【終話:嘘つきな私たちのニューゲーム】

 ぼんやりと、私が視界に何をいれているのか理解し始める。

 白い天井が見えた。柔らかい朝陽が、窓から差し込んでいた。

 私の家じゃないな、と最初に思い、ピー、ピー、と断続的に響く電子音と、日光を反射して煌めいている点滴のバッグを見て、ここが病室なんだと次に思った。


 ――あれ? どうして病院?


 咄嗟に起き上がろうとするが、体が鉛のように重くて言うことを利かない。なんだか軽い吐き気もあって気持ち悪い。

 なにこれ、と戸惑いながら視線をぐるっと巡らして、自分の体に繋がっている何本かの管と、心配そうにこちらを覗き込んでいる景の顔を最後に認識した。


「大人だ」

「何言ってんだお前。目が覚めて最初に言う台詞がそれか。俺がどんだけ心配したかも知らないで」


 どう見ても二十一歳の景の顔は、少々やつれて見えた。それに、『心配した』という言葉。どうやら、元の世界に戻ってきたらしい。戻ってきたというか、夢だったということなのかな。そうか、夢か、と軽く落胆する中、夢にしてはやたらと現実味があった、と思う。やっぱりあれは――。

 安堵した顔でパイプ椅子に深く座り直した彼の格好は、上下ともにジャージというラフなもの。家でリラックスしている時の服装なので、長いこと病室にいてくれたのかもしれない。


「私、どのくらいの間、眠ってたの?」


 最後の記憶、どこだっけ。バス停の、あのあたりだろうか。


「まるっと三日。もうこのまま寝たきりなんじゃないかと、心配したんだからな」

「どうしてたのかな、私」


 率直な疑問を口にすると、呆れ顔で景が嘆息した。


「そりゃあこっちの台詞だよ。家を飛び出したあの後、お前なにしてたんだよ……」

「だよね。ごめん」


 景に対して怒っていたことなんて、もうどうでも良くなっていた。後先考えずに無謀なことをしたな、という罪悪感だけが残されていた。


「あの後急いで着替えして、雨降りそうだったから二人分の傘持って家を出たら、もうお前の姿見えねーんでやんの。いや、焦ったぜ。スマホも置いてってるしさ」


 そういえば、スマホ持たなかったかも。頭に血が上っていたとはいえ、迂闊だな、私。


「んでさ。こりゃいよいよ捜索願いが必要かなって諦めかけたとき、倒れてるお前を見つけたんだよ。バス停で」

「バス停?」

「そう。お前ん家から、一番近い場所のな」

「そんなはずない。だって――」


 バス停で菫の生霊の声を聞き、逃げるように走り出したのだから。そんなはずはない。


「うんにゃ、間違いねーって。俺がずぶ濡れのお前を見つけて、おんぶして病院まで連れて行ったんだから。いや、焦ったよ。さっきから焦ったしか言ってねーけどホントだもの。体が冷え切っていて、呼吸も浅くなっていて、このままじゃ死んじまうんじゃないかって」


 全身の力が抜けきっている人間を運ぶのって、思いのほか大変なんだぞ、と彼は苦い顔で笑った。


「でもさ、バス停の待合室の屋根の下にいたから、大事にならずに済んだのかも。倒れてる場所が違ってたら。もしくは、もう少し遅かったら、お前、危なかったぞ」

「うん、ほんとにごめん」と謝罪したあと、彼女の顔が脳裏に浮かんだ。「菫だ」

「は?」

「菫が私のことを助けてくれたんだ」

「菫って、森川のこと? いや、んなはずないだろ。だって、森川の奴は、今でも病院に入院してんだろ?」

「うん。そうなんだけど」


 景の言う通りだ。蓮から追加情報も貰っていたためよく知っているが、菫の昏睡状態は今もなお続いている。でも、なんとなくそう思えた。

 眠っている間に見た不思議な夢の中身には、不自然な点が幾つもあったのだから。


 戻った場所が、中学二年のときの七月だったこと。

 蓮は確かに気が利く男ではあったが、少々気が利きすぎなんじゃ? という疑問はあった。これは私の推測だけど、菫の妄想という名前の脚色がたぶん入ってる。なんていうか笑っちゃう。いくらなんでも嘘がすぎるよ。

 景にしてもそう。

 彼はぶっきらぼうでありながらも、大切な人のために自分を犠牲にできる強さもあった。とはいえ、不良に立ち向かっていくあの姿は少々出来すぎな上に彼にしちゃ要領がいい。

 こっちはたぶん、私の妄想。

 科学的に証明できない以上、仮説の域を出ることはない。だが、ここから導き出した私なりの結論。

 あの不思議な出来事は全て、『菫の精神世界』で起こったことじゃないのかな、と。

 私も昏睡状態に陥ったことで、菫の魂が私を呼んで、もしくは呼び合って、二人の精神世界がリンクしたんじゃないかなと。


 言うなればこれは――


『嘘つきな私たちの妄想世界ニューゲーム


 とでも命名するべきか。

 こんな世界があったらよかったな、という、私たちの嘘と欲望にまみれた仮初めの世界だったんだ。

 あれ? でも……。私に好意を持っていた蓮の姿は、私の願望が生み出したものだったのだろうか。それとも、私の本心を探るため、菫が生み出したものだったのだろうか。はたまた、実際に有り得た過去だったのだろうか。

