第百三十九話 猫の誘惑【中】

「いきなりの5Gは、心臓に悪いって……」


 さすが観光地と名高い街である。高速回線も開通していたらしい、なんて現実逃避はほどほどにして。


 屋根から屋根へ疾駆していた一心イーシンが、とある路地裏へ降り立った。

 早梅はやめがすべきことは、その違和感について言及することだろう。


「……お屋敷にはもどらないんですか?」


 早梅はおずおずとたずねる。一心はにっこりと笑い、ひと言。


「ふたりきりにさせてもらえないので、ちょっとずるい手を使わせてもらいました」

「うそをついた、ということですか?」

「僕は『みんなもはやくおいで』と言っただけで、『お屋敷にもどる』とは言ってませんね」


 早梅はぐぅ、と閉口する。

 たしかに、一心の言い分はもっともだ。

 だが、『はやく帰ろう』と急かしていた文脈がある。早とちりだってするだろう。

 それこそが、一心のねらいだったのかもしれないが。


(どうしたもんかなぁ……)


 一心がどんな『ずるい手』を考えているのか、とんと想像がつかない。

 思案にふける早梅の足が、ふと、地面にふれた。


「一心さま……?」


 腕に抱いた早梅をそっとおろした一心は、笑みを深め、右手を差しのべてくる。

 指先が耳をかすめ、びくり、と肩をふるわせてしまう。

 それから、一瞬のことだった。


「ちょっと失礼」


 突然の解放感。結い上げた髪がさらりと背へ流れる感覚に、早梅ははっとする。

 

 紅玉の牡丹。

 黄玉の黄梅。

 紫水晶の菫。

 真珠の鈴蘭。


 早梅の髪からことごとく摘みとられた四本の花簪が、一心の手中にあった。


「あの、一心さま!」

「すこしだけ、ここでお待ちくださいね。すぐにもどりますから」


 そうとだけ告げた一心は、意味深長なほほ笑みを置き土産に、きびすを返す。

 かくして、薄暗い路地裏に、ひとり残される早梅。


「……簪をとられてしまった」


 人質、いや質か。

 一心のことだから悪いようにはあつかわないと思うが、こうなってしまえば、素直に従うほかない。


黒皇ヘイファンたち、ものすごい顔でお屋敷にもどってるんだろうなぁ」


 そして早梅たちの姿がないと知り、どんな惨状に陥るか。容易に想像できてしまう。

 とん、と石壁にもたれ、ため息を吐く。


 身の置きどころがなく、気もそぞろな早梅のもとへ一心がもどってきたのは、十数分後のことだった。


「たいへんお待たせしました。梅雪メイシェさんにぴったりなものを見つけてきましたよ。どうぞ」


 と、説明しているようで要領を得ない言葉とともに、小脇にかかえるほどの布製のつつみを差しだされる。


「これは……なんですか?」


 思わず身構える早梅を前に、にこやかな好青年は本日一番の笑みを浮かべ、のたもうた。


「お着替えです」



  *  *  *



 膝よりすこし丈の長い直裾ちょくきょきもの。色は紺青と派手さはないが、肌ざわりのよい絹製。

 下はズボンをはき、余った裾は脛巾はばきを巻いてまとめる。

 団子状のまげをつくって髪紐で結んだら、あら不思議。

 お姫さま然とした外見が、小柄な少年に早変わりだ。


「ほら、ぴったりだったでしょう? あ、こちらはお持ちします」


 早梅の着替えがすんだ頃合いを見はからったかのように、一心が路地裏へ舞い戻ってきた。

 返却された花簪を懐へしまううちに、早梅がそれまで着ていた襦裙じゅくんをまとめたつつみを取り上げられる。


(デート中に彼女の荷物持ちを買って出る彼氏か!)


