【それはある意味逆中学デビュー】
「中学生。中学生。今の私は中学生」
ぶつぶつと何度も呟いて、現状把握に全力で努めた。
こんな小さい制服、着られるんだろうか、と恐る恐る袖を通した白いセーラー服は、まるで自分専用に仕立てられたように、ストンと身体に収まった。奇妙なほどにウエストの細い紺色のプリーツスカートも、しっかりと腰で止まった。
いや、確かに自分専用か、と思うも、心はどこか釈然としない。うーん。
洗面所で、もう一度自分の姿を見つめる。若干外跳ねしているくせ毛の髪は、毛先まで綺麗に揃っており、ここ最近この長さに整えたかのようだ。
私がこの髪型にしていたのは、後にも先にも中学一年生から二年生にかけての間のみ。つまり今は――。
年代の情報が欲しくてきょろきょろすると、洗面所の壁にパーマ屋でもらったカレンダーが貼ってある。
七月、か。
年号を一緒に確認して、いまの私は中学二年生なのだろうと思う。本当に信じられないことなのだが、状況と視覚情報の全てが、今お前は過去にいるんだぞとうったえかけてくる。
それにしても、なんとも微妙な時期に戻ってきたもんだ。
「おはよう」
リビングに顔を出すと、読んでいた新聞から顔を上げ、父親が「おう」と反応を返した。一方で母親は、「ほら早く」と私を急かした。
「わかってるって」
隣に座っているは、妹の
そうか、七年前だからえーと……十歳。小学五年生だ。
へー十歳。なんて指折り数えていると、「姉ちゃん、早く食べなよ。バスに遅れるよ」と妹に諭された。
「え、バス?」と呆けた声を出しながら、状況を認識して忙しなくトーストを口に頬張った。
そういえば、そうだった。
私は櫻野学園中等部の生徒なのだから、七時三〇分発のバスに乗らなくちゃいけない。
ケチャップのかけられた目玉焼きを箸で摘みながら、父親の姿をじっと見つめた。
広げた新聞紙の上から見える父親の頭頂部は、今よりずっとフサフサだ。育毛剤を薦めたらまだ間に合うだろうか、と考え、こらえきれずにふふ、とふき出した。マズイ、マズイ。怪訝な顔で睨まれた。ようやく朝食を食べ始めた母親の顔は、しわが少し減った程度で今とさして変わらない。
一番違うのは、やっぱり奈美か。
今でこそ、黒髪ロングの彼女だが、この当時は肩までの髪を二つ結いにしている。
なにより、生意気な高校生に成長した妹が小学生に戻っている姿に、教え子でも見ているような親近感を覚える。
そうか。この時代の奈美は、正真正銘、港北小学校の生徒か。朝から色々と刺激が強い。
「ねえ、奈美。ところで今日って、何日だっけ」
「え、ボケてんの?」と奈美が呆れ顔になる。「十日だよ。七月十日」
七月十日、とカレンダーで確認すると、金曜日だった。なるほど。入学式を終えてから約三ヶ月。私と菫の関係が、微妙に拗れ始めた時期だったように思うが、さて?
