20Rの向こう側

大谷寺 光

第一幕:走る

 大輔が右足にグィと力を籠めると、慣性力という物理の法則が彼の血流を滞らせ、十分な酸素の供給が途絶えた脳が、軽い貧血のような症状でその苦境を伝えた。しかしそれは、彼のような職業を生業とする者にとっては、むしろ心地良いG変化であり、その先のクリッピングポイントを通過した後に訪れる、爆発的な加速への序章に過ぎない。そのクライマックスに向けての準備段階として、彼は今、胸が高まる想いを抑えつつ、慎重に進行方向を模索していた。


 彼の右脚は爪先でマイナスの加速度をコントロールしている。それは計器類から視認される情報だけに頼るのではなく、むしろ全身に感じる減速Gや振動、更には耳に飛び込んでくる音なども含めた総合的判断から状況を的確に把握し、制御不能に陥る一歩手前を綱渡りのように走り抜ける芸当だ。

 その一方で右脚の踵は、左脚と左腕を交えた三者の共同作業によって、段階的な機械操作をスムースな速度変化に変換し、発生する減速Gの制御に一役買っていた。


 そこに彼の両腕による円運動の仕事が加わり始めると、減速に伴うG変化に加え、横方向の加速度が加わった。それによって振動に変化が起き、聞こえている音も変わった。両腕に伝わるステアリングインフォメーションも、車両が急激な回頭を開始したことを告げている。

 横に持っていかれそうな自身の身体をタイトなシートに固定させ、ヘルメットで重くなった頭は首の筋力で抑え込む。ヘルメット越しに聞こえるスキール音にも神経を尖らせつつ、路面とタイヤ間に発生している反力に想いを馳せ、許される限りの上限の速度でコーナーに突っ込んでゆく。


 今日はコース脇で風に揺れるタンポポが目印だった。そういった目印とはいつも同じ物ではなく、時にコース上に残された特徴的なスリップ痕であったり、アスファルトの細やかな亀裂であったり、或いはコース脇に転がる変わった色の石ころであったりする。

 この日は黄色く可憐な一輪の花を目印として大輔の行うべき操作が切り替わり、彼を取り巻く世界が大きく一変するのだ。そのコーナーでの最大Gを迎えた瞬間、大輔はヘルメットの中でほくそ笑んだ。


 「もう少し攻めても大丈夫かな? じゃぁ、タイヤが温まった次のラップで」


 減速から一転、加速に転じた彼の操る白いGOLF GTIは、大きくロールした車体姿勢を復元させつつ、徐々に速度を上げる。大輔の右脚は既に中央のペダルに別れを告げ、右側のペダルに添えられている。それが司るアクセル開度も、減速時と同様、全身の感覚を研ぎ澄まして得られる情報を元に、慎重にコントロールされていた。

 素人が「ガツン」と踏み込むアクセルワークでは、一気に上昇したエンジントルクがタイヤのグリップ力を超え、車輪を空転させてしまう。そうやって発生するホイールスピンは見た目には派手だが、トラクションを失ったタイヤには車体を前に押し出す力も ──勿論、車体を止める力も── 或いは、車体の進行方向を決定する力さえも発生してはくれないのだ。


 減速時、旋回時、そして加速時と、タイヤが許容できる限界領域で車両を駆り、その良し悪しを判断するのが大輔の仕事だ。それはサーキットのラップタイムであったり、あるいは車両に搭載した計測機器によって得られる計量値によってなされる場合も有るが、最終的に最も重要視されるのは、テストドライバーによる官能評価である。

 現代の科学技術では、それはいまだ特定の物理量への置き換えが出来ない「感覚的」な評価基準ではあるが、そういった要素こそが工業製品の価値を決めていることはあまり知られてはいない。

 それは絵画や音楽に代表される、芸術の類とも同様である。例えば食品や飲料品など味覚に関する商品、またはファッションやデザイン要素の重要な商品を、何らかの評価基準によって単純に順位付けすることができないように、大輔の評価対象であるタイヤも、エンジニアがこねくり回す数式やら理論だけではその優劣を判定出来ないのだ。


 20Rのヘアピンを抜けた大輔は加速しながら、緩やかな登坂を開始する。坂の向こう側は見通せないが、その先には杉林を抜けるように緩やかなS字が続いていることは判っている。そこでの切り返しのイメージを膨らませつつ更に加速し、そして遂に坂の頂上に彼の駆る車両が姿を現した。

 四輪全てのサスペンションが一斉に伸び、フワリと浮くような感覚の後に着地を果たす。ダンピングの利いた固めの足回りが、その衝撃を吸収し始めたその時、大輔の視界に赤褐色の物体が飛び込んで来た。

 急制動を試みる大輔。しかし坂を上り切った際に発生したバウンシングを、まだサスペンションが吸収し切ってはいない。捉えるべき路面を、四本の脚がまだジタバタと探しているようなイメージだろうか。そんな状態で踏まれたブレーキは、ドライバーの意図する十分な制動力を発揮するはずも無く、クイックステアで回避を試みるが、車両はコントロールを失ってコースアウトした。


