第百七十三話 恋は罪か【中】

小慧シャオフゥイがいなくなったのは、『翠桃園すいとうえん』に侵入した餓鬼のせいだった。盗まれそうになっていた翠桃の木を、がんばって守ろうとしたんだ」


 あのとき、なにが起きたのか。

 そのすべてを、黒皇ヘイファンもざわめく鼓動をおさえながら、つとめて静かに語った。


「そう……だったのですね」


 シアンの夜色の瞳がゆれている。

 安堵したようで、いまにも泣きそうで。


「………なにがあったのか、俺も、お話します」


 長い長い沈黙をへて、息を吐出すように爽は告げる。

 黒皇はうなずき、晴風チンフォンも瑠璃の瞳を細め、耳をかたむけた。


「翼を貫かれたあと、俺は地上に墜ちました。記憶を失くし、じぶんがだれなのかもわからないまま、ひたすらに永い時を、無為にすごしてきました。ですが、いつしか奴隷となり、捕らえられていたところを、教主さま──憂炎ユーエンさまが救ってくださったのです。『爽』という名は、そのときにいただきました」


 淡々と話す爽の言葉に、黒皇も晴風も、しばし絶句する。爽が送ってきた人生は、壮絶、そのひと言に尽きるだろう。


「記憶を取り戻したのは、街での騒動があった、つい先ほどのことなんです。……俺は陽功ようこうを取り上げられています。翼もなくなってしまいました。なにより……ひとを殺めています」

「……黒俊ヘイジュン

「賭博奴隷、でした。賭け事のために、奴隷同士を殺し合わせる。……じぶんが生きるために、罪のない獣人を、何人も何人も、殺しました……この手は、血に濡れています。ですから、あなたの弟を名乗る資格など、もう……」

「もういい、黒俊」


 うつむく爽の語尾を、黒皇がさえぎる。


 清浄な神気に満たされる天界に生まれた神仙らは、血などの穢れに敏感だ。

 神と仙女の血を引く黒皇らも例外ではなく、殺生をおこなうと、穢れから病んでしまうことがある。

 記憶を失っていたとはいえ、幾度となく血を浴びたとなれば、そのたびに想像を絶する苦痛をともなったはずだ。

 そしてそれは、これからもおなじ。


「もうがんばらなくていい。辛いときは泣いていい。逃げてもいいんだ。私が、だれにも文句は言わせないから」


『皇族殺し』を掲げる魔教に身を置いている以上、さらに熾烈な運命が待ち受けているだろう。

 そんなものに翻弄されず、心おだやかに暮らしてほしい。

 弟を、もう喪いたくない。

 黒皇の胸中は、ただそれだけだった。

 たまらず、腕を伸ばし、爽を抱きしめる。

 待ってましたとばかりに便乗したのは、晴風だ。


「なぁジュン坊。おまえさん、梅梅メイメイのこと好きだろ」

「なっ……」

「見てるこっちがこそばゆいくらいに、バレバレなんだよ。焦れってぇったらありゃしねぇ」

「私たちといっしょにおいで。梅雪メイシェお嬢さまも、歓迎してくださる」


 早梅はやめの名を出され、相次いで畳みかけられた爽の肩が、黒皇の腕の中で小刻みに震えだす。


「……そう、ですね……あの方はきっと、俺みたいな者でも、えがおで受け入れてくださる……でも、それはいけないと、思います……」

「黒俊、どうして」

「俺はここへやってくるまでに……梅雪さまを、さらおうとしたんですよ」

「……!」

「教主さまに止められて、我に返りました……彼女を想うと、歯止めがきかなくなるんです……こんな俺が、おそばにいてよいものでしょうか。いつ暴走して、浅ましい欲望をぶつけてしまうともしれない、俺のような男が……恋をして、いいのでしょうか……兄上っ……」


 のどの奥から絞り出すような悲痛な訴えが、黒皇の胸をも引き裂くほどの痛みをあたえる。

 唇を噛みしめた黒皇は、嗚咽をもらす爽を、いまいちどきつく抱きしめた。


「私も……いっしょだったよ。はじめての感情に戸惑って、一歩を踏みだせずにいた」


 まぶたを閉じ、思い出されるは、かつて身が焼き切れるほどに絶望した記憶。


「でも、臆病風に吹かれていても、答えなんかわからない。『あのとき想いをつたえていれば』『なにもしてあげられなかったじぶんが許せない』……手遅れになってやっと、後悔するんだ。私は、おなじ思いを、おまえにしてほしくない」


 二度と悲劇がくり返されぬよう、黒皇は言葉をつむぐのだ。


「黒俊きいて。梅雪お嬢さまは、黒俊が思うほど弱くはないよ。千年ごしの私の想いだって、ちっぽけなわがままだって、『もう仕方ないな』っておどけながら、ぜんぶ受け止めてくださるんだ」

「兄、上……」

「だれかをたいせつに想い、恋い焦がれる気持ちは、決して罪なんかじゃない。つたえて、ぶつけて。黒俊がかかえているものを、ぜんぶ。そうしたら、黒俊の迷いもきっと晴れるはずだ」

「っ……あにう、ぅあ、うああっ……!」


 わっと声をあげ、幼子のように泣きじゃくる爽の背をなで、頭をなでながら、黒皇もじんと目頭が熱くなる感覚をおぼえる。


「私もすこし、気が急いてしまったかもしれないね……だれといたいか、どうしたいか。黒俊のやりたいようにやっていい。ただひとつ、後悔がないようにすること。いいね?」

「は、い……っ!」


 たとえ時に引き裂かれようと、兄弟の絆が絶たれることはない。

 兄の腕の中で、爽は何度も何度も、うなずき返したのだった。

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