なんにせよ、学校に行けば分かるだろう。
今の今まで後悔を引きずることになったあの八月の事故まで、残すところ約一か月。ここからならば、やり直せるだろうか。歴史を、変えられるだろうか。それとも、また同じ苦しみを味わうことになるんだろうか。
どうしてこんなことになっているのかはサッパリだが、中学時代に戻れたら、と繰り返し願ったからだろうか。神様が与えてくれたチャンスだろうか。だとしたら、未来を変えろという意味なのだろうか。二十一歳の私は、この先自分が間違える選択肢の全てを知っているから――。
──変えたい、じゃなくて、変えなくちゃ。
スマホは~と探しかけて気が付いた。この頃の私はいわゆるガラケーしか所持していない。
自室に戻って携帯電話と鞄を手に取ると、私は家を後にした。
バス停の方に足を向け歩き始める。左手にあるポプラ並木の向こうには、爽快な青空が広がっている。葉の緑の隙間を縫って、白い朝日が真っすぐ私の顔に伸びる。
それがなんだか眩しく感じられて、そっと瞳を伏せた。
何度も歩いた道。
何度も夢に見た通学路。
もうすぐだ、と思うと、段々心拍数が上がってくる。
真新しい家々が並ぶ住宅街を抜けると、雑居ビルがひしめき合っている大通りに出る。もう間もなく、バス停の姿が見えるはず。
彼女は、待っているだろうか。
会いたい、と願う気持ちと、罪悪感からくる恐怖とが、複雑に交じり合って心中で渦を巻く。
胸に手を当て「ふう」とひとつ息を吐いてから顔を上げると、バス停の姿が見えた。そこには、私と御揃いのセーラー服に身を包んだ女の子が佇んでいた。
ちょっと長めの前髪を、黄色のヘアピンでとめている。こちらに顔を向けると、くりっとした丸い瞳がよりいっそう見開かれた。
青いリュックを背負い直して手を振る彼女のショートボブが、ふわりと揺れた。
森川菫。私の親友だった女の子。
彼女の家は少し離れた住宅街にあるので、この場所まで自転車でやって来て、それからバスで櫻野学園に向かう。そんなわけで、なにかと彼女の方が早く着いていることが多かった。
先日、蓮に見せてもらった水彩画の中から出てきたような親友の姿に、自然と涙腺が緩んだ。
泣くな、それはおかしいでしょと目元を拭い、私も手を振り返した。
「おはよう、七瀬ちゃん」
「おはよう、菫。今日は早いんだね」
「うん。いつもより早く起きられたからね」
「……」
「……」
そこで会話が途切れた。
呆気ないその幕切れに、私と菫の間にでき始めている溝を感じて、また泣きたくなってしまう。七月からじゃ、やり直せないんじゃ。
私の態度がオカしいと勘づいたのか、キョトンとした顔で菫が首をかしげる。
「どうしたの? 体調でも悪い?」
「え? いやいや、大丈夫だよ」
「そう? ならいいけど。なんか今日の七瀬ちゃん、いつもより大人しいね」
「え、そうかな。私って普段どんなイメージなのよ」
無理をしてお道化てみせると、彼女はふ、と少し表情を崩した。
「いや。大人しいと言うか……大人になったみたい。なんか普段より落ち着いてみえる」
私の葛藤を見透かしたような黒曜石の瞳に、心臓がドキンと飛び跳ねる。大人かあ……実際、二十一歳だしね、中身は。
やがて定刻通りにバスが来る。改札券を取って乗り込んだ私達は、別々に席を取った。……やっぱりそうだ。この時既に私と菫の関係には、微細な亀裂が入っている。
小学生時代からの親友だったのに。
学校でも、毎日一緒に遊んでいたのに。
自分で蒔いた種とはいえ、やっぱりちょっと辛い。
もう、修復できないのかな。
ダメだダメだ、と弱気になる心を戒めて、バスを降りたあと勇気を振り絞って菫の隣に並んだ。
ところが予想に反して、彼女は嫌がる素振りひとつ見せない。それどころか、私に話の水を向けてくる。
最近読んだ漫画がどうとか、昨日観たテレビがどうとか。
ついたり離れたりする菫の態度に、どういうことだ? と首を傾げる。記憶の糸を手繰りながら、ちょっとずつ思い出していく。二人の関係が完全に冷え込んだのは、私があの嘘をついた後からだ。
この段階では私の方だけが壁を立てていて、むしろ菫は、私と話す機会を欲していたのかも。
──大丈夫。まだやり直せる。
「ん。七瀬ちゃん、聞いてる?」
「あ、ごめん。聞いてる、聞いてる」
すいません。まったく聞いてません。
元来口数が多い方でもない菫が、一生懸命話題をふってくれているのに、さっきから私は、「うん」とか、「そうだよね」と相槌を打っているのみだ。
うう、なんか罪悪感……。
好きなアイドルの話とか、ファッションの話を熱っぽく語り続ける菫の姿は初々しくて。齢二十一にして枯れかけの青春を送っている自分にはどうにも眩しすぎる。
まるで、年下の女の子と歩いているみたい。
いや、実際そうなのかな。よくわかんない。
雑談をしながら歩き続けること約
「じゃあ私、先に行くね」
その時、突然菫が駆けだした。
「あ、うん」
私より先んじて校舎に入っていった彼女を見送り、うーん? と首を傾げた。おかしいな。二年のときは確か、私と菫は同じクラスだったはずなのに。
考えても答えは見つからず、釈然としないまま教室に入る。
と、そこで固まった。
そうだよ、私の席ってどこなんだ?
