外を区切る門を出て山道に乗ったところで、銃声が聞こえた。メグミさんが発砲したのだ。自分の甥にためらいもなく引き金を引いてしまうところに、俺は恐ろしさを感じた。

 銃弾は後輪辺りに命中したが、車は止まらない。その影はどんどん遠ざかっていく。あのホルモン剤は、白石の母親が開発したものだ。親が生命をかけて生み出した研究成果を否定したくない、という心理が、彼を突き動かしているのだろう。


「あいつの車に逃げられたらまずい。ホルモン剤を処分しないと、また新たな化け物が生まれる。こっちも車で追いかけよう」

「分かりました」


 メグミさんに続いて、俺も駐車場に向かおうとした。その時のことだった。

 突然地面が、どしん、と跳ねるように大きく揺れた。


「あれ見て! 見てください!」


 鍾さんが太い指をさした先……山道の脇の針葉樹林。黒い土と白い雪を跳ね飛ばして、は地上に飛び出した。


 これまでのものとは、比べ物にならないほどの巨躯。そいつが何十もの脚を波打たせ、純白の体をくねらせながら、針葉樹林から這い出てきた。


 俺は全く声が出せなかった。恐怖というよりは、ただただ圧倒されていた。その巨大な怪物が牙を使って白石の車を掴みあげ、天高らかに持ち上げる様を、ただ唖然として眺めていた。

 ムカデは首を縦に振って、車をぶん投げた。針葉樹林に落下した車に向かって、ムカデは高速で接近する。そして、フロントガラスを突き破ったムカデは、車中でごそごそと頭を動かし始めた。恐らく、中にいる白石を食らっているのだろう…… 

 

「こんな大きいと、固定資産税取られそうです」

「その日本語どこで覚えてきたんですか……」

「まるで三上山みかみやまの大百足みたいだ」

「何ですかそれ」

「知らないのか。藤原秀郷ふじわらのひでさとに討伐されたという伝説の巨大ムカデだ。山を七巻き半する大きさだったそうだ」


 メグミさんの語る昔話のことはよく分からなかったが、神話にも巨大なムカデが登場していたということだろう。

 鍾さんもメグミさんも、怖がっている様子は全くない。恐怖を押し殺しているのか、それとも異常な事態にあって恐怖心が麻痺してしまったのかは分からない。ここまで現実離れしたものを見てしまえば、驚くべきものに驚かず、恐れるべきものを恐れなくなるのも無理はないだろう。

 ムカデの背後から、日が昇ってきていた。雪が降っているにも関わらず東の空は晴れているのだろう、青黒い夜の闇が、赤い陽光に取り払われていく。後光のように太陽を背負ったムカデが、純白の背甲を光らせていた。

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