ヘヴン

星雫々

0000:01




例えば冷凍のパスタか、カップラーメンか、まがりなりにも夕食に相応しいのはどちらだろうか。






――景色が駆ける。




とはいえ駆けるなんて表現はヤワな理想で、電車の窓から抜けていく景色は思ったよりスローモーションで彫り込むように輪郭を描くし、そもそも洞窟の中に光の残像が過ぎていくのが道標に値するのかさえも定かではない。




効きすぎた暖房のせいで嫌な汗が滲んでくる。


外では薄いと感じたアウターも車内では不必要なほどに暑い。だが、それを脱ごうとすると腕が乗客に当たってしまうのを懸念して体温調節も許されやしない。


夏の空調はいくらかけても効きが悪いくせに、こんなにも轟轟とエアコンが効いてしまうのはなぜだ。




体感の暑さに辟易としていたら、急に昨晩十分に熱された夕食で火傷した舌がピリリと痛みだした。冷凍庫に行儀よく敷き詰められたペスカトーレ、棚に放り込まれたシーフードヌードルを交互に見て選ばれたのがペスカトーレの方だった。どちらも洗い物が無いという点では有難いが、棚まで出向いたのちに湯を沸かすよりも冷凍庫から電子レンジまでの方が数センチソファから距離が近く、かつ手間が省けるのでパスタに決定したというわけだ。


偏食であるがゆえ、この部屋にバラエティに富んだ食品は買い揃えられていない。口にしてみて舌に合ったものを買いだめし、それらだけで日常の食を回している。





――「だからさ、やっぱ変だよな」




耳につく、ガサついた声がイヤホンを割りこんで響くのでそちらに目をやる。おおよそ30代前半ぐらい、痩せ型。まるで指名手配のように男の姿を脳内で形成していく。指でコートの端を弄りながら欠伸をするその男が語る持論は、走行音以外響きはしない車内で完全に浮いている。例えばモノクロの世界に極彩色のペンキをひっくり返したみたいに。



「…誰にだってそれぐらいあるでしょ」




音階の"シ"を具現したような高い声でそう返すのは男の隣でスマホを操作する女である。


恐らく20代後半、多分香水はジョーマローン。


静電気でハネてしまった毛先にするりと指を通しながら、細い指先を液晶に滑らせる。真新しいダークネイビーのファーコートには埃ひとつ付いていないようだった。




「でもさ、日常的にとかさ、なんか、どうよ」

「…別に自由じゃない?」

「いや、俺には分かんないわ。所詮ヌイグルミだろ、生きてるわけでもねぇのに」





揺れる車内でなんとか窓に支えられながら立つ僕の左側に座っていた男女の凡庸なやりとりを、購入して3年でノイズキャンセリング機能がうまく働かなくなったイヤホンのせいで嫌でも聞き取ってしまう。


なんとかよろける体でバランスをとるが、休日18時の電車はよく加速し、そのうち取れていたはずのバランスも一歩下がった際に置いていたリュックの紐を踏んでしまっていたようで崩れ、リュックの持ち主であろう中年の男がこちらを睨んだ。


ジリジリと躙る細やかな言葉のひと粒ひと粒、砂鉄であれば吸着できるやもしれぬが、僕は所詮すりつぶしたら潰しっぱなしで、ジトリとした湿り気を含む視線を中吊り広告にでかでかと載せられた有名俳優の不倫に重ねた。


SNSより早い情報はもはや疑わしいこの時代で、"君"はもっと不確かだったというのに。




男は女が閲覧しているスマホの画面を覗き込み、アイドルのニュース記事を閲覧しているらしかった。


こちらからもチラチラと画面が見えたので横目で拝見すると、大胆に画面一面を占領しているのはくまのぬいぐるみを抱いたままアンニュイな表情を決める美形の男だと分かる。たいそう可愛らしいその熊が彼のアンニュイを引き出した。


話の筋から推察するに、どうやら幼き頃から大切にしているクマのヌイグルミを画面を占める彼が紹介したとの話題であろう。


さっきSNSで話題になっていたもので、彼の名前に加えて「くま」「ぬいぐるみ」「ジェンダーレス男子」などというキーワードがトレンドを占めており、それらはワイドショーでは一切取り上げられていないものの、ネットニュースでは一面を占めていた。


女はどうやらこの透明感溢れるぬいぐるみを抱いた男の感覚を異質だとは感じていないらしいが、対して男は理解不能、男女は話が全く噛み合っていないようだった。


彼らが交際関係にあるのか、そうでないのか、それらにおいては分からない。


だがたった今、解れた関係の引鉄を古ぼけた熊が引いてしまったことは推察できる。


愛するものとは、愛しきものとは、誰が求めるものでもなく、ただ自らの中でしか生かせない、そういうものなのだと。





揺れる車内で真っ黒い窓に反射した自分のスマホ画面を見据えていたら、メッセージアプリに通知された公式アカウントの常套句がピコンという音を立てて光るのでポケットへと滑らせ、手持ち無沙汰になった左手を地面へと翳したら爪の白がよく透けた。


もう片方まで手すりから手を離した衝動で、酔っ払いみたいにふらふら足が放られる。


そこそこ人の乗った電車で何をしているのかは自分含め誰にもわかりえないが、やはり爪はよく透けた。デジタル時計の数字が暗闇に浮かび上がるみたいに。凝視していたら、鉄骨に覆われた終点が迎えに来た。



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