 あまりに自然な仕草すぎて、苦笑いがおさえられない。

 そもそも一心はなぜ、早梅に男装を持ちかけたのか。

 その真相は、手を引かれて路地裏から連れ出された往来で、明かされる。


「ここ燈角とうかくがある陽北ようほく地域は、高山にかこまれた山地気候で、高原からの風もあり、夏は涼しい傾向にあります」

「そういえば、全然暑くないですね」


 いまは大体七月ごろにあたると思うが、うだるような暑さというのを感じたことがない。

 日中はすごしやすい反面、朝は冷え込んで肌寒いため、眠るときは毛布が欠かせないくらいだ。


志河しがの分流をいただく水郷でもありますし、夏季はとくに、観光と避暑を目的とした人々でにぎわうのですが、ちょっと問題がありまして」

「問題……というと?」

「おとずれる方のなかに、気になる御仁がいらっしゃるのです。この街の中心部に、桁違いに立派なお屋敷があります。きくところによると、貴泉きせん太守たいしゅの別宅で、毎年夏頃に門が開くのだそうです」

「太守も、避暑のためにいらしているということですか?」


 半歩先で朗々と歩みをすすめていた一心が、ふいに足をとめ、早梅をふり返る。

 そこはちょうど、街路樹の陰にあたる場所。


「えぇ。ですが燈角へ向かう太守御一行のなかに、例年とはちがう顔ぶれが見られたとか」

「ご家族や親戚の方ではないのですか?」

「ふつうはそう考えるのが妥当でしょうね。ですが貴泉郡太守は、皇室と関わりの深い官僚のひとりです」

「──! それは!」

「こんなうわさがあります。『燈角の豪邸が太守の別宅であるというのは表向きで、実際は皇帝陛下がつくらせた離宮ではないか』と」


 ささやき声ほどまでにひそめられた一心の言葉と木漏れ陽が、そよ風にゆれる。

 しばしの間、早梅は呼吸をわすれた。


「……皇室の関係者が、ここをおとずれると」

「可能性はなきにしもあらず、ですね。用心するに越したことはないでしょう」


 すこし考えれば、当然のことだった。

 ルオ飛龍フェイロンが、早梅を血眼になってさがしているだろうことは。


 ならば、天陽てんようからほど近い貴泉郡に皇室関係者の足が伸びたとしても、なんら不思議はない。ところで。


「一心さまは、どちらでその情報をお知りになったのですか?」


 皇室に関係する情報となると、そう簡単に足はつかないはずだが。


「『獬幇かいほう』には独自の情報網があるんです。先日、ラン族から伝書鷹がやってきました」

「なるほど」


 もっとも酷い迫害を受ける狼族は、皇室の動向にも敏感なのだろう。

 おなじ獣人同士、警告をこめてマオ族へしらせるのもうなずける。


「しばらくは狼族にまかせて、われわれはひっそりと、様子をうかがうのがいいでしょうね」

「狼族が、この街に来るのですか!」


 ほぼ無意識の発声だった。ひとつまばたきをした琥珀の双眸を受けて、早梅は我に返る。


「すみません、つい……」

「いえ、梅雪さんのおっしゃるとおりですよ。今朝方ちょうど狼族の方々がいらしていて、族長さまに、街のご案内をさしあげたところだったんです」

「それでご不在だったんですね」

「狼族にお知り合いでも?」

「えぇ、まぁ……おさない男の子が。みじかい間でしたがいっしょにいて、私のことをよく慕ってくれたんです。憂炎ユーエンっていうんです。弟みたいな存在でした」


 一瞬の静寂。


 なにかおかしなことでも言ったろうかと一心を見上げれば、


「そうなんですね。狼族は警戒心が強く、なかなか懐かないときくのですが、梅雪さんはすごいですね」


 と満面の笑みが。似たようなことを紫月ズーユェにも言われた気がする。早梅はなんだか笑ってしまった。


「梅雪さんは、その狼族の少年に会いたいですか?」

「あの子には、あの子の人生がありますから」


 正直狼族の族長が、あの日離ればなれになった少年の消息を知らないか、期待もしていた。けれど。


「憂炎がどこかで元気に暮らしているなら、私はそれだけで充分です」


 かつての後悔を、まったく関係のない一心にぶつけるのは、お門違いだろう。


「会いたいんですね」

「うっ……!」


 そうしてせっかく張った虚勢すら、一心にたやすく見破られてしまうのだが。


「えぇっと、その!」


 ばつの悪い早梅は、もごもごと口ごもりながら、苦しまぎれに突拍子もないことを口走る。


「そ、そんなことより、狼族の族長さんって、どんな方なんですか!」


 しん……と沈黙がおとずれ、早梅は頭をかかえた。

 話題転換にしても不自然すぎる。


 穴があったら入りたい早梅をよそに、おだやかな声音が、うなだれた頭上へふってくる。


「お優しそうな方でしたよ。……優しく、冷たく笑う青年でした」


 声をひそめた一心がなにを言わんとしていたのか、早梅はわからない。

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