入口付近に居た女子を捕まえ、「私の席ってどこだっけ?」という間抜けな質問を放る。怪訝な顔で投げ返された答えは、窓際後ろから二番目の席だった。
おお、ベストポジション。
そういやそうだった。ここなら、先生に指名され辛いかな、と当時ほくそ笑んだものだった。
懐かしいなーと窓の外に目を向けた時、誰かが私の肩を叩いた。
振り返るとそこに立っていたのは、栗色の髪を短く揃えた、そばかす顔の女の子。
「えーと。誰だっけ」
「何それ? 新しいギャグ? 笑えないんだけど」
困惑顔を、二つ突き合わせる私と彼女。
「七瀬よ。本気で記憶喪失なのか? 私だよ、エ・ツ・コ。
「あーえっちゃんだ?」
「なにそれッ! リアクション、初対面かよ」と彼女に突っ込まれた。「それよりさ。借りてたCD、いい加減に返すわ。長いこと貸してくれてあんがとね」
相原悦子。隣市に住んでいた女の子で、中学に進学したのちできた友人の一人。ただし、高校二年のあたりから次第に疎遠となり、卒業後は一度も連絡を取り合ってない。そのため、顔はわかるんだけど名前が出てこない状態だった。
「ほらよ」とえっちゃんが差し出してきたCDを受け取って、通学鞄を開ける。次の瞬間、驚きで私の手が止まった。
「あれ、なんなのこれ……」
鞄の中身。ごちゃごちゃだ。いつ配布されたのか定かじゃないプリントが底の方に押し込まれているし、教科書も適当に詰め込んだだけ。私はこんなにだらしない人間だったのだろうか?
朝時間がなかったからとはいえ、せめて中身くらい見てきたら良かった。我ながら、これは酷い。
「相変わらずきたねーな、七瀬の鞄」と呆れた声でえっちゃんが言う。はい。反論の余地などありません。「元がいいんだからさ、もうちっと態度とか身だしなみに気を使えよ」
「あはは……。一見散らかって見えるけど、持ち主的には不思議と物の配置がわかるといいますか」
まあ、嘘なんだけどねー。こんなん全然わからん、と思いながら教科書を机に仕舞っていく。
教科書置きっぱなしじゃないだけマシなのか?
「四次元ポケット的な何かを感じる」と言うえっちゃんの突っ込みに、別の声が同調した。「かもねー。でもさ、四次元ポケットは物がたくさん入るってだけで、中身が散らかってはいないんだぞ。だからその例えは微妙に的を射ていない! 猫型ロボットに謝れ」
「お、来たか。おはよー
「おはよー。悦子に七瀬」
えっちゃんの挨拶に、新顔の女生徒が応じた。百六〇センチを超えてそうな長身と、背中まで伸ばされた長い髪。力強い光を放つ切れ長の瞳が、まっすぐ私をとらえる。
ああ、そうか。
役者がそろい始めたことで、断片的だった私の記憶が、次第に線となって繋がり始める。
──もう、一人はイヤ。
一言でいえば、それが原動力。
悪目立ちする容姿が原因となって孤立していた私は、中学進学を契機にイメージチェンジを図ったのである。
もっとも、小学校時代と同じメンツが顔を揃える地元公立校じゃそう上手くいかない。そういう点で、私立である櫻野学園は最適だった。
目立つ容姿であることを逆手に取って、とことん悪目立ちするように、自分の容姿・言動を変えたのだ。
髪の毛を染めて、明るい栗色に。
清楚なイメージを払拭するため、長い髪を惜しげもなく切りミディアムボブに。
言葉遣いを意図的に悪くして、身だしなみもだらしなく演出した。せめて女子たちには嫌われないようにと、女子力を、下げて、下げて。
こうして、幼少期から付き纏ってきた優等生のイメージを払拭することに成功した私。思惑通り新しい友人を獲得し、クラスの中でカーストトップに君臨していた女子グループの一員としておさまった。
それこそが――美登里とえっちゃんを中心としたグループであり、この付き合いが、菫と現在気まずくなっている原因の最たるものなのだ。
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