 盛大な土煙を上げて干渉帯に突っ込んだ車両は、杉林に突っ込む前にサイドターンのような状態で停止した。そして停車と共に大きなロールが発生し、ユッサユッサと大輔の身体を揺さぶってから沈黙した。

 「びっくりしたぁ・・・ 犬か、あれ?」

 大輔はドアを開けて車外に出た。そして沸騰するアドレナリンを冷ましつつ、このような事態を引き起こした真犯人を特定しようと辺りを見回す。すると、コース脇の草むらの中から、キラリと光る眼がこちらを見詰めていることに気付いたのだった。

 大輔は手にしていたトランシーバーの通話スイッチを押した。

 「今居から全車両へ。たった今、ドライハンドリング路でコースアウト発生。人員、車両共に損害無し。コース上に散乱した砂利を撤去するまで、ハンドリング路はクローズして下さい。

 重ねて報告します。只今、テストコース内にキツネが侵入しているもようです。試験走行中の車両は、ご注意下さい」

 ボツッ・・・ という無線のイズの後に、事務方からの応答が入った。

 「はい、こちら試験管理棟事務所、了解しました。ドライハンドリング路の信号を『赤』に固定します。各車、侵入動物に注意の上、試験を継続下さい」


 トランシーバーでの通信を終えた大輔は、ぐるりとGOLFの周りを一周して四本のタイヤをチェックする。そして左前輪の横に片膝を付き、タイヤに右手を添えた。

 「上手く躱せたと思ったんだけどなぁ・・・ タイヤも十分温まってるし」

 その大輔の様子を見ていたキツネは、ピョンと飛び跳ねて草むらの奥へと消えていった。



 今居大輔は国内有数のタイヤメーカー『コービータイヤ』のテストドライバーである。技術系の学科を卒業していながら、学生時代には自動車部で活動していたという実績を買われ、実車試験部、つまりテストコースへの配属となって十年以上が経過している中堅社員だ。


 自動車メーカーとは異なりタイヤメーカーの場合は、その製品バリエーションが豊富なことから、普通乗用車だけでなく、小型トラック、大型トラック、大型トレーラーに自動二輪。果ては農耕車両から重機、フォークリフトに至るまで、およそ航空機以外のありとあらゆる車両がテストコース内を走り回っている。

 通常、タイヤは ──タイヤに限らず、あらゆる工業製品でも同じだが── その販売ルートが大きく異なることから、二種類のカテゴリーに分割されていて、自動車メーカーなどの生産者に納入するタイヤを生産財、街のタイヤショップなど一般ユーザー向けのタイヤを消費財という。大輔はその中でも、小型車用タイヤの消費財評価を担当していた。


 ドライハンドリング路でコースアウトした際に、コース上にぶちまけてしまった干渉帯の砂利などを清掃した後、残りの試験メニューをやり終えてから大輔はガレージに戻って来た。車両を降りた彼は、直ぐさまリフトで車体を持ち上げ、インパクトレンチで右後輪のホイールナットを緩め始めた。

 ヒュイン、ヒュイン・・・ とエアーツールが小気味良い音を立てている所へ、タイヤを転がしながら馬淵一成まぶちかずなりが近付いてくる。彼は、大輔が今評価中である試作タイヤの設計担当者だ。たった今、コースを走って来たばかりのタイヤを取り外し、それを馬淵に渡す大輔。代わりに受け取った、次の評価水準のタイヤを車両のハブに取り付けながら言った。

 「あっ、ホイールのスポークが熱くなってるから、火傷しないように気をつけて下さいね」

 「えっ、ホイールが? なんで? タイヤは温まってるけど・・・ アチチッ!」

 大輔の忠告が腑に落ちない馬淵はついスポークを握ってしまい、直ぐに自分の迂闊な行動を後悔した。

 「限界走行してるんでブレーキが熱くなって、その放熱でホイールも熱くなるんですよ。スポークならまだいい方で、キャリパーとかディスクに触っちゃったら『ジュッ』っていいますよ、『ジュッ』って」

 そう言って笑う大輔は、設計部門の人間からすると付き合いやすい方で、中には口の悪いテストドライバーも多い。


 「そんなことも知らずに、タイヤの設計してんのか?」

 「車に乗らないヤツが、良いタイヤなんて造れるわけねぇだろ」

 「お前さんら素人が頭で考えただけで良いタイヤが出来れば、誰も苦労はしねぇんだよ。顔洗って出直して来い」


 どんな企業にも、いわゆると呼ばれて特別扱いされている人間がいて、東京大学やらやMITで博士号を取得したようなエンジニアが肝入りで開発した試作品を、一刀両断であっさりと斬り捨ててしまう様は、横から見ていてお気の毒としか言いようが無い。しかし、そういった職人たちを納得させられなければ、良い製品を作ることは出来ないし、開発品を上市することすら叶わないのだから仕方がない。

