退院直後の葵を連れて久美子がまず向かったのは、彼女の行きつけの美容院だった。これまでの寝た切りだった頃には、久美子が適当に処置するしかなかった伸びきった黒髪を調えてもらうためにである。事故に遭った当時は、まだ幼い中学二年生だった。だが、もう葵は十六歳。本来であればオシャレなどに多くの時間を費やして然るべき年頃だ。そんな娘の失った時間を取り戻す一助になればと思い、久美子は娘を連れてきたのであった。

 「葵ちゃん、どのヘアスタイルがいい? この中から選んでいいのよ」

 美容師のお姉さんにヘアカタログを見せられて、葵は目を輝かせた。その姿を久美子は熱い思いを抱きながら見守った。「不憫な」とか「可哀想な」といった言葉は、もう葵には必要ないのだ。この子はこれから、大きく羽ばたくのだから。この子には輝ける「未来」しか待っていないのだから。人も羨むほどの美しい女性へと成長してゆくのだから。久美子は鏡越しに気付かれないように、顔を背けてそっと涙を拭うのだった。


 葵が選んだ髪型はミディアム。ゆるくカールさせた、ちょっと大人っぽい髪型だ。写真のモデルのように、少し色を抜いたほうが重くならなくていいだろう。久美子はそんなことを考えながら、鏡の中の娘に話しかけた。

 「ねぇ、葵」

 「何?」

 「あなた、入院している間に、随分と変わったみたい」

 「そうかな?」

 「うん、何だか随分と明るくなった感じ。以前はもっとこう、何て言うのかな。もっと静かで内気な感じだったのに、今はすっごく明るくて積極的って言うか・・・」

 「あんまり好きじゃない?」

 「ううん、そんなことは無いけど、ちょっとびっくりしたって言うか。ほら、山崎先生が普段の病院での様子を教えてくれたりするんだけど、私、思わず『えぇ? それうちの葵の話ですか?』って真面目に聞いちゃったくらい」

 「ふふふ・・・ 二年間も寝てたから、性格も変わっちゃったのかもね?」

 「そう・・・ そうならいいんだけど・・・」

 その時、鏡越しに見る娘の胸の辺りに、何やらモヤモヤするものを認めた久美子は、目をしばたいた。


 (??? 何かしら?)


 細かく瞬きをして見入ってみても、そのぼやけた像は一向に焦点を結ばず、相変わらずユラユラと葵の胸の辺りで揺らいでいる。まるで煙のようにあやふやなのに、それは何処へも行こうとせず、そこに留まっていた。


 (嫌だ、疲れてるのかしら? 歳は取りたくないわ。そろそろ老眼鏡をしつらえなきゃ)


 そう思って目を擦ってみると、その不思議な空間は次第に形を成し始め、遂に、ある一つの像を結んだ。そしてそれを見た瞬間、久美子は息を飲んだ。

 「ひっ・・・」

 それは葵だった。葵の顔の下に現れたもう一つの顔、それは見紛える筈も無い最愛の娘、葵だ。

 思わず口許を手で押さえ込んだ久美子であったが、そのもう一つの顔は己の存在を主張したことに満足したかのように、フッと消えて無くなった。まるで風に吹かれた蝋燭の焔のように。気が付くと、鏡越しの葵がその様子を心配そうに見つめている。

 「どうしたの、お母さん?」

 「えっ、あ・・・ 何でもない、何でもない。ちょっと疲れてるみたい。嫌ね、歳って」

 そう。ここのところ葵の退院の準備で何かと忙しく、ちょっと疲労が溜まっているだけなのだ。久美子は自分にそう言い聞かせて娘に微笑みかけた。

 「ふぅん・・・ ねっ。それよりどう、このヘアスタイル?」

 そう言って葵は、まだカット途中の自分の頭を指差した。久美子はニコリと笑った。

 「綺麗よ、葵ちゃん」

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