 まあ、どっちでもいいかと私は思う。


 今の私は、景のことが好きなんだから。

 むしろ、もっと前から好きだったんだから。

 そのことに気づけたんだから。

 ズボラだったり、責任感の無いところに時々苛々したりもするけど、この苛々は、『好き』だからこそだ。心底嫌いだったなら、こんなことでいちいちヤキモキしない。


「そうだよね」

「お前さっきからなにブツブツ言ってんの」

「ううん。なんでもない」


 三日も寝込んでいたら、相当迷惑かけちゃっただろうな。もう一回ちゃんと謝ろうと心に決めたそのとき、眼前に四角い箱が差し出された。


「なにこれ?」

「開けた方が早いな」


 少々バツが悪そうな顔で彼が箱を開けると、中から出てきたのは真っ赤なパンプスだ。


「え……、これは?」

「結婚記念日、忘れてたの悪いと思って、というのはついでというか言い訳みたいなもんだけど、その、最近甘えてばっかだったなーと思って。そんでプレゼント」


 たどたどしくそう言葉を紡ぎ、ワンピースは流石に持ってこれなかったから、と付け加えて「カカカ」と笑う。

 ついでって何よ、と憤慨しかけてから、ネットショッピングの購入履歴を思い出した。


「あ、あの時の……。これ、私へのプレゼントだったんだ。でも、お金なんてどうしたの?」


 悪事を隠していた子どものように、景はチロっと舌を出した。一度私から視線を外し、もう一度しっかり目を合わせてから言った。


「先月発表になった文学賞で、奨励賞取った。書籍化とかはまだわかんないけど、一応賞金出るんで」

「小説なんて、いつの間に書いてたの?」

「いや、ごめん。七瀬に怒られた通り、最近は殆ど書いてない。同棲を始める前に仕上げていた作品を応募してて、そっちが受賞できたんだ」

「ああ、そういう……」


 私が知っているのは、仕事もせずに朝から晩までゲームをしている景のみだ。だから夢も諦めてしまったんだろうと決めつけて、彼の話にも耳を傾けずに一方的に糾弾した。身勝手なのは誰だ。私じゃないのか。

「ごめんね」と滲みだした視界のなか必死に声を絞り出すと、今度は一通の封筒を差し出された。シンプルなデザインの、白い封筒。


「まだ、なんかあるの?」

「開けてみて」


 今度はちゃんと答えてくれない彼。重い体に鞭打って上体だけを起こした。『霧島七瀬様』と達筆な宛名が書かれた封筒を受け取ってひっくり返した瞬間、じわっと瞼が熱くなる。


「嘘だ。信じられない」


 封筒の裏面に書いてあったのは、小四のときの担任の名前。私が教師になりたいというきっかけになった、憧れの人の名前。


「どうして? 私、先生と直接やり取りしてないのに。連絡先だって、知らせてないのに」


 そうなのだ。タイムカプセルの掘り起こしをした時も、先生とやり取りをしたのは委員長だった男子の方。私のことを覚えてくれていただけでも嬉しいのに、どうして手紙なんて。


「俺が受賞したことを、どこかで聞きつけたんだろな。先生の方から連絡をくれたんだ。そんで霧島のことを話したら、えらく喜んでくれてね。それで、手紙書いてくれたんだ」


 景らしく言葉の前後が端折られていたが、同棲していることでも告げたのだろう。


「いつのまに、送られてきてたの?」

「あーそれな。手渡しなんだ。受賞のお祝いを渡したいから一度会おうって先生が言ってくれて、そん時一緒に手紙も受け取った」


「ほら、あの」と都合悪そうに景が言う。「俺たちの、交際記念日の日」


 あの時の景の用事ってそれだったんだ。


「言ってくれたらよかったのに」

「それを言われると頭が痛い。いや、弁解がましいようだけど、受賞の件も、プレゼントの件も含めて七瀬へのサプライズにしたかったんだ。なんか俺、子どもみたいだな」

「うん、そうだね。でもそういう細かい調整ができないあたり、なんだか景らしいや」

「ひでえ」と景が笑う。でも、自覚があるのか否定はしなかった。「いま、出版に向けて担当の人とちょっとずつ話を進めてる。そんでさ」

「うん」

「この仕事が軌道に乗ったらなんだけど、俺と、結婚してくれませんか?」

「はははは」


 これには乾いた笑いがもれる。

 ほんとに気が利かなくて、やることなすこと不器用で。でも、大事なひとのためとなれば、身を挺して動くことができる。後先考えられない盲目さは欠点だけど、同時に景のいいところだとも思う。

 そんな景のことが、私は好きなんだ。


 みんな凄いね。

 色々悩んで考えて、ちゃんと前を向いて進んでるんだ。

 あの時ああしていたら、なんて、ことあるごとに過去に縋ってとらわれて、後ろばっかりみている私とは違うんだ。

 道徳教師として失格だな、これじゃ。


「うん。こちらこそ、改めまして宜しくお願いします」


 じゃあ、読むね、と先生から貰った手紙に目を通していった。

 お久しぶりです。教え子二人が親密な関係になっていることを、とても嬉しく思っています。という文面で手紙は始まっていた。

 自分の近況の話。景の受賞を祝う内容と続き、最後に私に対するメッセージで手紙は締められていた。


『霧島さんが、私に憧れて教師を目指していたことは知っていました。夢、ちゃんと叶えましたね。これから色々忙しくなり大変だろうと思いますが、自分が選んだ道なのだから、辛くても途中で投げ出してはダメですよ。さらなる飛躍を期待しています。おめでとう。そして、頑張れ!』


「先生……」


 もう、涙をこらえることはできなかった。

 学生時代の私は確かに愚かだった。

 嫉妬して、泣いて、勝手に傷ついて、取り返しのつかない罪を犯した。

 もう、過去を変えられないこともあの時の罪がつぐなえないこともわかってる。

 でも、この先の未来なら変えられるだろうか。

 私も、変われるだろうか。

「今度菫のお見舞いに行こうよ」と提案すると、彼が「そうだな」と答える。


 カーテンの隙間から柔らかい日が差して、私の頬を温かい涙が伝った。

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