 これもひとえに、自動車メーカーへの納入承認を得る際に、その最終可否判断が自動車メーカーのテストドライバーによる官能評価に委ねられているからに他ならず、必然的な流れで、タイヤメーカーにおいてもテストドライバーのが尊重されるのだ。


 タイヤ業界において ──おそらく自動車メーカーにおいてもそうだろうが── テストドライバーとはまさに職人であり、そういった一癖も二癖も有る連中が集う実車試験部とは、全くもって扱い難い部署なのだ。その発言に科学的な裏付けは困難であるとの共通認識から不可侵領域とされ、時に技術畑 ──つまり研究開発部門や商品設計部門── あるいは本社機能 ──主に販売部門── にとって『目の上のたんこぶ』と成り得る存在なのだった。


 「で、どうでした、今のタイヤ?」

 ヒリヒリする右手を、冷たい車体に押し付けて冷やしながら馬淵が聞いた。どの試験タイヤが本命かは大輔に告げず、単なる試作ナンバー違いの水準品として、いわゆるブラインド状態での評価を依頼しているのだが、実は今走って貰ったタイヤこそが、設計部門イチ押しの試作品である。勿論、このタイヤで高評価が出ることを期待しての質問だ。

 「うぅ~ん・・・ 通常領域では前期モデルと同等、もしくは若干の良化傾向ですね。センターの応答性も過不足無く、リニアリティも標準以上だと思います。ただ・・・」

 大輔は渋めの顔を作って見せた。彼が評価するのは消費財ではあるが、それが一般ユーザー向けのタイヤだからと言って、判定が甘くなるわけではない。

 「ただ?」


 こういった官能評価結果は、追って報告書として正規に発行されるが、ドライバーの生の声を聞きたくて、設計者たちは足繁く茨城県にあるテストコースに通い、色々とインタビューをするのだ。それは、報告書の文字情報や数値化された計測データからは得ることの出来ない、微妙なニュアンスを感じ取るためであったり、或いは設計者と評価者の連携を密にし、製品開発をスムースに行うためである。

 場合によっては助手席に同乗し ──いわゆる横乗りというやつだ── 試験中の車内で聞き取りを実施することも行われるが、今回のような限界走行を含む総合評価の場合、たいていの同乗者は車酔いだか何だか判らない症状で気分が悪くなってしまう。酷い時など、コース脇に車両を止めてのゲロゲロと相成って評価に支障を来すため、走行を終えた車両がガレージに戻って来るのを待つのが常なのだ。


 「限界領域での走行を続けていると、突然グリップを消失する感じが有りますね。前のラップでのイメージを持ってコーナーに突っ込んでいくと同じラインをトレース出来ないんです。踏ん張りが利かなくて車体姿勢が安定しません。そこで上手く修正してやらないと、一気にスピンしそうでしたよ」

 「それは許容範囲ではないというレベルですか?」

 「んん~、もし僕だったら、このタイヤは買わないかな。一般ドライバーが、そこまでの限界走行をすることは普通有りませんから、商品としてはアリなのかもしれませんが・・・ 事実、飛び出して来たキツネを避け切れず、コースアウトしちゃいましたよ」

 「あぁ、さっき無線連絡が入ってたやつですね?」

 「えぇ、そうです。あの瞬間、そのタイヤは」と言って大輔は馬淵の足元にある、まだ熱々のタイヤを顎で指した。「路面をまるっきりグリップしてなかった印象です」

 「そ、そうですか・・・」


 四本のタイヤを履き替えた大輔がクラクションを「プップッ」と短く二度鳴らし、次の試作タイヤの評価に向けてバックでガレージを出た。ガレージ退出の際にクラクションを鳴らすのは、多くの人や車両が行き交うテストコースでの事故を、未然に防止する為のルールである。

 そしてシフトを一速に入れ直した大輔が、再び試験コースに向かって走り去る。その遠ざかるGOLFのテールランプをガレージの中から見送りながら、馬淵はポケットからスマホを取り出した。彼は予め登録されたナンバーを呼び出すと、それを耳に当てた。

 「あー、もしもし、馬淵です。お疲れ様です。今、お電話大丈夫ですか?」

 『・・・・ ・・・ ・・・・』

 「はい、そうです。例のタイヤの評価が今、終わりました。ドライバーへのインタビューベースの速報ですが・・・」

 馬淵が電話を掛けながら足元を見下ろすと、うっすらと焼けただれた様な、異様な表情を見せるタイヤが目に入った。



組織図1

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コービータイヤ

 └COO

  └技術分掌

   └技術統括部門

    ├設計本部

    │└乗用車タイヤ設計部

    │ └消費財タイヤ設計課

    │  ・馬淵一成

    │

    └支援本部

     └実車試験部

      └消費財試験課

       ・今居大輔

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